序章 第三節「同期との再会」
短い電子音が、帝国中央軍本部の館内へ響いた。
『全中央軍部署へ通達。正午をもって、昼間待機時間へ移行する』
感情のない女性音声が途切れる。
間を置かず、遠くの時計塔から重い鐘の音が届いた。
正午。
形式上は、昼の休憩時間だった。
それでも、作戦第一課の空気はほとんど変わらない。
書類をめくる音。ペン先が紙を走る音。軍靴が黒石の床を擦る音。
数名の士官が席を立っただけで、残った者たちは変わらず机へ向かっている。
リディア・ヴァルモントは、第三列の席から周囲を見回した。
前線にも休憩はあった。
食事は、取れる時に取る。補給と警戒の合間に、冷えた携行食を水で流し込む。それだけの時間だった。
途中で砲撃が始まることもある。警報が鳴れば、食べかけのまま立たなければならない。
北方では、温かいものを口にできるだけで恵まれていた。
中央軍は違う。
戦場から届いた報告書が積み上がっているにもかかわらず、ここには血の匂いも、負傷者の呻きもない。
あまりに整えられた静けさが、戦争そのものを遠く感じさせる。
もちろん、それは錯覚にすぎない。
最奥の課長席では、クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐が、昼間待機へ移行したことなど意識の外にあるかのように書類を読み続けていた。
白い佐官マントの裾が椅子の背から落ちている。
机上には、北方戦況図、西方補給線の輸送記録、部隊再編案、兵站計画書が重ねられていた。
灰碧色の瞳が、一枚の輸送表の上で止まる。
「少佐」
赤茶色の髪をしたオスカー・リヒター大尉が、資料束を抱えて課長席へ近づいた。
「本日、まだ食事を取られていません」
クラウディアは顔を上げなかった。
「後で取るよ」
「西方補給線の再計算が終わった後ですか」
「その予定だね」
「終わる頃には、午後の戦況会議が始まっています」
オスカーは机上の資料へ目を落とした。
「西方については、第二班にも再照合を命じています。少佐が今すぐ全件を見る必要はありません」
「第三輸送路の損耗率が合っていない」
「確認中です」
「原因は積載記録の重複だよ。現地の中継所が二度計上している」
オスカーの視線が、該当箇所へ落ちた。
短い沈黙の後、彼は資料を抱え直す。
「……照合させます」
「頼んだ」
それで話は終わったように見えた。
だが、オスカーは立ち去らなかった。
「少佐が倒れれば、作戦第一課全体の処理が止まります」
クラウディアのペン先が、わずかに止まる。
「倒れる予定はないよ」
「予定に含まれていない事故ほど、対応に困るものです」
責めるような声音ではなかった。
長く同じ上官を補佐してきた者が、必要な報告を繰り返しているだけだった。
クラウディアはようやく視線を上げた。
「君は僕の健康管理まで担当していたかな」
「課長職の継続性は、補佐官の担当範囲です」
数秒、二人の視線が交わる。
先に書類へ目を戻したのはクラウディアだった。
「西方の照合が終わったら考える」
「承知しました。考えるだけではなく、実行をお願いします」
オスカーは敬礼し、資料を抱えたまま離れていった。
リディアは二人のやり取りを横目で見ていた。
感情を交わしているようには見えない。
どちらも、あくまで作戦第一課を止めないための会話として言葉を選んでいる。
これが、この部署の日常なのだろう。
「ヴァルモント中尉」
不意に呼ばれ、リディアは姿勢を正した。
「はい」
クラウディアは手元の資料から目を離さないまま告げた。
「昼間待機中に食事を済ませておいてくれ。午後から北方関連の記録を第三列へ回す」
「少佐は行かれないのですか」
口にしてから、余計なことを尋ねたかもしれないと思った。
クラウディアの指先が、書類の端を揃える。
「僕はこのまま続ける」
それから、灰碧色の瞳だけがリディアへ向いた。
「君まで食事を抜く必要はない。午後に処理速度が落ちる方が困る」
気遣いというより、勤務上の指示だった。
だからこそ、リディアにも受け取りやすかった。
「了解しました」
席を立ち、敬礼する。
クラウディアは短く頷くと、すでに次の報告書を開いていた。
戦況図を背に、白いマントの少佐が無言で数字を追い続けている。
若い。
それでも、その姿はこの巨大な軍事機構の中に奇妙なほど馴染んでいた。
リディアは視線を戻し、戦略室を後にした。
*
第二士官食堂には、思っていた以上の人間が集まっていた。
もっとも、地方軍の食堂のような騒がしさはない。
交わされる会話は低く、笑い声も長くは続かない。食器の触れ合う音と椅子を引く音が、広い天井へ静かに反響している。
休憩中であっても、誰も完全には軍務を離れていなかった。
リディアは配膳口で受け取った盆を手に、空いている席を探した。
根菜と肉の入った温かいスープ。焼いたばかりのパン。湯気の立つ薄い紅茶。
それだけのものが、ひどく贅沢に見える。
北方で食事は補給だった。
ここでは、まだ食事と呼べる形を保っている。
スープの湯気に目を止めていた時、背後から名前を呼ばれた。
「……リディア?」
聞き覚えのある声だった。
リディアは反射的に振り返る。
長い濃紺の髪。紫がかった青い瞳。
黒い帝国軍制服の襟元には、情報分析局所属を示す銀白の徽章が留められていた。
学院時代よりも頬はわずかに細くなっていたが、その静かな立ち姿は変わっていない。
「ティエリア」
名を呼ぶと、ティエリア・ルーミス中尉はその場で足を止めた。
手にした盆が、わずかに傾く。
彼女は何も言わず、数秒間リディアを見ていた。
顔。肩。階級章。そして黒銀色の北方識別章。
まるで、目の前にいる人間が記憶の中の同期と同一人物なのか、確かめているようだった。
「本当に、戻ってきたんですね」
ようやく出た声には、驚きよりも安堵が濃く滲んでいた。
「はい。お久しぶりですね」
「……お久しぶりです」
帝立軍官学院を卒業した後、ティエリアは中央軍情報分析局へ、リディアは北方方面軍へ配属された。
まともに顔を合わせるのは、卒業以来だった。
ティエリアは、もう一度リディアを見る。
「少し、痩せましたか」
「そうでしょうか」
「頬が前より落ちています」
静かな声だった。
「眠れてもいませんね」
リディアは返答を止めた。
「そこまで分かりますか」
「昔から、あなたは眠れていない時だけ瞬きが減ります」
ティエリアは事実を述べるように言った。
人の変化を細部から拾い上げるところは、学院時代から変わらない。
「ティエリアも、あまり人のことは言えないように見えます」
濃紺の髪の下には、薄い疲労が残っている。
ティエリアは一度だけ目を伏せた。
「情報分析局では、睡眠は記録上の数値になりやすいので」
「足りていないという意味ですか」
「否定はしません」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
不思議と気まずくはなかった。
戦場へ出る前。
まだ、同期の誰が帰らなくなるのかも知らなかった頃。
学院の資料室で、同じように短い言葉だけを交わしていた記憶が戻ってくる。
「座りませんか」
ティエリアが、壁際の空席を示した。
二人は向かい合って盆を置いた。
ティエリアはすぐには食事へ手をつけず、リディアの制服を見た。
「それで、どうして中央軍へ?」
「本日付で、作戦第一課へ配属されました」
ティエリアの指が、スプーンの柄の上で止まった。
「……作戦第一課ですか」
「はい」
表情そのものは大きく変わらない。
だが、紫がかった瞳から一瞬だけ温度が消えた。
「何か問題がありますか」
「問題というより……」
ティエリアは周囲へ目を向けた。
近くに作戦第一課の士官がいないことを確認してから、声を少し落とす。
「中央軍で、あの課を知らない人はいません」
「中央軍の頭脳だとは聞きました」
「その通りです。全戦線の作戦、兵站、配置情報が集まる。所属しているのは、軍歴か能力のどちらかが突出した士官ばかりです」
一拍置く。
「多くは、両方ですが」
リディアは今朝の戦略室を思い出した。
大量の報告書と術式盤。
人が死ぬ場所を決める数字。
そして、一段高い指揮席。
「課長は、アイゼンベルク少佐でした」
ティエリアは黙った。
ほんのわずかに、スプーンを持つ指へ力が入る。
「会いましたか」
「着任報告をしました」
「何か言われました?」
「面白そうだと」
ティエリアの視線が、リディアの顔へ戻った。
「……興味を持たれたんですね」
「おそらく」
沈黙。
食堂のどこかで、陶器の触れ合う音がした。
「クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐は、理解が速すぎる人です」
ティエリアは声を抑えたまま続けた。
「報告を最後まで聞く前に、必要な情報を拾う。人間に対しても同じです」
課長席から向けられた、灰碧色の瞳を思い出す。
肩。軍靴。指先。視線。
すでに何かを測られていた。
「多分、かなり見られていました」
「でしょうね」
ティエリアは否定しなかった。
「気をつけてください」
「何にですか」
問い返すと、ティエリアはすぐには答えなかった。
リディアの肩口にある北方識別章へ、短く視線を落とす。
「アイゼンベルク少佐は、必要だと判断した人間を、最も機能する場所へ置きます」
「軍人なら、当然では?」
「ええ。正しい判断です」
ティエリアは静かに頷いた。
「正しすぎるから、気をつけてほしいんです」
「どういう意味でしょうか」
「気づいた時には、その人の居場所も、役割も、戻る場所まで盤面に組み込まれている」
ティエリアはそこで言葉を切った。
紫がかった青い瞳が、まっすぐリディアを見る。
「興味を持たれたのなら、簡単には見失ってもらえません」
スープの表面から、細い湯気が立ち上っていた。
リディアは、すぐには返事をしなかった。




