第一章 第一節「合同確認任務」
ヴィクトリアが作戦第一課を訪れてから、三日後。
夜明け前の中央軍本部は、普段とは異なる緊張に包まれていた。
警報は鳴っていない。
非常呼集も発令されていない。
それでも、長い回廊を行き交う士官たちの足は速く、車寄せへ向かう資料箱と装備品が絶え間なく運ばれている。
リディア・ヴァルモント中尉は、封緘された作戦資料を抱え、西棟連絡通路を歩いていた。
前夜、オスカー大尉から渡された命令は一つだけだった。
午前五時三十分までに、資料を西側車寄せへ届けること。
内容についての説明はなかった。
回廊の角を曲がったところで、前方を歩いていた士官たちが自然に左右へ分かれた。
誰も指示していない。
敬礼を命じる声もない。
それでも、一本の道が開いていく。
その向こうから、軍靴の音が近づいていた。
重い。
規則的。
それでいて、奇妙なほど静かだった。
黒い帝国軍制服。
左肩に留められた、黒金の鷹の部隊徽章。
戦略機動師団第一特務戦術群――黒鷹隊。
隊員たちは無言で歩いていた。
整備を終えた装備には、落としきれなかった煤と細い焼け跡が残っている。前線から帰還して三日しか経っていない部隊が、再び出動準備へ入っていた。
誰も疲労を口にしない。
誰も周囲を見ない。
戦場の英雄の隣で壊れずにいることを、職務として受け入れた者たちの歩き方だった。
隊列の先頭に、長身の女性士官がいた。
長いプラチナブロンドを、低く束ねている。
黒い高襟制服。
前線勤務の佐官を示す黒いマント。その裏地には、暗い深紅が覗いていた。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク大佐。
顔色は白く、目元には消しきれない疲労が残っている。
それでも、歩調は乱れない。
周囲の誰よりも真っすぐに、一定の速度で歩いていた。
リディアは足を止め、敬礼した。
ヴィクトリアの視線が、一度だけこちらへ向く。
深紺碧の瞳。
三日前、戦略室で見た時と変わらない。
感情も迷いも、すべて命令の奥へ押し込めた目だった。
その時、黒いマントの奥で微かな紫光が弾けた。
一度。
続けて、もう一度。
空気に焦げた金属の匂いが混じる。
近くにいた士官の肩がわずかに強張った。
だが、誰も声を上げない。
黒鷹隊員も振り返らなかった。
ヴィクトリア自身も、何事もなかったように歩き続けている。
気づいていないのではない。
止める必要がないと判断しているのだ。
紫光が、黒い手袋の指先を這った。
リディアの視線が、そこへ止まる。
「見るな」
低い声が落ちた。
叱責ではなかった。
理由を問うことも許さない、短い命令だった。
リディアは背筋を伸ばす。
「……了解しました」
視線を下げる。
それでも、焦げた匂いは消えない。
ヴィクトリアの歩調が、一拍だけ遅れた。
ほんのわずかな変化だった。
すぐに元へ戻り、黒いマントがリディアの横を通り過ぎる。
その後ろから、白い佐官マントが近づいてきた。
黒鷹隊の黒い部隊徽章が並ぶ中で、その白だけが異質に浮かんでいる。
肩には、作戦第一課の白鷹徽章が留められていた。
クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐。
彼女もまた、出動装備を整えていた。
「資料は持ってきたね」
「はい」
リディアは抱えていた封緘資料を差し出した。
クラウディアは受け取らず、表紙に記された管理番号だけを確認する。
「それは君が持っていて」
「私が?」
「現地で使う」
クラウディアは隊列の先へ視線を向けた。
黒鷹隊はすでに車寄せへ向かい、回廊の奥へ消え始めている。
「ヴァルモント中尉。二十分以内に出動装備を整えろ」
リディアは一瞬、返答を忘れた。
「出動、ですか」
「次の封鎖確認に同行してもらう」
クラウディアの口調に、迷いはなかった。
三日前には決まっていたのだろう。
リディアが知らされていなかっただけで。
「黒鷹隊へ?」
「正確には、戦略機動師団と作戦第一課の合同確認任務だよ」
「私が選ばれた理由を伺っても?」
「地図が役に立たない場所で、君が何を見て判断するのか確認する」
クラウディアの視線が、リディアの腕に抱えられた資料へ落ちる。
「作戦図の修正だけなら、僕一人で足りる。ただ、撤退線は紙の上だけでは引けない」
「北方での経験を使えと」
「使えるものは使う」
率直な答えだった。
「そのために君を作戦第一課へ置いた」
リディアは、回廊の奥を見た。
ヴィクトリアの黒いマントは、もう見えない。
残っているのは軍靴の音と、わずかな焦げた匂いだけだった。
「アイゼンベルク大佐は、この同行を承知されているのでしょうか」
「異議は受けたよ」
クラウディアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「通すとは言っていないけれどね」
姉妹の会話が、容易に想像できた。
ヴィクトリアは必要ないと言い、クラウディアは必要だと判断した。
そして、作戦第一課の権限で配置を通した。
「現地では黒鷹隊の指揮系統に従って。独断で撤退線を外れる場合は、僕へ先に報告すること」
「大佐は同行を許可されるのですか」
「理由が正しければね」
クラウディアは踵を返した。
「遅れないで。姉様は待たない」
白いマントが、回廊の奥へ遠ざかっていく。
リディアは抱えていた資料の封緘を見た。
表紙には、任務名と目的地だけが記されていた。
旧観測線、封鎖状況確認。
地図照合不能区域。
北方の報告書で、自分の名前の隣に記された言葉と同じだった。
その先で待っているのは、黒鷹隊。
そして、先ほど「見るな」と命じた女。
リディアは資料を抱え直し、出動準備へ向かった。




