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これではいけないと、まだ雪の残る外を避けて、キャンパスの建物の中を歩いたりしたのだが、なぜか歩くたびに健康を損ねていった。
しばらく使わなかった片足は、歩くことを拒否しているかのようであった。
歩けば歩くほど、体にダメージが蓄積されていき、歩けば歩くほど、歩ける距離が短くなっていった。
明らかに人生の歯車が狂っていっていた。
母の支配から逃れ、苦労して北海道まで来たというのに、母から逃れることはできなかった。
その事実が、私を打ちのめしていた。
おそらく、私は決して母から逃れることはできないのであろう。
これからの人生、決して。
そのうちに大学の授業にも出れなくなった。
それは精神的に、というより、肉体的なものだった。
学生生活を送ることに、肉体的に耐えられなくなってしまったのである。
きっかけは精神的なものだったかもしれないが、肉体が付いていかなくなった。
何をやってもすぐ疲れるようになり、一日中ベッドで寝ていることが多くなった。
なぜそんなふうになってしまったのかは、思い当たる節があった。
あのとき、弁当の煮豆を食べたせいだ。
いや、煮豆だけでなく、あの母が作った重箱の弁当を食べたせいだ。
そうに違いない。
でなければどうして急激に、若い肉体が奇妙に衰えたりなどするものか。
結局、私はとうとう学生生活を送ることができなくなってしまう。
母と相談し、大学は休学することとなった。
もちろん、そんなことはしたくはなかったし、母とは口も聞きたくない気分だった。
だがこのときの私は、大学生とはいえ、まだ親の庇護下にある身分の私にとっては、避くべからざる選択であった。
テレビで忙しいはずの母は、何度も北海道までやってきて、大袈裟な心配と、北海道の気候やら、土地やら、学友たちやら、ありとあらゆるいろんなことに対して念の入った恨み節をつらね、テキパキと休学の手続きを整え、アパートの退去と引越しの準備を進めた。
一応、体調が戻るまで実家で暮らすということで、東京に帰ったわけだが、新千歳空港から飛行機で飛び立った私は、もう二度とこの地を踏むことはないのだろうな、と感じていた。
人生が、精神が、我が身が、自分という存在の全てが、捩れ、崩壊していくようだった。
東京に戻ってから、私は母の勧めというか、強制的に、母によって医者の元に連れていかれた。
それは母が元々信頼している医者であったり、人から評判がいいのを聞いてきた医者であったりした。
一つの医者で効果がないと見ると、すぐにまた別の医者に診せられた。
いろんな病院に行き、いろんな治療を受けさせられた。
他に外出することはなかった。
しようにも、すぐに肉体が疲れてしまい、10分と外に出ていることができなかったから、自然と家の中ばかりにいることとなった。




