第九話
アネットが平民のアパートから連れ戻されて、一週間。
後宮にあるアネットの寝室は、以前とは比べものにならないほどの熱気と、恐ろしいほどの甘さに包まれていた。
「ローレンツ、殿下……。あの、私、ただお茶を淹れようと立ち上がっただけなのですが」
「動くなと言っているだろう。お前が動いていいのは、俺の腕の中にいる時だけだ」
ソファに座るアネットの膝の上には、大きな頭が乗っている。
ローレンツはアネットの細い腰をこれでもかと抱きしめたまま、完全に彼女を『人間座布団』にしていた。流れる金髪をアネットの胸元に擦りつけ、片時も離れようとしない。あの「氷の皇太子」の威厳は、アネットの前では完全にログアウトしていた。
「ですが、ずっとベッドやソファの上ばかりでは退屈ですわ。たまにはお庭の散策くらい……」
「歩くなど言語道断だ。床が冷えていたらどうする。お前がどうしても歩きたいと言うなら、俺がお前を抱き抱えて歩く。それか、俺の足の甲にお前の足を乗せて歩け」
「……それはペンギンの親子のようで見苦しいですわ」
アネットが呆れたようにため息をつくと、ローレンツはハッとしたように顔を上げ、涙ぐんだ瞳で彼女を見つめた。
「見苦しい……!? アネット、やはり俺のことが嫌いになったのか!? あの狭いアパートの方が良かったのか!? 頼むから自分の力で生きようなんて二度と思わないでくれ。お前の可愛い指に、これ以上針仕事のタコができるのを見たら、俺の心臓がストレスで破裂する……!」
「はいはい、分まりましたから、泣かないでくださいませ」
アネットは苦笑しながら、彼の柔らかい金髪を優しく撫でた。
あの日以来、ローレンツの「アネット拒絶症(嫌われるのを恐れる病)」は悪化し、今や狂気的な過保護へと昇華していた。アネットが少しでも「自分でやります」と言おうものなら、世界が終わるかのような絶望顔をするのだ。
そこへ、部屋の扉が静かに開いた。
「失礼します」と入ってきたのは、完全に死んだ目をした側近のディミトリだった。その背後のワゴンには、うずたかく積まれた大量の布地がある。
「殿下、アネット様。例の『街の仕立て屋』にあった、アネット様が打たれた刺繍の既製服、および試作品、果てはアネット様が使われていた裁縫箱と余った刺繍糸まで、すべて買い占めてまいりました。これでよろしいですか」
「よくやった、ディミトリ。すぐに我が国の国宝に指定し、専用の保管庫を作れ。アネットの打った針目は一針たりとも他人の目に触れさせん」
「殿下、本気で仰っていますの……!?」
アネットは顔を真っ赤にして叫んだ。平民時代に生きるために必死に打った刺繍が、なぜか国の最高機密のように扱われようとしている。
「当然だ。お前が俺以外の生活のために心を込めた布など、他の男に見せられるか。……それから、アネット」
ローレンツはすっと表情を真面目なものに変えると、ワゴンの奥から、あのビロードの木箱を取り出した。
中にあるのは、あの深く澄んだ、青いサファイアの首飾り。
ローレンツはアネットを優しくソファに座らせると、背後に回り込み、彼女の白い首元にその首飾りをかけた。
今度は「外聞のため」でも「施し」でもない。
「世界で一番、お前に似合う。……建国記念夜会には出せなくて済まなかった。あそこはお前を傷つける有象無象が多すぎた。だから……来月、お前と俺のためだけの夜会を開く。お前はただ、俺の隣で世界一幸せそうに笑っていればいい」
首元で冷たく、けれどどこか温かく輝く青い宝石。
アネットは鏡に映る自分と、その後ろで愛おしそうに自分を抱きしめるローレンツの姿を見た。
(ああ、本当に……この人は不器用で、愛が重すぎるのね)
けれど、もう恐怖はなかった。この重すぎる愛こそが、自分の新しい居場所なのだと、アネットは深く理解していた。
「ええ、喜んで。……私の、大好きなローレンツ」
アネットが微笑みながら振り返り、彼の頬にそっとキスを贈ると、ローレンツは「うぐっ……!」と胸を押さえてその場に卒倒しそうになり、ディミトリに「しっかりしてください、次期国王」と冷ややかに支えられるのだった。
二人の拗れきった恋路は、これから一生かけて、甘すぎるほどに解きほぐされていく。




