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氷の皇太子の仮面の下は、没落婚約者への狂愛で満ちている  作者: 迦陵れん


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第八話


「……、……っ」


 激しく蹴破られた扉の向こう、夕闇の逆光の中で、ローレンツは幽鬼のように立ち尽くしていた。


 乱れた金髪、土埃に汚れた外套。いつも完璧だった彼の面影はどこにもない。ただ、その双眸だけが、暗闇の中で獲物を見つけた獣のように、アネットの姿を執拗に捉えて離さなかった。


 アネットは恐怖のあまり、呼吸をすることさえ忘れていた。鞄からこぼれ落ちた平民の衣服が、床に虚しく散らばっている。


(見つかって、しまった……。私は、他国の男と不貞を働いて逃げた大罪人として、処刑されるのね……)


 ローレンツの怒号が響くことを覚悟し、アネットはぎゅっと目を閉じ、体に力を入れた。


 しかし、次に聞こえてきたのは、激しい怒声ではなかった。


 ガタガタと、信じられないほど激しく床が鳴る音。


 驚いてアネットが目をあけると、そこには――。


 絢爛豪華なアスラント帝国の頂点に立つはずの皇太子が、古びた平民のアパートの汚れた床に両膝を突き、アネットの足元に崩れ落ちている姿があった。


「あ……ねっと……。アネット、アネット……っ!」


「え……? ロ、ローレンツ、殿下……?」


 アネットの困惑など耳に入らないかのように、ローレンツは床に膝を擦りつけながら這い寄り、アネットの細い腰を、折らんばかりの力で抱きしめた。その頭が、アネットのお腹のあたりに強く押し付けられる。


 凄まじい力で抱きすくめられながら、アネットは呆然とした。


 なぜなら、自分を抱きしめる彼の肩が、子供のように激しく 震えていたからだ。さらに、アネットの薄手のドレスの腹裏に、じわりと熱い、大量の水分が染み込んでいく。


 ローレンツが、泣いていた。


 あの「氷の皇太子」と恐れられた男が、声を上げて、嗚咽を漏らして、惨めに縋り付いているのだ。


「頼む、頼むからもうどこにも行かないでくれ……っ! 俺が、俺が悪かった……! お前を『飾り』だなんて言ったのは、お前をハメたバルドゥール侯爵家からお前を守るためだったんだ……! あいつらの前でお前を大切にすれば、お前がどんな目に遭うか分からなかったから……。なのに、俺の呪いのような言葉のせいで、お前を、お前を殺しかけた……っ!」


 ローレンツはアネットのドレスの布地を血が滲むほど強く握りしめ、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、狂ったように本音を吐き出していく。


「お前が消えた部屋で、あのサファイアと、お前の書き置きを見た時……俺は自分の心臓を抉り出されたかと思った! お前は重荷なんかじゃない! お前がいない世界なんて、俺には一秒だって価値がないんだ! お前がリュールと逃げたと聞いた時は、世界ごとあいつの国を滅ぼして、お前を奪い返して、俺も死のうと思った……っ!」

「殿下……、そんな……」


 アネットの瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。


 あまりにも強烈な、剥き出しの、狂気的なまでの愛情。


 彼が自分を憎んで探していたのではないこと。それどころか、自分を失って、これほどまでに壊れてしまっていたこと。


『飾り』という言葉も、『施し』という言葉も、すべてはこの不器用な男が、アネットを守るために空回りし続けた結果の、悲しい嘘だったのだと、ようやく理解した。


「……怖かったのよ、ローレンツ」


 アネットはそっと、自分の腰に回されたローレンツの大きな手に、自らの手を重ねた。針仕事で少し荒れたその指先が触れた瞬間、ローレンツがビクリと身体を跳ね上げる。


「あなたが、私のことを『恥晒し』だと思っているのだと、ずっと……。私、平民の家賃を稼ぐために、必死で内職をして……あなたに迷惑をかけずに消えようって、それだけを思っていたの……」

「迷惑なわけがないだろう……!!」


 ローレンツは弾かれたように顔を上げ、涙に濡れた美しい瞳でアネットを見つめた。その顔には、かつての傲慢さは微塵もなく、ただ初恋の少女に嫌われることを恐れる、哀れな男の顔だった。


「家賃なんて、お前が一生遊んで暮らせるだけの国庫をやる! 頼むから、俺の富を使ってくれ、俺の特権を奪わないでくれ……! お前が自分の力で立つなんて言ったら、俺は、お前に何もしてやれない……っ!」

「ふふ……、本当にお馬鹿な人……」


 アネットは涙を流しながら、愛おしさが限界を突破し、ついに小さく 吹きこぼれた。


 かつて幼馴染だった頃のように、完璧な淑女の仮面を脱ぎ捨てて、心から彼に笑いかける。


「もう、どこにも行きませんわ。……だから、そんな風に泣かないで、ローレンツ」


 アネットがその名前を呼んだ瞬間、ローレンツの瞳に、極彩色の光が戻った。


 彼は息を呑み、今度は逃がさないと言わんばかりに、アネットの唇を 乱暴に、けれど信じられないほど深く、貪るように塞いだ。


 部屋の入り口では、追いついたディミトリが、壊れた扉の陰で「やれやれ」と額を押さえている。そのさらに後ろでは、リュールが「いやあ、完敗だね」と苦笑しながら引き返していく姿があった。


 薄暗く狭い平民のアパートの一室で、二人は互いの涙を 溶かし合うように、何度も、何度も口づけを交わした。


 もう二度と、言葉を間違えないように。この歪で、狂おしいほどの愛を、生涯をかけて繋ぎ止めるために。














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