序章 第二節「白マントの課長」
「ヴァルモント中尉か」
呼びかけに振り返る。
三十代前半ほどの女性士官が立っていた。
細身の身体を黒い高襟制服に包み、表情には事務的な平静が張りついている。
「作戦第一課まで案内する。ついて来い」
「了解しました」
女性士官が歩き出した。
リディアは、その後ろへ続いた。
東棟の廊下を進む。
磨かれた黒石の床へ、二人分の軍靴音が規則正しく響いた。
すれ違う中央軍士官たちの視線が、リディアの肩口で一瞬だけ止まる。
中尉の階級章ではない。
黒銀色の北方方面軍従軍識別章。
北方帰り。
平民出身。
そのうえ、中央軍作戦総局への正式配属。
その経歴でここにいること自体が、異例だった。
リディアは前を向いたまま歩いた。
視線には慣れている。
北方でも、似たような目を向けられたことはあった。
なぜ生きている。
なぜ戻った。
なぜ、自分だけが。
そう問いかける目だった。
だが、中央軍の視線は違う。
もっと静かで、冷たく、理性的だった。
同情でも嫌悪でもない。
何に使える人間なのか。
どこへ置くべき人間なのか。
それを測る目だった。
廊下の先で、案内士官が半屋外回廊へ出た。
石柱の向こうに、中央中庭が見える。
濡れた石畳。
軍碑。
時計塔。
灰色の空の下で、軍旗が重く揺れていた。
風が回廊へ吹き込み、リディアの黒髪をわずかに動かす。
案内士官は足を止めなかった。
回廊を渡り、さらに東棟の奥へ入る。
そこから先は、行き交う士官の数が増えた。
抱えられた作戦図。
封緘された報告書。
内線を受け取る通信士官。
急いでいる者はいる。
それでも、走る者はいない。
声を荒げる者もいない。
中央軍は静かなまま動き続けていた。
やがて、案内士官は巨大な両開きの扉の前で足を止めた。
扉の上部には、翼を閉じた白銀の鷹が刻まれている。
爪の下には、幾重にも交差する方位線。
帝国中央軍本部作戦総局、作戦第一課。
その正式な課章だった。
その脇に、もう一つ。
黒鉄へ深く刻み込まれた、古い鷹の紋章。
アイゼンベルク家。
国家の部署を示す課章と、一つの家門を示す紋章が、同じ扉に並んでいる。
帝国軍に身を置く者なら、その意味を説明されるまでもなかった。
将官。
元帥。
中央軍上層部。
帝国の戦争へ、代々深く関わり続けてきた軍事名門。
前線兵の間では、半ば冗談のように語られている。
帝国軍は、半分がアイゼンベルク家でできている、と。
「ここだ」
案内士官が扉を押し開けた。
その先には、巨大な戦略室が広がっていた。
壁一面を覆う戦況地図。
長大な作戦机。
積み上げられた報告書。
淡い光を放つ術式盤。
低く抑えられた報告の声。
銃声も砲声も聞こえない。
それでも、戦場は確かにここにあった。
地図の上に。
数字の中に。
命令文の行間に。
リディアは一瞬だけ足を止めた。
北方では、人が死ぬ瞬間を見た。
ここでは、人が死ぬ場所が決められる。
「アイゼンベルク少佐」
案内士官の声が響いた。
室内の空気が、わずかに変わる。
報告を続けていた士官の声が一段低くなった。
書類を運んでいた者が、無意識に歩幅を整えた。
戦略室の最奥。
壁一面の戦況地図を背負うように、一段高く設けられた指揮席。
そこに、白いマントを纏った女性士官がいた。
黒い高襟制服。
肩を覆う白い佐官用マント。
白金に近い淡い灰金の短い髪。
片側にだけ入れられた、細い編み込み。
灰碧色の瞳。
二十代半ばほどに見える。
それでも、この部屋にいる誰より自然に上席へ収まっていた。
威圧しているわけではない。
声を張っているわけでもない。
白い手袋の指先が承認欄へ触れれば、次の書類が運ばれる。
ペン先が止まれば、近くの士官も報告を止める。
この部屋は、彼女の感情ではなく、判断を中心に動いていた。
「本日付で配属されました、リディア・ヴァルモント中尉をお連れしました」
白い手袋の指先が、書類の上から離れた。
女性士官は、机上の転属書類には触れなかった。
灰碧色の瞳だけが、まっすぐリディアを捉える。
肩の位置。
軍靴の向き。
指先。
立ち方。
記録に書かれた人間と、目の前にいる人間が一致するか。
それを確かめているような目だった。
リディアは踵を揃え、敬礼した。
「本日付で着任しました。リディア・ヴァルモント中尉です」
女性士官は敬礼を受けた。
「クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐。作戦第一課課長だ」
低く、よく通る声だった。
「今日から君は、僕の指揮下に入る」
「よろしくお願いいたします、アイゼンベルク少佐」
「うん」
クラウディアの視線が、リディアの肩口にある黒銀色の識別章へ移った。
「指定経路を逸脱。到着は十一分遅延」
確認のために読む声ではなかった。
「残存人員三十七名。負傷兵七名、軍属三名を収容。行動記録は一部欠損」
机上の転属書類は、閉じられたままだった。
リディアは、わずかに目を上げた。
クラウディアは数秒、目の前の中尉を見た。
「……なるほど」
口元が、ごく僅かに緩む。
「君。面白そうだね」
白い佐官マントを纏った少佐は、そう言ってわずかに口元を緩めた。
リディアは返答に迷った。
帝国中央軍作戦総局作戦第一課。その課長であり、帝国屈指の軍事名門アイゼンベルク家の少佐。
初対面の上官から向けられた言葉に、どう答えるのが正しいのか分からない。
沈黙の中、クラウディア・フォン・アイゼンベルク少佐は頬杖をついたまま、リディアを見ていた。
灰碧色の瞳は静かだった。
冷たいわけではない。
ただ、見ている範囲が広い。
肩の位置。軍靴の向き。指先。視線。立ち方。
正面に立つ人間を眺めているというよりも、新たに加わった要素が盤面へ何をもたらすのかを確かめているようだった。
「……なるほど」
クラウディアの目が、リディアの肩口に留まる。
黒銀色の北方方面軍従軍識別章。
「北方帰りにしては、随分まともそうだ」
「……そうでしょうか」
それ以外の答えが思いつかなかった。
クラウディアの口元が、またわずかに緩む。
「褒めているよ」
周囲にいた数名の士官が、そっと書類へ視線を落とした。
冗談なのか。本気なのか。
リディアには判別できない。
クラウディアは机上の書類を閉じた。
乾いた音が一つ、戦略室へ落ちる。
それだけで、室内の空気が変わった。
報告書を持つ手が止まり、低く交わされていた声が途切れる。離れた席にいた士官までもが、指揮席へ視線を向けた。
この部屋では、課長の動作一つが意味を持つ。
リディアは、そう理解した。
クラウディアは椅子へ軽く背を預ける。
「紹介しよう」
声量は変わらない。
それでも、戦略室にいる全員の意識が彼女へ集まった。
「本日付で作戦第一課へ配属された、リディア・ヴァルモント中尉だ」
わずかに間を置く。
「北方方面軍帰り」
室内の静けさが、明確に揺れた。
「北方……?」
「撤退戦の生還者か」
「平民出身の中尉を、第一課へ?」
「臨時補助ではなく、正式配属だと?」
抑えられた囁きが、戦略机の周囲を流れていく。
「人事部は何を考えている」
「いや、これは課長案件だろう」
「アイゼンベルク少佐が選んだのか……?」
視線がリディアへ集まった。
値踏み。警戒。好奇。
その中には、隠しきれない反発も混じっている。
リディアは無意識に背筋を伸ばした。
北方でも、似た目を向けられたことはあった。
なぜ、お前が生き残った。
そう問いかける目だった。
だが、中央軍の視線は違う。
もっと冷静で、静かで、理性的だった。
一人の人間ではなく、どの任務へ配置できる戦力なのかを測っている。
クラウディアは、部下たちのざわめきをすぐには止めなかった。
頬杖をついたまま、数秒だけ彼らを眺めている。
誰が何に反応したのか。
誰が最初に出自を口にしたのか。
すべてを覚えているような目だった。
「――騒がしいな」
穏やかな声だった。
その一言だけで、戦略室から音が消えた。
紙をめくる音さえ止まる。
誰も怒鳴られてはいない。
脅されてもいない。
それでも、全員が口を閉じた。
「北方に関心があるなら、次の現地調査へ加えようか」
クラウディアは机上の報告書へ指先を置いた。
「撤退線の維持と生存率について、直接学べる」
数名の士官の顔が、わずかに強張った。
誰一人、冗談として受け取らなかった。
「もっとも」
クラウディアは淡々と続ける。
「僕は、有能な人材を無意味に損耗させるつもりはない」
その視線が、再びリディアへ戻った。
「実戦経験だけなら、ヴァルモント中尉はこの部屋でも上位だ。出自を気にする余裕があるなら、担当戦線の損耗を一つでも減らしてくれ」
沈黙。
異議を口にする者はいなかった。
「以上だ」
止まっていた戦略室が、再び動き始める。
報告が再開され、書類が運ばれ、術式盤の上を淡い光が走った。
巨大な歯車が、何事もなかったように回転を取り戻していく。
リディアが小さく息を吐いた時、クラウディアが戦略室の中ほどを指した。
「ヴァルモント中尉」
「はい」
「君の席は第三列だ」
指されたのは、長い戦略机の側面に設けられた席だった。
指揮席から数えて第三列。
新任の中尉が配属される場所として、目立つほど不自然ではない。
だが、壁面の戦況地図と中央の術式盤を見渡すことができ、指揮席からも遮るものなく視線が届く。
「北方関連の報告は、当面そこへ集める」
クラウディアは既に書類へ視線を戻していた。
「処理の傾向を確認する。問題があれば、その場で修正するよ」
「了解しました」
リディアは第三列へ向かった。
特別扱いには見えない。
少なくとも、表面上は。
その途中、戦略室の奥から男性士官が近づいてきた。
三十代半ばほど。赤茶色の髪と、疲労の滲んだ目。両腕には、束ねられた会議資料が抱えられている。
「少佐。本日十三時の中央戦況会議用資料です」
「そこへ」
クラウディアが机の端を示す。
男性士官は資料を置きながら、第三列へ向かうリディアへ視線を向けた。
北方識別章。
使い込まれた軍靴。
中尉の肩章。
それらを順に確認した後、男は小さく息を吐いた。
「北方関連の資料を、第三列へ集約されるのですか」
「当面はね」
「承認経路も変更を?」
「北方案件に限り、僕へ直接上げてくれ」
男性士官は一瞬だけ黙った。
「……承知しました」
クラウディアは書類から目を上げる。
「何か?」
「いえ。着任初日から、随分早い判断だと思っただけです」
クラウディアが男を見る。
ただ、それだけだった。
「失礼しました」
返答に迷いはない。
何度も同じ視線を受けてきた者の反応だった。
男はリディアへ向き直り、短く敬礼した。
「オスカー・リヒター大尉。作戦第一課の課長補佐を務めている」
リディアも敬礼を返す。
「リディア・ヴァルモント中尉です」
「よろしく頼む」
短い挨拶だったが、悪意は感じなかった。
ただ、その声には、新たな業務が増えたことを受け入れる者の疲労が滲んでいた。
リディアが指定された席へ着く。
机の上には、北方戦線の補給表と撤退経路図が既に置かれていた。
偶然ではない。
そう思った直後、指揮席からクラウディアの声が届いた。
「それで」
リディアは振り返る。
「君は、報告書をどこまで盛った?」
「……はい?」
「三十七名生還」
クラウディアは手元の報告書を指先で叩いた。
「北方撤退戦で、あの数字は不自然だ」
「盛っていません」
即答だった。
クラウディアの口元が、わずかに緩む。
「そこも面白い」
「事実しか記載していません」
「普通は、もう少し自分の功績を大きく書く」
「私の功績ではありません」
クラウディアの指先が止まった。
「誰の功績だと?」
「全員です」
リディアは答えた。
「歩ける者が負傷者を支え、残った食料を分けました。通信兵が最後まで回線を維持した。私一人で三十七名を帰したわけではありません」
「だが、撤退判断を出したのは君だ」
「必要だったので」
「その結果、三十七名が生き残った」
「はい」
「それでも、自分は特別ではない?」
リディアは少し考えた。
「普通です」
「北方の基準で?」
「……はい」
沈黙が落ちた。
クラウディアの目が、わずかに細くなる。
「なるほど」
先ほどと同じ言葉だった。
だが、今度は響きが少し違った。
「普通の人間は、北方からそんな顔で戻らない」
リディアは黙った。
吹雪。
凍死。
汚染。
崩れた撤退線。
雪の中で動かなくなった兵士たち。
記憶の奥で、白い景色が一瞬だけ揺れる。
「……帰らなければならなかったので」
小さく答えた。
クラウディアの視線が、わずかに深くなる。
「帰る理由があった?」
リディアは答えなかった。
問いの意味を量るように、クラウディアを見る。
クラウディアも、それ以上は追及しなかった。
背後の巨大な戦況地図へ視線を移す。
「ここは、帝国中央軍の頭脳だ」
戦況地図には、帝国全土の戦線が幾重もの線と記号で刻まれている。
「全戦線の情報が集まり、作戦立案、戦況予測、兵站調整、配置転換が行われる」
クラウディアの声から、それまでの僅かな遊びが消えた。
灰碧色の瞳が鋭くなる。
「勝つためではない」
リディアは指揮席を見た。
「帝国軍を止めないための盤面を作る場所だ」
その言葉の方が、先ほどまでの軽い笑みよりも、クラウディアという人間を正確に示しているように思えた。
この人は、本当に戦場を見ている。
砲声も血も届かない机の上から、前線で失われるものを数字として読み続けている。
「君は視野が広い」
「……そうでしょうか」
「生き残る者は、周囲を見ている。目の前だけを見ている者から死ぬ」
淡々とした口調だった。
だからこそ、言葉が重かった。
クラウディアはリディアを見る。
「北方での判断過程を確認したい」
その指先が、第三列の机に置かれた撤退経路図を示す。
「君をそこへ置いた理由だ」
あくまで軍務上の判断として、クラウディアは言った。
「僕は善人ではない。必要なのは、判断できる人間だ」
リディアは、指揮席から自分の席までの距離を見た。
近すぎない。
遠すぎもしない。
何を見られているのかは分からないが、少なくとも隠すつもりもないらしい。
「……観察対象のように扱われるのは、あまり得意ではありません」
戦略室の一角から、紙の音が消えた。
オスカーが僅かに眉を上げる。
クラウディアは怒らなかった。
数秒、リディアの顔を見た後、ほんの少しだけ目を細める。
「いいね」
その声には、先ほどよりも明確な興味があった。
「やはり君は、作戦第一課に向いている」




