1話 綻び
あれから十一年。遠く離れた森の奥で、ひとりの少女が朝を迎えた。
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天窓から差し込む朝の陽光は淡く、部屋には晩秋らしい冷気が満ちていた。
リラはまどろみの中で、鼻先をかすめる冷たい空気と、それとは対照的な温かな重みを感じ、ゆっくりと目を開けた。
「……おはよう、みんな」
体を起こそうとして、何匹もの猫に阻まれていることに気付いた。
リラの右腕を枕に、褐色の毛並みに黒い斑点を散らしたレオが、豹を思わせる大きな体を横たえて、喉をゴロゴロと鳴らしていた。
左側では、青灰色の豊かな毛並みに白いハチワレ模様を持つノエルが、前脚を胸の下へしまい込み、眠たげに目を細めていた。
そして胸の上では、雪のように白い子猫のルナが小さく丸まり、澄んだ青い瞳でリラを見つめていた。
「リラ、今日はいつもより遅いよ」
「ごめんね、ルナ。みんなが温かくて、つい寝過ごしちゃった」
リラが笑いながら撫でると、ルナはわずかに目を細め、胸の上から飛び降りた。
その直後、寝室の扉が勢いよく開いた。
「おはよー、リラ! お魚もう焼いてるよ! 早く来て、ぼくもう腹ぺこだよ!」
赤褐色の猫、トウカが弾むように飛び込んできた。
床を蹴るたびに足元から小さな火花が散り、部屋の空気がじんわりと温まっていった。
くるりと部屋を一周し、そのまま廊下へ飛び出そうとしたところで、三毛模様のセナと鉢合わせた。
「トウカ、こんなところで火を使わないで。家までこんがり焼くつもり?」
セナはすれ違いざまに薄い霧を立ちのぼらせ、床に残った火花をすっと消した。
何事もなかったように身を翻すと、そのままトウカを追っていった。
リラは、今日も変わらない賑やかな朝に頬を緩め、ベッドから抜け出した。
白銀の髪がさらりと肩を滑り、細い組紐に通された古びた猫紋の指輪が胸元で揺れた。
階段を下りるにつれ、暖炉の熱と賑やかな気配が近づいてきた。
一階の食堂に入った途端、奥の台所から魚の少し焦げた匂いが鼻をかすめた。
「またトウカがお魚を焦がしてるね」
ルナが台所へ視線を向け、ぽつりと言った。
「焦がしてない! ちょっとこんがりしただけ!」
威勢よく言い返したものの、トウカの尻尾の先は落ち着きなく揺れていた。
「それを焦げたと言うのよ」
セナが涼しい顔で言い放つと、トウカは耳をぴんと立てた。
「違います!」
その後もぶつぶつと不満をこぼしながら、トウカが前脚を上げると、焼き上がった川魚がふわりと宙へ浮かび、次々と皿へ移っていった。
「ふふっ、朝から元気だね」
リラは思わず吹き出し、台所へ入った。
保存していたパンを切り分け、薬草茶を淹れると、出来上がった朝食を皆の席へ運んでいった。
配膳を終えて席に着くと、階段がみしみしと鳴り、レオが大きな欠伸をしながら駆け下りてきた。
そのままリラの隣の椅子へ飛び乗った。
「なぁ、リラ。今日は南の沢まで行かねぇか? 月見草の根が採り頃らしいぜ」
「いいね、そうしよう。ノエル、南の沢の様子はどうかな」
食卓の端では、いつの間にか席に着いていたノエルが、湯気の立つ薬草茶に鼻先を寄せていた。
名前を呼ばれると、白いハチワレの顔をゆっくりと上げた。
「今の時期なら、ちょうど採れるよ。僕が案内する」
そう答えたノエルは、森の様子を確かめるように窓の外へ視線を向けた。
穏やかな朝食の最中、銀灰色の縞模様を持つテトが、窓からひょっこりと顔を出した。
大きな耳をぴくぴくと動かし、口には太ったトカゲをくわえていた。
テトは獲物を窓枠に置くと、得意げに胸を張った。
「見て見て、捕まえたよ! これ、食べていい?」
「テト、そういうのは外で食べなさいって言ったでしょ」
「えー、ここで食べたいのにぃ」
セナにたしなめられ、テトは不満げに鼻を鳴らした。
トカゲをくわえ直すと、窓枠から外へ飛び降りていった。
朝食を終えると、リラは厚手のブーツを履き、腰にナイフを帯びた。
肩掛け鞄を下げ、背中に編み籠を背負って外へ出た。
足元では、踏みしめるたびに落ち葉がカサカサと心地よい音を立てた。
トウカは待ちきれない様子で庭先を駆け回り、レオは大きく伸びをしてリラの隣に並んだ。
ノエルが採取用の小袋を丁寧に確かめる傍らで、セナは入念に毛並みを整えていた。
テトはすでに木の柵から高い枝へ飛び移り、周囲を警戒するように見渡していた。
「よし! みんな、行こっか」
リラが声をかけると、ルナはリラの足元まで歩み寄り、開いた肩掛け鞄の中へするりと飛び込んだ。
「リラ様、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
玄関脇に控えていたのは、漆黒の毛並みをまとったネロだった。
「うん、行ってくるね! 夜の見張り、お疲れさま。ゆっくり休んでて」
リラが微笑みかけると、ネロは優雅に尻尾を揺らしながら目を細めた。
次の瞬間、家の輪郭が淡く揺らぎ、落ち葉と木々の影に紛れるように消えていった。
リラはネロに向かって手を振ると、森の奥へ足を踏み出した。
獣道へ入ると、レオとノエルが先頭に立ち、慣れた様子で進んでいた。
「リラ、こっちだ。霜で滑らねぇように気をつけな」
レオは軽やかに倒木を飛び越えると、リラを振り返った。
「レオ、あんまり急がないで。リラ、あの大きな岩の裏を見て。月見草の根が眠っているよ」
ノエルは地面に前脚を添え、土の奥へ意識を澄ませるように目を細めた。
月見草の群生地に着くと、トウカが待ちきれない様子でその場をくるくると回った。
「ぼく、ちょっと罠を見てきていい? 昨日の夜、いい音がしたと思うんだよね」
「もちろんいいよ。そっちはお願いね」
「まかせて! またあとでねー!」
トウカは弾丸のような速さで森の奥へ消えていった。
「私はあちらの沢へ行ってくるわ。今夜の煮込み料理に、川魚が必要でしょう?」
セナはしなやかな動きで、リラの足元に体を擦り寄せた。
「水遊びにならないようにね」
「ふふふ、心外だわ。仕事と遊びは別よ」
セナはそう言い残すと、水音のする方角へ去っていった。
テトは周囲の匂いを探るように鼻先をひくつかせ、大きな耳をぴんと立てた。
「あたし、向こうを見てくる!」
近くの木の幹を軽やかに駆け上がると、そのまま枝から枝へ飛び移り、森の奥へ消えていった。
「みんな行っちゃったね。じゃあ、私たちも始めようか」
「おう、やるか。このあたりを掘ればいいのか?」
「うん。根を傷つけないように、ゆっくりやろう」
レオとノエルが慎重に地面を掘り、リラは姿を現した月見草の根を傷つけないように抜き取った。
ついた土を丁寧に払い落とし、傍らに置いた籠へ収めていった。
採取は順調に進んだ。
ノエルが籠の縁に前脚を添えると、ひんやりとした冷気が中へ流れ込み、月見草の根を包んだ。
森は穏やかだった。
鳥のさえずりと、風に揺れる葉の音——その心地よい調和が、ふいに途切れた。
「……?」
リラが手を止めると、ノエルとレオも同時に顔を上げた。
レオは耳を後ろへ伏せ、喉の奥から地響きのような唸り声を漏らした。
「リラ、オレの後ろに来い。動くなよ」
レオからは先ほどまでの陽気さが消えていた。
低く身を構えたその体から、鋭い殺気が静かにあふれ出していた。
視界の端で、枯れ果てた大樹の根元にある茂みが不自然に揺れ、その奥で何かがかすかに瞬いた。
誰かに見られている。
ぞくりと背筋が震えた。
「……リラ、もう行こうか」
鞄の中から顔を出したルナが、低く静かな声で言った。
その声を聞いた瞬間、リラを縛り付けていた圧迫感が、ふと消えた。
「ルナ、今のは?」
「大したことじゃないよ」
そう答えながらも、ルナの青い瞳は古い大樹のあたりから離れなかった。
レオの唸り声もほどなく途切れ、張り詰めていた空気がわずかに緩んでいった。
リラがもう一度だけ振り返ると、古い大樹の根元では、茂みが風に揺れているだけだった。
それでも、誰かに見られていた感覚は、肌にまとわりついたまま消えなかった。




