序章 第六節「撤退経路」
クラウディアは、ヴィクトリアから受け取った報告書を開いた。
数枚目で、灰碧色の瞳が止まる。
「姉様。第三退避路は使用しなかったの?」
「使用不能だった」
ヴィクトリアは戦況地図を見たまま答えた。
「作戦図と現地の地形が一致していない。先行した二個分隊が進路を失った」
クラウディアの指先が、報告書の一行をなぞる。
「標識の破損ではなく?」
「標識そのものがなかった」
「観測記録では、三日前に確認されている」
「現地には痕跡もない」
短い応答が続くたび、戦略室の空気がわずかに重くなっていく。
作戦図を作成し、撤退経路を指定したのは作戦第一課だった。
地図が誤っていたのなら、それは現場だけの問題ではない。
クラウディアは戦況地図へ視線を移した。
「それで、どう戻したの?」
「第二退避路を放棄した。旧補給線を使った」
「記録上は閉鎖されている」
「記録が間違っていた」
ヴィクトリアは、ただ事実として告げた。
クラウディアは反論しなかった。
代わりに、第三列へ目を向ける。
リディアは席を立ったまま、二人の会話を聞いていた。
「ヴァルモント中尉」
「はい」
「北方第三撤退線で、君も指定経路を外れているね」
着任前の報告書に記された内容だった。
「事前承認なく、地図照合不能区画へ入った」
「その通りです」
「なぜ?」
リディアは、北方の白い地形を思い出した。
雪に埋もれた標識。
地図にはない斜面。
進んだはずの先から戻ってくる、自分たちの足跡。
「地図と現地が合っていなかったためです」
「どちらを信じた?」
「現地です」
クラウディアの目がわずかに細くなる。
「判断根拠は?」
「風向きと地面の傾斜。それから、負傷者を運べる幅が残っているかどうかです」
地図の上では最短でも、負傷兵を連れて通れない経路には意味がない。
「正規の撤退路を使えば、七名は置いていくことになっていました」
「だから外れた」
「はい」
短い沈黙が落ちた。
ヴィクトリアの深紺碧の瞳が、もう一度リディアへ向く。
先ほどより長い視線だった。
「結果として三十七名が戻った」
「全員の判断です」
「命令を出したのは君だ」
リディアは答えなかった。
クラウディアは報告書を閉じた。
「次の封鎖確認には、作戦第一課からも人員を出す」
ヴィクトリアの視線が、妹へ戻る。
「必要ない」
「必要だよ」
声は穏やかだった。
それでも、クラウディアは引かなかった。
「作戦図と現地が一致していない。これは姉様の部隊だけで処理する案件じゃない」
「現地の負担が増える」
「だから僕も行く」
戦略室の数人が、わずかに顔を上げた。
作戦第一課課長が自ら前線確認へ出る。
日常的な判断ではない。
ヴィクトリアは数秒、クラウディアを見た。
「作戦指揮は私が取る」
「異論はないよ。僕は、帝都で作った盤面が現地でどこまで壊れているかを確認する」
クラウディアは報告書を机へ置いた。
「作戦第一課の同行人員はこちらで選ぶ」
「足手まといは置いていけ」
「もちろん」
そう答えながら、クラウディアの視線が第三列を通過した。
ほんの一瞬だった。
だが、リディアには分かった。
見られた。
評価されたのではない。
すでに、どこへ置くかを決める目だった。
ヴィクトリアもその視線に気づいたらしい。
深紺碧の瞳が、再びリディアの北方識別章へ止まる。
それでも、何も言わなかった。
クラウディアは次の書類を引き寄せる。
「正式な配置は、後で通達する」
会話はそこで終わった。
戦略室に紙の音が戻る。
だが、リディアの机に置かれた北方戦線図だけが、先ほどまでより近く見えた。




