序章 第一節「帝都グランツェル」
その報告書が北方を離れてから、数週間後。
リディア・ヴァルモント中尉もまた、帝都へ送られた。
列車の車窓には、灰色の空が続いている。
手元には、一通の転属命令書があった。
『北方方面軍所属、リディア・ヴァルモント中尉。
帝国中央軍本部作戦総局作戦第一課への転属を命ずる』
何度読んでも、記された内容は変わらない。
車輪が線路の継ぎ目を踏むたび、硬い振動が座席へ伝わった。
リディアは命令書を折り、封筒へ戻した。
列車が速度を落とし始める。
窓の外へ、鉄塔が増えていった。
黒い煤煙。
濡れた石造建築。
幾重にも分岐する軍用線路。
補給貨車が、灰色の街並みを横切っている。
帝都グランツェル。
駅へ降りた瞬間、冷たい風が黒髪を揺らした。
北方の風とは違う。
雪の匂いはない。
濡れた石と鉄。それから、薄い煤の匂いがした。
リディアは手提げ鞄を持ち直し、駅舎を出た。
灰色の空に、鉄塔が連なっている。
その下を、黒や灰色に塗られた軍用車両が行き交っていた。
駅から中央軍本部へ続く大通りには、いくつもの検問所が設けられている。
露店は少ない。
街路の高所には、無数の帝国旗が掲げられていた。
冷たい風を受け、湿った布が重く揺れている。
街に大きな破壊の跡はない。
それでも、長く続く戦争が帝都から色と余白を奪っていることは分かった。
人々は歩いている。
列車も動いている。
帝国は、まだ止まっていない。
ただ、誰も立ち止まることを許されていないように見えた。
大通りの先を、巨大な黒い外壁が塞いでいた。
帝国中央軍本部軍用区画。
およそ四百ヘクタールの土地を外壁で囲み、その内側に、四棟回廊型の本部庁舎群、練兵場、車両基地、軍用鉄道、兵舎と士官宿舎を収めた、帝都最大の軍事官庁区画だった。
常時一万四千人近い軍人と軍属が勤務し、その多くが区画内で生活している。
一つの施設というより、帝都の中へ置かれた軍事都市に近い。
灰色の空を背負うように、黒灰色の建築群がそびえ立っていた。
空を切り分ける尖塔。
黒鉄で補強された外壁。
屋上と城壁に並ぶ軍旗。
遠くから見れば、巨大な城に見えた。
近づくほど、それが人を迎えるための建物ではないことが分かる。
都市の一角に軍事施設が建てられているのではない。
都市そのものが、巨大な要塞へ姿を変えたように見えた。
リディアは本部庁舎群を見上げ、小さく息を吐いた。
北方方面軍司令部とは違う。
地方軍の駐屯地とも違う。
ここには、帝国そのものが存在していた。
平民出身のリディアには、本来なら無縁の場所だった。
帝国では、平民が軍人になること自体は珍しくない。
戦時下において、給与と配給を得られる軍籍は、生きるための現実的な道でもあった。
だが、軍へ入ることと、中央軍の中枢へ入ることは違う。
家格も後ろ盾も持たない者が、ここまで来る例は少ない。
リディアは、中央軍へ来るために軍服を着たのではなかった。
生きるために軍人になった。
命令された場所へ赴き、帰還できる限り帰還した。
その結果として、帝国の中枢まで来てしまった。
風が、もう一度黒髪を揺らした。
肩口の黒銀色の識別章が、曇天の光を鈍く返す。
北方方面軍従軍識別章。
勲章ではない。
栄誉を示すものでもない。
北方から戻ったという事実だけを示す、簡素な金属章だった。
灰色の空の向こうには、数週間前まで立っていた前線の空が、そのまま続いているように見えた。
色は同じだった。
ただ、こちらには砲声がなかった。
リディアは正門へ向かった。
重厚な黒鉄門の前には、二名の衛兵が立っている。
銃を携え、背筋を伸ばし、互いに言葉を交わさない。
誰も無駄口を叩かない。
前線にも沈黙はあった。
だが、あちらの沈黙はもっと荒れていた。
吹雪。
負傷兵の呻き。
通信器の雑音。
凍った軍靴が雪を砕く音。
誰かが吐き捨てる悪態。
北方の静けさには、常に死の匂いが混じっていた。
ここは違う。
磨かれ、整えられ、統制されている。
同じ静寂でありながら、その質が違った。
ここは、死から遠い場所ではない。
死を、命令によって動かす場所だ。
「所属と通行許可証を」
衛兵の声は低く、感情の起伏がなかった。
リディアは転属命令書と認証票を差し出した。
「北方方面軍より転属。本日付で着任しました。リディア・ヴァルモント中尉です」
衛兵は認証票を確認し、次に転属命令書へ視線を落とした。
前所属の欄で、その目が止まる。
命令書から襟章へ。
さらに、肩口の識別章へ。
「……北方帰りか」
抑えられた声だった。
リディアは何も答えなかった。
北方帰り。
その言葉だけで距離を置かれることには、もう慣れている。
北方から戻った者は、英雄ではない。
多くの場合、ただの生き残りだ。
認証印が押された。
「通れ」
重い鉄門が、低い駆動音を響かせながら開いていく。
門の内側には、本部庁舎群まで続く広い軍用道路が伸びていた。
車両基地へ入る輸送車。
兵舎へ向かう隊列。
軍用鉄道の引込線を進む補給貨車。
建物の上では、冷たい風に軍旗が揺れている。
誰も立ち止まらない。
誰も、必要以上に声を出さない。
さらに二つの検問を抜け、リディアは本部庁舎群の東棟へ入った。
その瞬間、音の質が変わった。
磨き上げられた黒石の床。
高い天井。
深紅の絨毯。
壁面を占める帝国紋章。
多くの将校が行き交っている。
それでも、騒音と呼べるものはほとんどなかった。
響くのは、軍靴の音。
紙をめくる音。
遠くで時を刻む時計の音。
どれも規則正しい。
誰も騒がない。
誰も笑わない。
前線とは別の世界だった。
前線では、皆よく笑った。
余裕があったからではない。
笑わなければ、翌朝まで正気を保てなかったからだ。
くだらない冗談。
乾いた笑い。
煙草の煙。
凍った携行食。
泥と血と雪の中で、兵士たちは無理にでも声を出した。
ここには、その必要がない。
あるいは、声を出すこと自体が許されていないのかもしれない。
リディアには、そう思えた。
「ヴァルモント中尉か」
呼びかけに振り返る。
三十代前半ほどの女性士官が立っていた。
細身の身体を黒い高襟制服に包み、表情には事務的な平静が張りついている。
「作戦第一課まで案内する。ついて来い」
「了解しました」
女性士官が歩き出す。
リディアは、その後ろへ続いた。還できる限り帰還した。
その結果として、帝国の中枢まで来てしまった。
灰色の空の向こうには、数週間前まで立っていた前線の空が、そのままつながっているように見えた。
色は同じだった。
ただ、こちらには砲声がなかった。
リディアは手提げ鞄を持ち直し、正門へ向かった。
黒鉄の門前では、二名の衛兵が銃を携えている。
「所属と通行許可証を」
リディアは転属命令書と認証票を差し出した。
「北方方面軍より転属。本日付で着任しました。リディア・ヴァルモント中尉です」
衛兵の視線が、命令書から襟章へ移る。
さらに、肩口の黒銀色の識別章で止まった。
北方方面軍従軍識別章。
勲章ではない。
栄誉を示すものでもない。
北方から戻ったという事実だけを示す金属片だった。
「……北方帰りか」
抑えられた声だった。
リディアは何も答えなかった。
その言葉だけで距離を置かれることには、もう慣れている。
北方から戻った者は、英雄ではない。
多くの場合、ただの生き残りだった。
認証印が押される。
「通れ」
重い鉄門が、低い駆動音を響かせながら開いていった。
門の内側には、本部庁舎群まで続く広い軍用道路が伸びていた。
車両基地へ入る輸送車。
兵舎へ向かう隊列。
軍用鉄道の引込線を渡る補給貨車。
誰も立ち止まらない。
誰も、必要以上に声を出さない。
さらに二つの検問を抜け、リディアは本部庁舎群の東棟へ入った。
その瞬間、音の質が変わった。
磨き上げられた黒石の床。
高い天井。
深紅の絨毯。
壁面を占める帝国紋章。
多くの将校が行き交っている。
それでも、騒音と呼べるものはほとんどなかった。
響くのは軍靴の音と、紙をめくる音。
遠くで時を刻む時計の音だけだ。
どれも規則正しい。
誰も騒がない。
誰も笑わない。
前線とは別の世界だった。
前線では、皆よく笑った。
余裕があったからではない。
笑わなければ、翌朝まで正気を保てなかったからだ。
くだらない冗談。
乾いた笑い。
煙草の煙。
凍った携行食。
泥と血と雪の中で、兵士たちは無理にでも声を出した。
ここには、その必要がない。
あるいは、声を出すこと自体が許されていないのかもしれない。
リディアには、そう思えた。
「ヴァルモント中尉か」
呼びかけに振り返る。
三十代前半ほどの女性士官が立っていた。
黒い高襟制服に包まれた姿勢は細く、表情には事務的な平静が張りついている。
「作戦第一課まで案内する。ついて来い」
「了解しました」
リディアは士官の後ろへ続いた。




