12話 影
湿った土壁の向こうから響いた音に、洞窟の空気が張り詰めた。
トウカの灯した小さな火だけが、暗闇の中でかすかに揺れていた。
ネロは入口の前から動かず、外の気配へ耳を澄ませていた。
乱れた漆黒の毛並みには疲労が滲み、足元から伸びた影が入口を塞ぐ土を覆っていた。
やがて、すぐ外で獣が短く鋭く喉を鳴らした。
「どうした?」
男の低い声が返った。
獣はなおも何かを訴えるように鼻を鳴らし、地面を掻くような音を立てていたが、やがて静かになった。
「気のせいか。では、森の家へ向かう」
男の声とともに、人と獣の足音が少しずつ遠ざかっていった。
完全に聞こえなくなるまで誰も動かなかった。
レオが深く息を吐き、ノエルも力が抜けたようにその場へ座り込んだとき、リラも堪えていた声を漏らした。
「ねえ、どうして何も教えてくれないの? 私、ずっと黙ってついてきた。でも、もう限界だよ」
リラは皆を見回した。
「何から逃げてるの? どうして、そんなに警戒してるの?」
「あー、リラ。ちょっとした鬼ごっこだよ。ほら、ぼくらが勝ちそうだしさ……」
トウカが尻尾の先を落ち着きなく揺らしながら笑ってみせた。
誰も笑わなかった。
「トウカ」
セナに静かに名前を呼ばれ、トウカはしゅんと耳を伏せた。
その様子を見届けたセナが、今度はリラへ向き直った。
「あの人たちが何者なのか、私たちにも分からないの」
「分からない?」
「ええ。でも、私たちを探しているのは間違いなさそうね」
リラは思わず入口へ目を向けた。
レオは土壁へ耳を向けたまま、外の気配を探り続けていた。
「この前の鳥から話が広がったのかもしれないし、別の誰かかもしれない。まだ分かんないんだよ」
テトが声を潜めた。
「じゃあ、誰かも分からないのに、逃げてるの?」
鞄の口から、ルナが静かに顔を覗かせた。
「分からないからこそだよ」
リラが鞄へ視線を落とした。
「もし、見つかってはいけない相手だったら、正体を確かめてから逃げたのでは遅い。だから今は、姿を見せずに相手を見極めるしかないんだ」
「見つかってはいけない相手って……?」
問いかけが途切れると、洞窟の中に重い沈黙が広がった。
トウカの小さな火が揺れる中、誰も言葉を返そうとはしなかった。
「……いるんだね。そういう相手が」
セナがそっとリラの腕へ頭を寄せた。
そのとき、入口へ向けていたレオの耳がぴくりと動いた。
「来るぜ」
低い声に、皆の視線が入口へ向いた。
ネロもすぐに身を強張らせ、土壁を覆っていた影がわずかに揺れた。
遠ざかっていたはずの足音が、再びこちらへ近づいてきた。
人と獣の足音が重なり、やがて土壁のすぐ向こうで止まった。
獣が低く喉を鳴らし、その場を行き来する足音が聞こえた。
「……この辺りか?」
ネロの背中がわずかに強張り、入口を覆っていた影が濃さを増した。
「周囲を調べろ。魔力の痕跡がないか確認しろ」
いくつかの足音がゆっくりと洞窟の前を行き来し始めた。
トウカは灯していた火をさらに小さく絞った。
橙色の光は消えかけるほど弱まり、皆の輪郭をかろうじて浮かび上がらせるだけになった。
リラも声を出さず、身じろぎひとつせずに息を潜めた。
やがて、ネロの喉から小さく息が漏れた。
肩を大きく上下させながらも、入口を覆う影を保ち続けていた。
「ここだ。何かいる」
男の声がすぐ近くで響き、続いてジャリ、と土を踏む音がした。
リラは思わず息を止めた。
これ以上近づかれたら、見つかってしまう。
来ないで。お願いだから、これ以上近づかないで。
リラはぎゅっと目をつむった。
見つかりたくなかった。
自分のせいで、皆を傷つけたくなかった。
足元で何かが動いたような気がして、リラは恐る恐る目を開いた。
視線を落とした先で、足元の影が大きく揺れていた。
次の瞬間、その影は黒い波のように洞窟の床を走り、皆の足元に落ちていた影を次々と呑み込みながら、瞬く間に床一面へ広がっていった。
ネロが入口へ広げていた影もその中へ溶け込み、ひと続きの大きな影となって壁際まで押し寄せた。
リラは息を呑んだまま、その光景を見つめた。
影はそこで止まらず、入口を塞ぐ土の表面を這い上がると、そのまま土の中へ染み込むように消えていった。
直後、外から戸惑った声が上がった。
「……待て」
土壁のすぐ向こうにあった足音が止まった。
「どうしました?」
「……ここじゃない。あっちだ!」
わずかな間を置き、別の声が続いた。
「西だ。あちらの茂みの奥に魔力の残滓がある!」
「追うぞ!」
それまで近くにあった人と獣の足音が、一斉に西へ向かった。
その気配が遠ざかっていくにつれ、床一面に広がっていた影もゆっくりと引いていった。
やがて黒い広がりはリラの足元へ戻り、トウカの小さな火に照らされて、いつもの影へと収まった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
皆が互いに顔を見合わせる中、鞄の口から顔を覗かせたルナだけは何も言わず、リラの足元に戻った影をじっと見つめていた。
「……っ、ふぅ……」
ネロの身体がぐらりと傾き、四肢に力を込めてどうにか踏みとどまった。
「ネロ!」
リラが駆け寄ろうとすると、ネロは顔を上げて制するように首を振った。
「お見苦しいところを。少し、無理が過ぎたようでございます」
掠れた声でそう答え、壁へ身体を預けながら深く息を吐いた。
入口を覆っていた影も、ゆっくりとネロの足元へ戻っていった。
「本当に大丈夫?」
「少し休めば問題ございません」
レオは入口へ耳を向けたまま、遠ざかっていく足音を追っていた。
「行った? もう大丈夫?」
テトがおそるおそる尋ねた。
「行ったみてぇだな。だが、安心はできねぇ。もう誤魔化しきれねぇかもな」
ノエルがゆっくりと立ち上がり、土壁に前脚を触れると、入口を塞いでいた土が崩れ落ちた。
外から薄い光が差し込み、洞窟の中を少しずつ照らしていった。
静けさは戻ってきた。
けれど、それが安全を意味していないことは、リラにももう分かっていた。
リラは抱えていた籠を足元へそっと置くと、寄り添ってきた皆へ両腕を回し、その温もりを確かめるように目を閉じた。




