第一章 第三節「存在しない標識」
列車が速度を落とし始めたのは、それから一時間ほど後だった。
車輪の音が長く間延びする。
窓の外では、白い雪原を低い斜面が横切っていた。
凍った灌木。
傾いた線路標。
雪に埋もれた保守柵。
人の手が入った痕跡は残っている。
それでも、先ほど通過するはずだった監視塔だけがない。
制動音が車体の奥から響いた。
クラウディアは三枚の地図を重ね、窓の外へ目を向ける。
「第五中継点だね」
やがて、線路の先に短い乗降場が現れた。
北方旧補給線、第五中継点。
正式図にはそう記されている。
残っていたのは、雪に半分埋もれた石造のホームと、屋根の一部が落ちた倉庫だった。
庇の下には、保守用の術式灯が二つ点いている。
薄い橙色。
片方だけが、一定の間隔で暗くなっていた。
列車が停止する。
同時に、車内の通信器から確認音が消えた。
クラウディアが顔を上げる。
数秒待っても戻らない。
「時刻を」
「了解しました」
リディアは記録票へ停止時刻を書き込んだ。
通信器の灯りは点いたままだった。
故障ではない。
受信だけが失われている。
クラウディアは地図を畳まずに立ち上がった。
「降りるよ」
扉が開く。
冷気が車内へ流れ込み、机上の紙を震わせた。
リディアは外套の襟を閉じ、資料袋と通信器を確かめる。
ホームへ降りると、雪を踏む軍靴の音が重なった。
黒鷹隊は、すでに展開を始めていた。
黒い制服が列車の周囲へ散る。
声は少ない。
短い手信号と視線だけで、射線と退路が決められていく。
医療班は列車脇へ折り畳み担架を置き、通信班は車両と外部回線をつなぎ直していた。
ホームの先に、ヴィクトリアが立っている。
黒いマントの裾が、風を受けてわずかに揺れていた。
「第一班、東側斜面」
低い声が雪原へ落ちる。
「第二班は倉庫を確認。通信班は列車から離れるな」
「了解」
隊員たちが動く。
ヴィクトリアの視線がクラウディアへ向いた。
「西側から確認する。作戦第一課は私の後ろへ」
「了解した」
クラウディアは白いマントの前を留め直した。
リディアも踵を揃える。
「了解しました」
ヴィクトリアが先頭に立った。
クラウディアとリディアがその後方へ入り、黒鷹隊員が左右を固める。
工兵と通信兵が続き、最後尾の二名が列車との間を警戒した。
確認地点までは、地図上でおよそ一・二キロ。
路面の状態が確認できていないため、調査用車両の投入は見送られた。
帰還に使えるかを調べる道へ、先に車両を入れることはできない。
一行はホームを下り、旧補給線があるはずの西側斜面へ向かった。
雪は脛の半ばまで沈んだ。
表面は薄く凍っている。
軍靴を下ろすたびに白い膜が割れ、その下から柔らかな雪が崩れた。
先頭を進む隊員が歩幅を定め、後続はその足跡を踏んでいく。
会話はなかった。
装具の触れ合う小さな音と、雪を踏み抜く軍靴の音だけが続いた。
リディアは歩きながら、地形を見た。
右手には低い丘。
左手には凍った川。
正面には、旧橋梁へ向かって緩やかに下る斜面。
地図に記された等高線とは、ほぼ一致している。
それでも、道らしい窪みはどこにもなかった。
五分ほど進んだところで、通信器の確認音が一度途切れた。
通信兵が携帯計器へ目を落とす。
「中継点との接続、低下しています」
ヴィクトリアは足を止めなかった。
「予備帯域へ」
「了解」
短い操作音の後、確認音が戻る。
リディアが振り返ると、中継点の術式灯はすでに小さくなっていた。
橙色の光が二つ。
一つは安定している。
もう一つは、先ほどと同じ間隔で明滅していた。
さらに進む。
斜面の起伏に遮られ、やがて列車の屋根が見えなくなった。
黒い煙だけが、白い空の下へ細く昇っている。
ヴィクトリアが右手を上げた。
一行が止まる。
「確認地点だ」
クラウディアが正式図を開いた。
「現在地は合っている」
右手には低い丘。
左手には凍った川。
正面には、旧橋梁へ向かって緩やかに下る斜面。
地形そのものは、地図と一致していた。
道だけがない。
リディアは数歩進み、雪を靴先で払った。
下から現れたのは、凍った土だった。
敷石はない。
枕木を抜いた跡もない。
車両が繰り返し通った路盤なら、雪の下にも硬い層が残る。
それも見当たらなかった。
「撤去されたようには見えません」
クラウディアが屈み、白い手袋で土の表面に触れた。
「四年前まで使われていたなら、痕跡は残るね」
土を少し崩す。
下からも同じ色の地面が現れた。
排水溝も、路盤を固めた礫もない。
「記録上は、段階的に閉鎖されています」
リディアは資料袋から閉鎖記録を取り出した。
「枕木を撤去し、路盤を崩した後、排水溝を埋め戻したとあります」
「埋め戻したなら、土の層が変わる」
クラウディアは立ち上がった。
白い手袋についた雪を払う。
「ここでは、何もしていない」
ヴィクトリアは斜面の先を見たまま尋ねた。
「監視塔の基礎は」
クラウディアが地図上の距離を確認する。
「北東へ百六十メートル」
第一班が先行する。
間もなく、斜面の向こうから手信号が返った。
該当物なし。
三人もその位置へ向かった。
地図では、監視塔は小高い丘の上に建っている。
周囲の地形を見渡し、旧補給線と橋梁を監視する施設だった。
丘はあった。
塔はなかった。
崩れた石材もない。
基礎を抜いた穴もない。
雪の盛り上がりさえ、周囲と変わらなかった。
黒鷹隊員の一人が測量棒を地面へ差し込む。
凍結層の下まで抵抗は均一だった。
「建造物の基礎反応なし」
ヴィクトリアが地面を見る。
「位置の誤記か」
「三枚とも同じ位置だよ」
クラウディアは旧地図を重ねた。
「測量基準点も一致している。塔だけが間違っているとは考えにくいね」
リディアは丘の端へ視線を向けた。
雪の表面に、二本の浅い溝が続いている。
車輪の幅に近い。
だが、数メートル先で途切れていた。
「こちらを」
ヴィクトリアとクラウディアが近づく。
リディアは溝の端を示した。
「車両痕に見えます」
クラウディアが屈む。
溝の中には、薄い氷が張っている。
「姉様の部隊が通過した時期とは合う」
「この先がない」
ヴィクトリアが言った。
二本の溝は、平らな雪面の途中で消えていた。
曲がった形跡もない。
車輪を切り返した跡もない。
そこで車両だけが持ち上げられたように、痕跡が終わっている。
ヴィクトリアの右手が、黒いマントの内側へ入った。
紫光は出なかった。
「旧橋梁まで進む」
「姉様」
クラウディアが呼び止める。
「警戒範囲を広げるべきだね」
ヴィクトリアは頷いた。
「第一班、二百メートル先行。第二班は列車との間を保持。間隔を二倍に取れ」
命令が伝わる。
隊員たちは密集せず、雪原へ広がっていった。
一行が斜面を下り始める。
間もなく、通信器から細い雑音が漏れた。
金属を爪で引くような音。
その奥から、人の声が聞こえる。
『第三退避標を確認。西へ進め』
帝国軍の短距離通信だった。
リディアは受話器へ目を向けた。
音声は途切れる。
三秒後、同じ声が流れた。
『第三退避標を確認。西へ進め』
声の掠れ方。
息継ぎ。
雑音の位置。
すべてが同じだった。
クラウディアが通信班を見る。
「発信元は」
通信兵が携帯計器を確認した。
「西北西、四百二十メートル」
一行が数歩進む。
通信兵は再び計器を見た。
「距離、変わりません」
「方角は」
「変化なし」
クラウディアの視線が細くなる。
「反復信号だね」
ヴィクトリアは即座に命じた。
「外部受信を切れ。記録系統だけ残せ」
「了解」
通信器から声が消えた。
風の音が戻る。
前方の第一班が停止した。
一人が右手を上げる。
標識確認。
ヴィクトリアが歩みを進めた。
低い岩壁に挟まれた場所に、帝国軍式の退避標識が立っていた。
黒い支柱。
白い反射板。
西を示す矢印。
表面には管理番号と設置部隊の略号まで記されている。
標識の向こうには、狭い雪道が続いていた。
リディアは道幅を見た。
両側は岩壁。
雪が吹き溜まり、中央だけが浅く窪んでいる。
人一人なら通れる。
担架を水平に保ったままでは通れない。
車両は入れなかった。
「大佐」
ヴィクトリアが振り返る。
「この標識は、帰還経路を示していません」
クラウディアが標識から道へ視線を移した。
「理由は」
「担架を通せません。車両も不可能です」
リディアは地図を開いた。
「それに、封鎖線外へ戻るなら南西へ下るはずです。この矢印は北西を向いています」
標識の先は、旧橋梁のさらに奥だった。
帰還する方向ではない。
封鎖線内部へ入る方向だった。
ヴィクトリアが右手を上げる。
「全員停止」
黒鷹隊の動きが止まった。
「標識を信用するな」
クラウディアが数歩近づく。
白い手袋を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触らないで」
先行していた工兵が手を引く。
クラウディアは標識の足元を見た。
雪は平らだった。
支柱を立てるために掘った跡がない。
近づいた足跡もない。
標識だけが、雪の中から生えている。
「設置されたものではないね」
ヴィクトリアの手が軍刀へ掛かった。
リディアは標識の影を見た。
薄い冬の日差しは、背後から差している。
丘の影は前方へ落ちていた。
黒い支柱の影だけが、光のある方へ伸びている。
誰も動かなかった。
雪の上で、存在しない標識だけが帰路を示していた。




