第一章 第四節「偽りの帰路」
「距離を取れ」
ヴィクトリアの声が落ちた。
標識のそばにいた工兵が、自分たちの足跡を踏み直しながら後退する。
列車は南、斜面の向こうにある。
西を指す標識は、北西へ延びる岩壁の狭間に立っていた。
その影だけが、背後から差す光へ向かっている。
工兵が腰から鋼索を外した。
先端の鉤を雪へ置き、十メートル離れた位置から標識の支柱へ滑らせる。
鉤が触れた。
金属音はしなかった。
黒い支柱の輪郭が、水面のように揺れる。
次の瞬間、標識は薄い光の筋へ崩れた。
矢印も、管理番号も、雪の上から消える。
残ったのは、掌ほどの黒い器具だった。
半ばまで雪に埋まり、淡い青色の灯りを明滅させている。
クラウディアが白い手袋を上げた。
「投影端子だね」
標識は、最初からそこになかった。
端子が、標識の像を雪の上へ立たせていた。
リディアは足元を見る。
端子から伸びた細い導線が、雪の下へ沈んでいる。
一本は右の岩壁へ。
もう一本は、帰路にあたる南側へ延びていた。
「触れるな」
ヴィクトリアが軍刀を抜く。
「導線の先を確認しろ」
通信兵が携帯計器を向けた。
針が右へ振れる。
その瞬間、銃声が響いた。
工兵の前で雪が跳ねる。
一拍遅れて、反対側の岩壁から発砲音が返ってきた。
「伏せろ」
黒鷹隊員たちが左右の岩陰へ入った。
リディアはクラウディアの右後方に膝をつく。
ヴィクトリアだけが中央に残った。
軍刀を下げたまま、右の岩壁を見ている。
「射点、右上。二名」
隊員が応射する。
乾いた銃声が二度続いた。
岩壁の上に、帝国軍兵士が現れた。
一人。
その左右に、二人。
灰白色の冬季外套。
旧式の鉄帽。
北方方面軍の襟章。
三人は雪の縁へ並び、黒鷹隊へ銃口を向けた。
先頭の隊員が撃つ。
弾丸は中央の兵士の胸を抜けた。
血は出なかった。
兵士は倒れない。
胸の周囲だけが光の粒へほどけ、すぐに元の軍服へ戻る。
「像を撃つな」
ヴィクトリアが命じた。
再び銃声が響く。
今度は左から聞こえた。
着弾したのは右側の岩陰だった。
音と弾道が合っていない。
岩壁の兵士たちは銃を構えている。
だが、銃口に煙はない。
足元の雪にも、軍靴の跡がなかった。
リディアは岩壁ではなく、その下の雪面を見た。
像の右下。
何もない窪みから、一瞬だけ火が見えた。
「人影は囮です」
リディアは窪みを示した。
「実弾は右下。岩陰の奥から来ています」
ヴィクトリアの視線が動く。
「右下、三十メートル。二射」
二名が銃口を下げた。
一射目が岩の縁を削る。
二射目のあと、窪みから灰色の外套が崩れ落ちた。
今度は雪が沈み、赤い跡が残る。
実体だった。
「左は反響音だけだよ」
クラウディアが言った。
「端子が発砲音もずらしている」
ヴィクトリアは投影端子へ視線を戻した。
「通信班、音を捨てろ。発火と着弾だけを見ろ」
「了解」
命令が伝わる。
岩壁の帝国兵が、一斉に位置を変えた。
走っているように見える。
それでも雪は一度も踏み抜かれない。
黒鷹隊は像を追わなかった。
雪面に浮く火だけを撃つ。
右の岩陰で一人。
左の岩棚で一人。
灰色の外套が倒れるたび、像の動きが遅くなった。
最後の一人が退く。
岩壁の帝国兵は、銃を構えた姿のまま残った。
像は敵ではない。
敵の位置を隠し、こちらの視線と弾丸を奪うための壁だった。
だが、なぜ敵側が北方方面軍の旧装備を知っているのか。
なぜ帰還路に、帝国兵の姿を選んだのか。
答えは雪の下に埋まったままだった。
「右上」
クラウディアの声が低くなる。
岩壁の高い位置に、新しい人影が立っていた。
一人だけだった。
白銀の外套が、雪原の色へ溶け込んでいる。
同じ色の髪が肩の後ろへ流れ、深い赤の瞳がこちらを見下ろしていた。
足元には軍靴の跡がある。
外套の影も、冬の日差しに従って斜面へ落ちている。
像ではない。
ヴィクトリアの深藍碧色の瞳が細くなった。
「またお前か」
白銀の女は、わずかに首を傾けた。
「覚えていたのね、黒鷹」
声は近かった。
端子を通した反響ではない。
リディアは銃口を上げる。
女の周囲にも、灰色の外套が三つ現れた。
今度はどの足元にも雪の窪みがある。
全員が実体だった。
「目的は」
ヴィクトリアは軍刀を向けたまま尋ねた。
「確認よ」
「何を」
女の赤い瞳が、消えた標識のあった場所へ向く。
「帝国が、あなたをまだ戻せるのか」
ヴィクトリアは答えない。
黒い手袋の指先で、細い紫光が弾けた。
「帰還路まで調べ直すのね」
女の声は柔らかいままだった。
「次も戻して、同じように使うために」
「退け」
「兵器に帰る場所まで用意する。丁寧な国ね」
ヴィクトリアの軍刀が動いた。
「右岩壁を制圧。作戦第一課は南へ下がれ」
同時に、女が片手を上げた。
銃声が重なる。
灰色の外套が岩壁から撃ち下ろす。
黒鷹隊が射線を返す。
雪と岩片が、狭い谷間を横切った。
リディアはクラウディアとともに南へ下がる。
背後には列車がある。
前方にはヴィクトリア。
左右の岩壁には敵兵。
その三点だけを見失わないようにした。
地面の下で、金属が連続して鳴った。
投影端子から南へ延びていた導線に、青白い光が走る。
帰路の雪面へ、帝国軍兵士が次々と現れた。
今度の像は銃を向けていなかった。
列車のある南を背にして、こちらへ手を振っている。
戻れ。
こちらだ。
声はない。
それでも、負傷者を退避させる兵士の動きに見えた。
最も近い像が、右手の細道を指す。
第三節で見た標識と同じ方角。
北西の岩壁の奥だった。
「そちらは帰路ではありません」
リディアが言う。
「列車は南です」
「全員、南を見ろ」
ヴィクトリアの命令が重なる。
「人影には従うな」
隊員たちが身体の向きを変える。
像の示す道を背にし、斜面の向こうに残る黒い煙を見た。
列車の位置を示す、動かない目印だった。
白銀の女の赤い瞳が細くなる。
「帰る方角まで命令されなければ、歩けないものね」
クラウディアが地図を閉じた。
「誘導方向は北西。帰路ではないよ」
反論ではない。
黒鷹隊へ向けた確認だった。
女は答えなかった。
上げていた手を握る。
投影された帝国兵が、一斉に南へ走り出した。
像が黒鷹隊の間をすり抜ける。
直後、その背後から実弾が飛んだ。
像に視界を遮られた一瞬を、敵兵が狙っていた。
隊員の一人が倒れる。
弾丸ではなかった。
足元の雪が小さく爆ぜ、埋められていた鋼索が跳ね上がった。
鋼索は装備箱の金具へ絡み、岩の裂け目へ引き込まれている。
背負い帯に身体を引かれ、右脚が雪の中で動かない。
「負傷一名」
「救出は待て」
ヴィクトリアが軍刀を雪面へ向けた。
「先に端子を落とす」
紫光が黒い手袋から刃へ走った。
細い枝のように分かれ、軍刀の表面を覆う。
「姉様」
クラウディアが呼ぶ。
「出力が早い」
「退路を開ける」
ヴィクトリアは軍刀を雪へ突き立てた。
紫電が導線へ入る。
光は雪の下を南へ走った。
一つ目の像が消える。
二つ目が輪郭を失う。
三つ目は手を振った姿のまま、白い粒へ崩れた。
岩壁の投影も続いて消える。
偽りの兵士がなくなった。
残ったのは、発砲する敵兵と、倒れた味方だけだった。
黒鷹隊の射撃が実体へ集中する。
灰色の外套が岩陰へ退いた。
投影端子の灯りが、雪の下で順番に焼き切れていく。
紫電はそこで止まらなかった。
ヴィクトリアの手袋から外套の金具へ移る。
軍刀から近くの銃身へ飛ぶ。
乾いた音を立て、紫光が周囲の金属を渡り始めた。
隊員たちは銃を身体から離し、ヴィクトリアの周囲を空ける。
黒鷹隊が迷わず作った退避線だった。
倒れた隊員だけが、その内側に残っている。
「金具を切ります」
リディアは軍刀を抜いた。
「待って」
クラウディアの声が飛ぶ。
「そこから先は紫電の範囲だよ」
「承知しています」
リディアは退避線を越えた。
舌の奥に金属の味が広がる。
外套の留め具に細い紫光が触れ、すぐに離れた。
倒れた隊員のそばへ膝をつく。
装備箱の革帯は、鋼索に強く引かれていた。
軍刀を差し込む。
一度目では切れない。
「下がれ」
ヴィクトリアの声が近くで落ちた。
「あと一度です」
「命令だ、中尉」
二度目で革帯が切れた。
装備箱が雪の中へ沈む。
リディアは隊員の腕を取り、身体を引いた。
ヴィクトリアとの距離が、二歩まで縮まる。
その時、周囲の金属を渡っていた紫光が止まった。
枝分かれしていた線が、軍刀の上へ戻る。
空気に張りついていた刺激が薄れた。
風の音が戻る。
一息だけだった。
ヴィクトリアの深藍碧色の瞳が、リディアへ向く。
黒い手袋の上で紫電が揺れる。
それでも、先ほどのようには広がらない。
「戻れ」
「了解しました」
リディアは隊員を支え、退避線の外へ戻った。
クラウディアは腕時計を見た。
次に、リディアが越えた距離を確かめる。
「第三班、撤収準備。通信班は現時刻を保持」
「了解」
白銀の女は、岩壁の上からその一部始終を見ていた。
赤い瞳がリディアに止まる。
ヴィクトリアの右手へ移る。
「……そう」
女が手を下ろした。
敵側の射撃が止まる。
灰色の外套が、一人ずつ岩壁の奥へ消えていった。
「追うな」
ヴィクトリアの命令が先に落ちた。
黒鷹隊は銃口を保ったまま動かない。
最後に白銀の外套が翻り、岩の向こうへ消えた。
風だけが谷間を通った。
雪の上には、敵兵の足跡が残っている。
帝国兵の足跡は、一つもなかった。
ヴィクトリアは軍刀を下ろした。
「損耗報告」
「軽傷二名。一名は歩行に補助が必要です」
「死亡者なし」
「投影端子一基を回収可能。導線上の端子は焼損」
ヴィクトリアは短く頷いた。
「調査を打ち切る」
「旧橋梁は未確認だよ」
クラウディアが腕時計から顔を上げた。
「敵性工作と埋設罠を確認した」
ヴィクトリアは南を見た。
斜面の向こうで、列車の煙が細く昇っている。
「帰路を確保したまま継続できる状況ではない」
「異論はない」
クラウディアは地図を閉じた。
「端子と交戦記録を持ち帰る。経路確認は再編後だね」
「そうしろ」
撤収が始まった。
歩行に補助が必要な隊員を中央へ入れ、その左右を二名が支える。
工兵は回収した投影端子を遮蔽袋へ収め、通信兵は携帯計器を胸元へ戻した。
黒鷹隊が左右を固める。
ヴィクトリアは最後尾に残った。
来た時と同じ斜面を、今度は足跡を踏み直して戻る。
雪はすでに荒れていた。
交戦時に削られた岩片。
焼き切られた導線。
紫電に融かされ、薄い氷となった雪。
そこを避けながら、隊列は南へ進んだ。
負傷した隊員の歩幅に合わせ、全体の速度が落ちている。
誰も急かさなかった。
聞こえるのは、軍靴が雪を割る音と、装備の金具が小さく触れ合う音だけだった。
リディアは隊列の後方へ一度だけ目を向けた。
ヴィクトリアは数十歩後ろを歩いている。
軍刀は鞘へ戻されていた。
黒いマントの下で、右腕だけが身体の動きに追いついていない。
それでも、足取りは変わらなかった。
前方で通信兵が携帯計器を確認する。
「中継点との接続、回復」
途切れていた確認音が戻った。
一定の間隔で鳴る、小さな電子音。
斜面を一つ越えると、橙色の術式灯が見えた。
二つ。
片方だけが、同じ間隔で暗くなっている。
その下に、濃灰色の列車が停まっていた。
誰も、像が示した北西の細道を振り返らなかった。
存在しない監視塔。
痕跡のない補給線。
逆向きの影を落とす標識。
その標識が敵側の投影だったことは分かった。
だが、ヴィクトリアの部隊が先日どこを通って戻ったのかは、まだ分からない。
幻影は帰路を偽っていた。
帰還そのものの記録まで偽りなのかは、確かめられなかった。
*
第五中継点へ戻ると、衛生兵が担架を持ってホームへ降りてきた。
歩行に補助が必要な隊員が先に引き渡される。
残る負傷者もその場で状態を確認され、衛生車両へ収容された。
工兵は回収した投影端子を封緘箱へ移す。
通信班は反復信号と交戦時刻を照合していた。
黒鷹隊員たちは乗車する前に人数を数え直し、互いの装備を確認する。
戦闘が終わっても、誰もすぐには座らなかった。
クラウディアは列車脇で記録板を開いた。
交戦開始時刻。
投影端子の作動。
紫電出力上昇。
退避線形成。
ヴァルモント中尉、線内へ進入。
白い手袋に挟まれたペンが止まる。
クラウディアは腕時計を見直し、その下へ一文を加えた。
近接時、外周漏出の一時低下を確認。
原因欄には何も書かなかった。
「全員収容完了」
「敵影の追跡なし」
「発車準備、完了しています」
ヴィクトリアは最後の報告を受け取った。
「出発しろ」
声に異常はなかった。
クラウディアが記録板を閉じ、姉へ近づく。
「姉様」
「問題ない」
問われる前に、ヴィクトリアは答えた。
クラウディアの足が止まる。
「何も聞いていないよ」
「聞く顔をしている」
短い沈黙が落ちた。
クラウディアの灰碧色の瞳が、姉の右手へ向く。
黒い手袋には、細い焦げ跡が残っていた。
「隣接車両の人員を移す」
「不要だ」
「指揮系統は変えない。隣接車両の人員だけ、予備車両へ移すよ」
ヴィクトリアは返答しなかった。
拒否も重ねず、指揮車両へ向かう。
リディアは作戦車両の乗降口から、その背を見ていた。
黒いマントが金属扉の奥へ消える。
扉が閉じた。
列車が動き始める。
少し遅れて、指揮車両の灯りが一度だけ明滅した。
扉の向こうで、細い紫光が金属壁を走った。




