第一章 第二節「北方行き」
二十分後。
リディアは西棟の装備庫で、支給された冬季装備を確認していた。
厚手の外套。防寒手袋。予備弾倉。応急処置具。簡易通信器。
いずれも、北方方面軍で使っていたものより新しい。
手袋は指を曲げても布地が引きつらず、通信器の受話部にも罅一つない。
だからといって、生きて戻れるわけではない。
そのことだけは、よく知っていた。
机の端には、回廊から運んできた資料袋が置かれている。
厚い灰色の紙で作られ、口は細い紙帯で封緘されていた。継ぎ目には作戦第一課と戦略機動師団、二つの赤い割印が重なっている。
表に記されているのは、管理番号と短い任務名だけだった。
北方旧補給線、帰還経路確認。
リディアは通信器を腰へ固定し、資料袋を抱えた。
装備庫を出ると、夜勤を終えた士官たちが廊下の端を歩いていた。
未明の電文を抱えた通信兵が、その間を縫うように作戦区画へ向かっていく。
窓の外には、まだ夜の色が残っている。
中央軍本部では、すでに次の一日が始まっていた。
西側車寄せには、黒塗りの軍用車両が並んでいた。
先頭車両のそばに、クラウディアが立っている。
黒い冬季軍服。
その上には、いつもの白い佐官マントがあった。
黒鷹隊の装備とは明確に異なる白が、夜明け前の車寄せに浮いている。
リディアが近づくと、クラウディアの灰碧色の瞳が一度だけ動いた。
軍靴。
外套。
通信器。
最後に、腕に抱えた資料袋。
「乗って」
確認は、それだけだった。
「了解しました」
リディアが後部座席へ乗り込むと、クラウディアも向かいへ腰を下ろした。
白いマントの裾を整え、手にしていた配置表を開く。
扉が閉まり、車両が動き始めた。
中央軍本部の尖塔と黒灰色の外壁が、窓の外を後方へ流れていく。
「現地指揮は姉様が執る」
クラウディアは配置表を見たまま言った。
「僕は作戦図と実地の照合。君は僕の補助に入って」
「帰還経路の確認ですね」
「そうだよ」
白い手袋の指が、配置表の一行へ触れた。
「地図と現地が違った時、君が何を根拠に判断するのかを見る」
「北方での撤退判断を確認すると」
「半分はね」
クラウディアが顔を上げる。
「現地で経路を変更する必要がある場合は、先に僕へ報告して」
「命令された経路から外れる場合もですか」
「そのために僕が行く」
車体が石畳の継ぎ目で低く揺れた。
クラウディアは視線を配置表へ戻す。
「今回は、承認経路が残っている」
リディアはすぐには答えなかった。
北方では、報告を受け取る者を失ってから、自分で判断した。
今回は違う。
判断を伝える相手がいる。
その判断を記録し、責任を引き受ける上官もいる。
「了解しました」
車両は帝都中央駅の北側へ入った。
一般旅客用の駅舎から離れた軍用側線に、濃灰色の列車が停車している。
小さな窓。
装飾のない車体。
側面に記された帝国軍の識別番号。
ホームでは、黒鷹隊の隊員たちが乗車準備を進めていた。
黒い帝国軍制服。
肩に留められた黒金色の鷹章。
補給箱を運ぶ者。
封鎖器材を確認する者。
医療車へ担架を固定する者。
まだ誰も負傷していない。
それでも担架は、帰還時に必要となる装備として最初から積み込まれていた。
リディアとクラウディアが車両を降りる。
警備兵が白いマントに気づき、反射的に敬礼した。
クラウディアは短く答礼し、そのまま列車へ向かう。
ホームの先に、ヴィクトリアがいた。
黒いマント。
裏地の暗い深紅。
長い金髪は、低い位置で目立たない黒い金具に留められている。
二日前に戦略室で見た時と同じく、その顔には消しきれない疲労が残っていた。
それでも背筋は真っすぐで、隊員から上がる報告を一つずつ受け取っている。
「医療車、収容準備完了」
「封鎖器材、積載完了」
「通信系統、第三予備帯域まで異常ありません」
ヴィクトリアは短く頷いた。
「続けろ」
声を張ってはいない。
それでも、ホーム全体がその声を中心に動いていた。
ヴィクトリアの視線が、クラウディアへ移る。
「配置は」
クラウディアは手にしていた配置表を開いた。
「僕は作戦車両。現地では旧補給線と作戦図を照合する。ヴァルモント中尉は僕の補助だよ」
ヴィクトリアの視線が、リディアへ移った。
「外縁までか」
「現地の状態次第だね」
短い沈黙が落ちた。
ヴィクトリアは異議を返さなかった。
「ヴァルモント中尉」
「はい」
リディアは踵を揃え、敬礼した。
「現地では私の指揮下に入れ」
「了解しました」
「地図と現地が違う場合は、判断の前に報告しろ」
「承知しました」
ヴィクトリアは短く答礼した。
その右手が、黒いマントの内側へ入る。
黒い手袋の指先で、ごく細い紫光が一度だけ弾けた。
近くにいた黒鷹隊員は、誰も振り返らなかった。
ヴィクトリアも手を止めない。
「乗車を続けろ」
命令を残し、そのまま指揮車両へ向かっていく。
クラウディアは姉の背を見ていた。
視線が、右手へ一瞬だけ残る。
白い手袋に挟まれた配置表の端が、わずかに折れていた。
「少佐」
呼びかけると、クラウディアはすぐにリディアへ顔を戻した。
「何かな」
「……いえ」
リディアは言葉を飲み込んだ。
クラウディアも、問い直さなかった。
「乗って。作戦説明を続ける」
二人が乗り込んだ作戦車両には、床へ固定された長机と通信機器が並んでいた。
壁面には地図筒と記録箱が固定され、窓の下半分は厚い防護板で覆われている。
クラウディアは奥の席へ座った。
白いマントを脱がないまま、手を差し出す。
「資料」
リディアが資料袋を渡した。
クラウディアは表紙の管理番号と二つの割印を一瞥する。
白い手袋の指先が紙帯の端を持ち上げた。
紙が剝がれる乾いた音が、車内へ小さく響く。
中から取り出されたのは、三枚の地図だった。
中央軍の正式作戦図。
旧補給線が使用されていた当時の方面軍地図。
そして、ヴィクトリアが帰還後に作成した現地略図。
同じ区域を示しているはずなのに、三枚の線は重ならない。
正式図に記された第三退避路は、現地略図では途中で途切れている。
旧地図にある補給線は、正式図では閉鎖済みと記されていた。
だが、先日の帰還時、ヴィクトリアの部隊はその経路を使っている。
「確認するのは、この区間」
クラウディアの指が、旧補給線上を進んだ。
「中継地点から旧橋梁まで。そこから西へ折れ、封鎖線外へ出る」
「距離は」
「徒歩で二時間。負傷者を伴えば、倍以上」
「車両は通れたのですか」
「二台が通過している」
リディアは地図を見比べた。
等高線。
川の位置。
旧橋梁。
「橋が残っているなら、閉鎖記録が誤りです」
「橋が残っているならね」
クラウディアの指先が止まる。
「姉様の部隊は渡った。けれど、帰還後の再確認では橋梁を確認できなかった」
「積雪か、視界不良の可能性は」
「ある」
クラウディアは答えた。
「記録の誤りかもしれない。観測の誤りかもしれない。姉様の報告が間違っている可能性も、規則上は除外できない」
その言い方に迷いはなかった。
家族の証言であっても、記録として扱う時には他と分けない。
「だから現地で確認する」
列車が低く震えた。
連結器が噛み合い、車輪が動き始める。
ホームに並ぶ警備兵が敬礼した。
濃灰色の列車は、ゆっくりと帝都中央駅を離れていく。
窓の外を、黒灰色の建築群が流れた。
軍需工場。
凍った水路。
朝を待つ市街地。
やがて建物が減り、灰色の農地が広がり始める。
クラウディアは地図を畳まず、もう一枚の車両配置図を取り出した。
「確認しておくことがある」
「はい」
クラウディアは車両配置図の指揮車両を指した。
「アイゼンベルク家には、対戦争用の雷系術式が継承されている」
リディアは、ホームで見た細い紫光を思い出した。
「姉様の術式は紫電。国家戦略級に指定されている」
クラウディアの指が、指揮車両から隣接車両へ移る。
「出力が高すぎる。漏出すれば、周囲の術式と金属へ干渉する。人間も例外ではない」
「先ほど見えたものも、漏出ですか」
「そうだよ」
返答は短かった。
「漏出が拡大した場合、黒鷹隊が退避線を作る。その線を越えないで。許可なく近づかない。触れない」
「制御を失う可能性があるのですか」
クラウディアの指先が止まった。
「失わせないために、黒鷹隊がいる」
リディアは一拍置いて頷いた。
「了解しました」
列車は北へ進んだ。
線路脇に雪が増えていく。
初めは、地面へ薄く残っているだけだった。
やがて低い柵が埋まり、標識の下半分が見えなくなる。
車内の通信器は、一定の間隔で確認音を鳴らしていた。
クラウディアは三枚の地図を照合し続けている。
「窓の外を見て」
言われて、リディアは顔を上げた。
「間もなく旧監視塔を通過する」
正式図では、線路の東側に塔の記号がある。
旧地図にも、同じ位置へ四角い印が記されていた。
列車の速度なら、数秒後には見えるはずだった。
リディアは窓の外を見る。
雪に覆われた低い斜面。
凍りついた灌木。
白く埋もれた線路標。
その先に、塔はなかった。
崩れた残骸もない。
石組みの基礎もない。
何かを撤去した痕跡さえ見えなかった。
リディアは地図へ視線を戻した。
紙の上には、確かに監視塔が存在している。
クラウディアのペン先が止まった。
列車は速度を落とさず、北へ進んでいく。
地図には、塔が残っていた。




