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帝国の華-愛と忠誠は、誰のために-  作者: 帝国の華
序章

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序章 第五節「帝国の黒鷹」


食堂で聞いた名は、その日の夕刻、作戦第一課の扉の向こうで現実になった。


帝国中央軍本部、作戦第一課。


壁面の戦況地図には、北方、西方、国境方面の更新情報が絶え間なく反映されていた。


損耗率を示す赤線。


途切れかけた補給経路。


到着の遅れている増援部隊。


撤退を検討すべき戦線には、淡い警告表示が重ねられている。


戦況は、声を上げることなく悪化していた。


リディアは第三列の席で、北方方面から届いた報告書を読み進めていた。


中央軍へ着任して、まだ一日も経っていない。


それでも、この場所の性質は分かり始めていた。


誰も怒鳴らない。


状況が悪化しても、声を荒らげる者はいない。


報告は短くなり、書類の回る速度が上がり、承認を待つ赤い札が増えていく。


それだけで、前線のどこかで人が死に始めていると分かる。


リディアが次の報告書へ手を伸ばした時、入口に近い席から低い声が漏れた。


「……師団長が来る」


近くの士官が顔を上げる。


「戦略機動師団の?」


「西方第三線から、直接こちらへ向かっているらしい」


会話はそこで途切れた。


誰も露骨に扉を見ようとはしない。


それでも、書類をめくる音が減った。


若い少尉が無意識に背筋を伸ばし、机上の資料を揃え直している。


昼の食堂で聞いた囁きを、リディアは思い出した。


戦略機動師団長、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク大佐。


――帝国の黒鷹。


最奥の指揮席では、クラウディアが変わらず書類へ目を落としていた。


周囲の変化に気づいていないはずはない。


ただ、反応する必要がないと判断しているのだろう。


「アイゼンベルク少佐」


呼びかけると、灰碧色の瞳だけがリディアへ向いた。


「何かな、ヴァルモント中尉」


「黒鷹隊について、伺ってもよろしいでしょうか」


クラウディアのペン先が、書類の上で止まった。


「……どこまで知っている?」


「異常戦域の封鎖と、汚染区域からの生存者回収を担う部隊だと」


「間違いではないよ」


クラウディアはペンを置いた。


「正式には、戦略機動師団直轄の第一特務戦術群。通称、黒鷹隊」


その声に余分な強調はなかった。


「異常災害だけを扱う部隊ではない。崩壊しかけた戦線、高危険度の撤退作戦、通常部隊では維持できなくなった区域にも投入される」


「最後に出る部隊、ということですか」


「そうだね」


クラウディアは短く答えた。


「黒鷹隊が出る時点で、通常の作戦はすでに破綻している」


北方で聞いた噂と同じだった。


補給が途絶えた場所。


撤退線を塞がれた部隊。


残された兵士を切り捨てるか否か、上層部が判断を下すまでの空白。


黒鷹隊は、その空白へ投入される。


「それほど恐れられている部隊なのですか」


問いかけると、クラウディアはわずかに目を細めた。


「皆が恐れているのは、部隊そのものではないよ」


一拍置く。


「姉様が必要になるほど、状況が壊れているという事実だ」


姉様。


昼に聞いた軍事名門の構造が、リディアの中で一つに繋がった。


作戦第一課長、クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐。


戦略機動師団長、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク大佐。


同じ家に生まれた姉妹が、片方は机上から戦線を組み直し、もう片方は崩れた戦場へ直接投入されている。


「前線では、黒鷹が来たなら助かると言われていました」


「同時に、黒鷹が来る時点でもう終わりだ、とも言われていただろう?」


リディアは黙って頷いた。


どちらも、前線で何度も耳にした言葉だった。


クラウディアは再び書類へ手を伸ばした。


「どちらも正しいよ」


それ以上の説明はなかった。


直後、扉の向こうから軍靴の音が聞こえた。


一つ。


少し遅れて、もう一つ。


急いでいるわけではない。


それでも、足音が近づくにつれて、戦略室から私語が消えていく。


軍靴の音が扉の前で止まった。


室内にいた士官たちが、一斉に席を立つ。


重い扉が開いた。


最初に見えたのは、黒いマントだった。


前線勤務の佐官であることを示す黒。


その下には、黒い高襟制服。長いプラチナブロンドは低い位置で束ねられている。


背が高い。


扉をくぐっただけで、室内が狭くなったように感じた。


ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク大佐。


その名を告げる者はいなかった。


必要がなかった。


士官たちは姿勢を正し、敬礼する。


ヴィクトリアは室内を一度見渡し、短く答礼した。


「続けろ」


低い声だった。


大きくはない。


それでも、止まっていた戦略室が再び動き始める。


書類をめくる音が戻り、術式盤の表示が更新される。


だが、誰も先ほどと同じようには呼吸していなかった。


ヴィクトリアは、一人の連絡士官を伴って指揮席へ向かった。


黒いマントの裾には、乾いた泥と焼け跡が残っている。磨かれた軍靴にも、前線から戻ったばかりの痕跡があった。


クラウディアは席を立った。


「姉様。西方第三線の状況は」


ヴィクトリアは、携えていた報告書を差し出した。


「撤退は完了した。残存部隊は後送済みだ」


勝利した、とは言わなかった。


何人を倒したのかも語らない。


戻せた者だけを報告した。


「損耗報告は?」


「別紙に記載した」


クラウディアが報告書を受け取る。


その瞬間、天井の照明が一度だけ明滅した。


白い光が揺れ、空気にかすかな焦げた金属の匂いが混じる。


リディアの肩が反射的に強張った。


術式反応。


それも、本人が意識して発動させたものではない。


ヴィクトリアの黒い手袋の指先で、細い紫光が一瞬だけ弾けた。


すぐに消える。


近くにいた士官は顔を上げなかった。


見慣れているのではない。


見てはならないものとして、扱い方を知っているのだ。


クラウディアの視線が、姉の右手へ落ちる。


「術式負荷は」


「任務に支障はない」


「医務確認は済ませた?」


「済ませた」


短い応答だった。


クラウディアはそれ以上追及せず、受け取った報告書を開く。


だが、紙を押さえる指先が、ほんのわずかに強くなっていた。


ヴィクトリアが戦況地図へ目を向ける。


その視線が、途中で止まった。


第三列。


リディアの肩口にある、黒銀色の識別章。


深紺碧の瞳が、まっすぐにリディアを捉えた。


視線を向けられただけで、北方の吹雪の中へ戻されたような感覚があった。


冷たいのではない。


静かすぎる。


感情も迷いも、すべて命令の奥へ押し込めた目だった。


「第三撤退線」


問いではなかった。


リディアは席を立ち、敬礼する。


「リディア・ヴァルモント中尉です」


「三十七名を戻した中尉か」


リディアは一瞬だけ黙った。


「私一人で戻したのではありません」


ヴィクトリアの視線が、わずかに止まる。


「全員で戻りました」


短い沈黙。


「そうか」


それだけだった。


ヴィクトリアは戦況地図へ視線を戻す。


紫電の残滓が、黒い手袋の上で一度だけ淡く明滅し、消えた。


リディアは敬礼を解きながら、ようやく理解した。


食堂で、その名だけが食器の音を減らした理由を。


戦線が崩れた時。


撤退線が失われた時。


帝国が、まだその場所を捨てていない時。


最後に送り込まれる軍人。


それが、帝国の黒鷹だった。


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