序章 第零節「北方撤退戦記録」
帝国北方方面軍。
北方戦線、第三撤退線。
記録は、いつも数字から始まる。
損耗率。
弾薬残量。
凍傷発生数。
回収不能者数。
数字は残る。
戦場で起きたことは、それで説明されたものとして処理される。
報告書の末尾に、薄い朱線が一本引かれていた。
その下に記されていたのは、一人の士官の名だった。
――リディア・ヴァルモント中尉。
撤退命令発令後、同中尉は指定経路を一時逸脱。
上級指揮系統の事前承認なく、回収困難区域へ進入。
同中尉指揮下の残存人員、三十七名生還。
うち、同区域に残留していた負傷兵七名、避難対象者三名を収容。
最終撤退線への到着は、標準撤収時刻より十一分遅延。
当該撤退線における推定生還率を、大幅に上回る。
行動記録、一部欠損。
既存地図との照合不能区画への進入を確認。
詳細記録、別紙封鎖。
本人聴取、未了。
戦功評価、保留。
命令違反審査、保留。
帝国中央軍本部へ回付。
報告書は、そこで一度途切れていた。
次の行は黒く塗り潰されている。
承認者名。
その下に並ぶ閲覧者欄も、判別できない。
さらに下には、北方方面軍のものではない受理印が押されていた。
帝国中央軍本部。
中央軍作戦総局、作戦第一課。
転属命令、受理。
報告書が閉じられる。
誰が最初に朱線を引いたのか、その記録は残されていない。
ただ、閉じられる直前、指先がその名の上で止まった。
リディア・ヴァルモント中尉。
その名を記した報告書は、本人より先に北方を離れた。
行き先は、帝都グランツェル。
帝国中央軍本部。




