序章 第四節「軍事名門貴族」
ティエリアは、スープを一口飲んだ。
白い湯気が、二人の間をゆっくりと上っていく。
第二士官食堂には多くの将校がいたが、会話はどれも低く抑えられていた。時折、食器の触れ合う音だけが、高い天井へ明瞭に響く。
向かいに座るティエリアを見ていると、わずかに学院時代へ戻ったような気がした。
もっとも、互いの制服に留められているのは、もう候補生章ではない。
同じ黒い帝国軍制服。
リディアの肩には中尉の階級章と、黒銀色の北方従軍識別章。ティエリアの襟元には、情報分析局所属を示す銀白の徽章が留められていた。
「アイゼンベルク少佐が、リディアに興味を持ったのなら」
ティエリアはスープへ視線を落としたまま言った。
「しばらく、自分の配置には気をつけた方がいいと思います」
リディアは、パンを千切る手を止めた。
「配置に?」
「必要だと判断した人間を、最も機能する場所へ置く方ですから」
「軍人としては、正しいのでは?」
「ええ。正しいです」
ティエリアは静かに頷いた。
「正しすぎるから、気をつけてほしいんです」
指揮席から数えて第三列。
新任中尉が置かれても不自然ではなく、同時に、課長席から動きのすべてが見通せる位置。
クラウディアが、あの席を偶然選んだとは思えなかった。
「アイゼンベルク家は、中央軍でも特別な一族なのでしょうか」
「特別、という言葉では足りないかもしれません」
ティエリアは、一つずつ確認するように名を挙げた。
「元帥府。監察総監部。戦略機動師団。そして、作戦第一課」
国家規模の作戦を決める元帥府。
軍内部を監視する監察総監部。
通常部隊では対処できない戦場へ投入される戦略機動師団。
そして、帝国軍全戦線の作戦を組み立てる作戦第一課。
いずれも、帝国軍の意思決定と運用を担う中枢だった。
「軍の中心を辿れば、どこかでアイゼンベルクの名に行き着きます」
帝国軍は、半分がアイゼンベルク家でできている。
前線で何度か耳にした言葉を、リディアは思い出した。
酒と苦笑を交え、兵士たちが半ば冗談のように口にする話だった。
だが、作戦第一課の扉へ刻まれた鷹の紋章と、その奥にいた白いマントの少佐を見た後では、ただの冗談とも思えない。
「そこまで深く、軍の中枢に?」
「ええ」
ティエリアは迷わず答えた。
「優秀であることを求められ、実際に結果を出し続けてきた家です」
スプーンが、器の縁へ小さく触れた。
「だから帝国軍も、彼らを使い続けている」
その言い方が、リディアには少し引っかかった。
アイゼンベルク家が帝国軍を動かしているのか。
それとも、帝国軍がアイゼンベルク家を使っているのか。
どちらとも取れる言葉だった。
「作戦第一課も、やはり厳しい部署ですか」
「結果を出せる人間には、居場所のある部署だと思います」
「出せなければ?」
ティエリアは、一度だけリディアの顔を見た。
「配置が変わります」
それ以上は言わなかった。
左遷。転属。前線への再配置。
口にされなかったものの方が、よく伝わった。
リディアは、千切ったパンをスープへ浸した。
「ティエリアは、情報分析局でしたね」
「はい」
「どのような仕事を?」
ティエリアは、わずかに間を置いた。
話してよい範囲を選んでいるのだろう。
「戦況分析、敵国情報の整理、通信記録の照合。各部署から提出された報告の矛盾も確認します」
「矛盾?」
「兵站、人員、命令系統。戦線が崩れる前には、必ずどこかの記録に歪みが生じます」
ティエリアはスプーンを置いた。
「情報分析局は、それを見つける部署です」
「勝つ方法を探すのではなく?」
「負け始めている場所を探す、と言った方が近いですね」
静かな言葉だった。
リディアは、北方の補給倉庫を思い出した。
届くはずの食料が届かず、弾薬箱の数が報告書と合わなくなった。
通信が途切れるより前に、兵士たちの会話が減っていた。
部隊は砲撃を受けた瞬間に崩れたのではない。
もっと前から、誰にも気づかれないまま壊れ始めていた。
「戦争は、前線だけで壊れるわけではありませんから」
ティエリアは、リディアの表情を見ながら言った。
「……やはり、変わりましたね」
「私が?」
「以前より、視線を動かす範囲が広くなりました」
ティエリアの瞳が、リディアの背後へ一瞬だけ向く。
「出入口。窓。人の配置。給仕の利き手まで確認しています」
指摘されて初めて、自分が食堂内を見続けていたことに気づいた。
「観察されていますね」
「昔から得意でしたから」
ティエリアは悪びれずに答えた。
静かで、よく人を見ている。
こちらが言葉にするより先に、小さな変化を拾い上げてしまう。
そういうところは、学院時代から変わっていなかった。
「ティエリアも、変わっていませんね」
「そうでしょうか」
「少し安心しました」
スプーンの柄に触れていたティエリアの指が止まった。
「……それは、どういう意味ですか」
「昔と同じように話せるので」
リディアが答えると、ティエリアは目を伏せた。
「そうですか」
それだけだった。
だが、スープへ戻した視線は、先ほどよりわずかに柔らかく見えた。
「直属の上官も、情報分析局の方ですか」
「はい」
ティエリアは、わずかに姿勢を正した。
「エルゼ・フォン・ヴァイスベルク少佐です」
ヴァイスベルク。
その名にも聞き覚えがあった。
アイゼンベルクが戦場と軍略を担う家なら、ヴァイスベルクは記録と観測を担う軍事名門。
剣ではなく、帝国の記憶を管理する一族だと聞いたことがある。
「白梟と呼ばれている方ですか」
「ご存じでしたか」
「名前だけは」
ティエリアは小さく頷いた。
「第三資料管理室の管理者でもあります」
「どのような方ですか」
問いかけると、ティエリアはすぐには答えなかった。
感情を探しているのではない。
最も正確な表現を選んでいるようだった。
「記録を、記録のまま扱える方です」
「記録のまま?」
「同情で書き換えず、嫌悪で消さず、必要な場所へ残す」
ティエリアの指先が、盆の縁へ触れる。
「それができる人は、あまり多くありません」
尊敬しているのだろう。
だが、親しんでいるようには聞こえなかった。
「厳しい上官ですか」
「判断は厳密です」
ティエリアは答えた。
「ただ、理由なく人を切り捨てる方ではありません」
その時、食堂の入口を一人の連絡士官が足早に横切った。
黒い帝国軍制服。
左肩には、翼を広げた黒鷹の部隊徽章が留められている。
連絡士官は食堂へ入らず、そのまま奥の通路へ消えていった。
それでも、徽章へ気づいた将校たちの間から、抑えた声が漏れる。
「黒鷹隊が戻ったらしい」
「西方第三線からか」
「北方の封鎖区域だと聞いた」
「師団長は?」
「戦況報告へ直行したそうだ」
囁きは長く続かなかった。
誰かが制止するより早く、将校たちは食事へ視線を戻している。
だが、食堂から聞こえる食器の音は、先ほどより明らかに減っていた。
「黒鷹……」
リディアは、無意識にその名を口にした。
北方でも、何度か耳にしたことがある。
異常戦域の封鎖。
汚染区域からの生存者回収。
戦況が崩れ、通常部隊では支えられなくなった前線への投入。
補給が途絶えた場所。
撤退線を塞がれ、帰還の手段を失った部隊。
黒鷹隊が来る。
その噂は、勝利を意味しなかった。
その部隊が投入される時点で、戦場はすでに通常の作戦では立て直せなくなっている。
切り捨てる以外の選択肢が消えかけた時、黒鷹隊は投入される。
それでも、まだ放棄命令は出ていない。
帝国が、そこに残された兵士を完全には捨てていないということだった。
顔を上げると、ティエリアの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
同期ではなく、情報分析局の士官として何かを測る目になっている。
「黒鷹隊について、何か知っているのですか」
ティエリアは、連絡士官が消えた通路を見ていた。
「中央軍で、知らない者はいません」
紫がかった青い瞳が、静かにリディアへ戻る。
「戦略機動師団長、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク大佐」
一拍の沈黙。
姿を見せていない一人の大佐の名が、食堂の静けさをさらに深くした。
「――帝国の黒鷹です」




