プロローグ
静寂が支配する夜の城で、一人の王女が産声を上げた。
月光のような白銀の髪に、左右で異なる瞳を持つ赤子だった。
「これはまさか、あの……!」
赤子を目にした侍医の顔が青ざめた。
古き予言を思わせる姿に、産室にいた者たちも息をのみ、誰一人として言葉を発することができなかった。
ほどなくして、王が側近を集めたという知らせが王妃のもとへ届いた。
王妃はその意味を悟った——王は娘を生かしておくつもりはないのだと。
城内が慌ただしさを増す中、忠実な侍女の手引きによって、見張りの交代に一瞬の隙が生まれた。
王妃はその機を逃さず、そっと身を起こした。
赤子を胸に抱き、古い隠し通路を抜けて城の裏手にある森を目指した。
一歩踏み出すたびに鋭い痛みが走り、何度も足が止まりかけた。
それでも歯を食いしばり、壁に手をつきながら先へ進んだ。
やがて王妃の影から、一頭の漆黒の豹が音もなく姿を現し、ふらつく主の傍らに寄り添った。
黒豹が一度だけ、促すように低く喉を鳴らすと、王妃は苦痛に顔を歪めながらも、わずかに頷いた。
どれほど歩いただろうか。木々の奥で、黒豹がぴたりと足を止めた。
その瞳は、さらに深い闇を見据えていた。
王妃は赤子を抱いたまま、大樹の根元へ崩れ落ちるように膝をついた。
足を伝う生温かい感触が、肉体の限界を容赦なく告げていた。
腕の中の赤子を根元へ横たえると、王妃は震える手を衣の内側へ差し入れ、猫紋の指輪を取り出した。
髪をまとめていた結い紐をほどいて指輪へ通し、それを眠る我が子の首へ掛けた。
そして、自らの首に掛かる長い鎖をたぐり寄せ、その先で揺れる半透明の小さな珠を両手で包み込んだ。
「古き縁の祖よ。どうか、この子を繋いでください。このままでは、予言を恐れる者たちに命を奪われてしまいます。どうか——」
祈りは暗い森の奥底へと吸い込まれていった。
その直後、傍らの黒豹がわずかに身を強張らせた。
王妃もまた、森の奥から何かに見つめられているような気配を感じ、息を止めた。
敵意は感じられなかったのに、なぜか警戒を解くことができなかった。
木々の隙間から、一匹の白い猫が姿を現した。
月明かりを受けたその姿は、白雪のように淡く輝いていた。
子猫ほどの小さな体でありながら、その足取りに迷いはなかった。
身を強張らせていた黒豹は、ゆっくりと前脚を折り、深く頭を垂れた。
白い猫は傍らを静かに通り過ぎると、まっすぐ赤子のもとへ歩み寄り、慈しむように小さな鼻先をその頬へ寄せた。
張り詰めていた森の静寂を、ひとつの声が溶かした。
「リラ」
小さな声は、不思議なほど鮮明に森へ響いた。
赤子の瞼がゆっくりと開き、金色と水色の瞳が、白い子猫の澄んだ青い瞳と重なった。
「リラ……」
王妃は、授けられた名を胸の内へ刻むように呟いた。
届くはずなどないと思っていた祈りに、確かな応えが返された。
その事実が胸へ満ちた途端、張り詰めていたものがほどけ、視界が涙に滲んだ。
赤子は再びゆっくりと瞼を閉じた。
王妃は震える腕で我が子を抱き寄せ、その小さな温もりを確かめるように頬を寄せた。
白い子猫は静かに身を翻し、木立の向こうへと姿を消した。
夜明けが近づくにつれ、王妃の鼓動は弱まっていった。
それでも、愛する我が子を抱く腕の力を緩めることはなかった。
黒豹は王妃の傍らに伏せ、森の冷気から守るように、大きな体を丸めて母子を包み込んだ。
王妃は、幼い頃から共に在り続けたかけがえのない半身に、頭を預けた。
「ごめんなさい、あなたまで……」
掠れた声に、黒豹は悲しげに、しかし愛おしげに小さく喉を鳴らした。
白み始めた森の中で、王妃の視界はゆっくりと霞んでいった。
腕の中の小さな温もりを確かめながら、傍らで黒豹がもう一度、かすかに喉を鳴らすのを聞いた。
それを最後に、王妃の意識は静かに途切れた。
王妃の腕から力が抜けるのと同時に、黒豹の呼吸も静かに途絶えた。
王妃の胸元で、半透明の珠に生じた細い亀裂が瞬く間に全体へ広がると、珠はかすかな音を立てて砕け散った。
母の腕と黒豹の体に包まれたまま、赤子だけは静かな寝息を立てていた。
やがて暗がりの奥に、二つの青い瞳が浮かび上がった。
『白銀のリラ ~猫に選ばれた王女~』を見つけてくださり、ありがとうございます!
本作は毎週火曜・土曜の20時に更新しています。
リラと七匹の猫たちの物語を、どうぞお楽しみくださいませ。




