第七話
「──聞いたか? バルドゥール侯爵家が、一晩で改易されたらしいぞ」
仕立て屋の薄暗い作業場の隅で、布地を整理していたアネットの手が、ピキリと止まった。
談話スペースから聞こえてくる、街の商人たちのひそひそ話。その内容に、アネットの心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
「ああ。皇太子殿下が自ら証拠を突きつけられたそうだ。夜会の席で、それはもう容赦のない冷徹さだったと。……セリーヌ令嬢も、泣き叫びながら引きずり出されたらしい」
「まるで、最初からあの侯爵家を 根こそぎ叩き潰すことだけを狙っていたかのような、凄まじい執念だったってよ。……だけど奇妙なのは、殿下、その直後から国政の最高決裁をすべて放り出して、行方不明の元婚約者の捜索ばかりに私兵を動かしているんだとか」
「おいおい、国を揺るがす大罪人を捕まえるためか? 恐ろしいことだ……」
商人たちの声が遠ざかっていく。アネットは、手にしたシルクの布地をぎゅっと 握りしめていた。指先が白くなるほど、強く。
(セリーヌ様の実家を、殿下自ら叩き潰した……? 殿下にとって、セリーヌ様は次の皇太子妃となる、大切な本命の方ではなかったの……?)
頭の中が、激しい混乱で真っ白になる。
あの日、東屋でローレンツが放った『アネットはただの、温情を示すための飾りに過ぎん』という言葉。あれは、セリーヌに良い顔をするための言葉だとばかり思っていた。けれど、もし彼が最初からバルドゥール家を敵とみなしていたのだとしたら。
(じゃあ、あの言葉は一体、誰に向けられたものだったの……?)
自分の思い込みが、足元からガラガラと崩れ去っていくような恐怖。
そしてそれ以上に、彼がすべてを放り出して自分を探しているという事実に、背筋が凍るような戦慄を覚えた。国政の天才と言われたあの人が、すべての平穏を投げ打って、自分という『恥晒し』を 捕まえようとしている。
夕暮れ時、仕立て屋の裏口から外へ出たアネットは、さらに息の根を止められそうな光景を目にする。
「……あの、この針目に見覚えはありませんか?」
少し離れた大通りで、見覚えのある銀髪の青年――ローレンツの側近であるディミトリが、街の商人に熱心に聞き込みをしていた。彼の手にあるのは、アネットが数日前、夜通しで仕上げて納品したはずの、あの繊細な刺繍が施されたドレスの端切れだった。
(ディミトリ様……! なぜ、あの刺繍を……っ)
ハッと息を呑み、アネットは慌てて路地の影に身を隠した。心臓が早鐘のように、うるさいほど胸の裏側を叩く。
ディミトリは、アネットの刺繍の腕を誰よりも知っている。街で「正体不明の天才職人」として噂になった私の針目が、ローレンツの鋭い包囲網に繋がる決定的な『糸口』になってしまっていたのだ。
「もう時間がないね、アネット」
突然、背後の闇から声をかけられ、アネットは短い悲鳴を上げて振り返った。そこにいたのは、憂いを帯びた瞳で自分を見つめる、隣国の王子リュールだった。
「ローレンツはもう限界だ。君が僕と一緒に逃げたと思い込んで、隣国との戦争すら辞さない構えで国境の兵まで動かそうとしている。……すべてを焼き尽くしてでも君を連れ戻す気だ」
リュールはアネットの肩を優しく掴み、その耳元で、警告するように低く囁いた。
「アネット。君があいつの元に戻れば、君は『他国の男と不貞を働いて逃げた大罪人』として、二度と光の当たらない檻に入れられるかもしれない。あの男の執念は、もう愛なんて綺麗なものじゃない。ただの狂気だ。……本当に、あの男の元へ戻るかい?」
「あ、私は……」
リュールの言葉が、アネットの胸を鋭く切り裂く。
檻。不貞の大罪人。ローレンツのあの冷酷な、すべてを拒絶するような瞳が脳裏をよぎる。黙って消えた自分への、そして他国の男と密会していた(と誤解している)自分への、あの人の怒りはどれほどのものだろう。
けれど、それと同時に、あの夕暮れの街で一瞬だけ見た、ローレンツの『今にも泣き出しそうな、悲痛な横顔』が、どうしても頭から離れなかった。
(殿下は、私を憎んで殺すために探していらっしゃるの? それとも……)
恐怖と、断ち切れない恋慕。彼の本音が見えない闇の中で、アネットの心は限界まで引き裂かれそうになっていた。リュールの手を拒絶し、逃げるように自分のアパートへと走り出す。
一刻も早く、ここからも逃げ出さなくては。私の存在が、あの人をさらに狂わせてしまう前に。
狭く冷たい自室に飛び込み、アネットはガタガタと震える手で、わずかな荷物を鞄に詰め込み始めた。早く、遠くへ、誰も私を知らない場所へ──。
その時だった。
──ドンッ!!!
古い木製の扉が、蝶番ごと吹き飛ぶかのような凄まじい衝撃音と共に、内側へと激しく蹴破られた。
砂埃が舞う部屋の入り口。
夕闇の逆光を背に、剣を帯び、肩を激しく上下させて立っていたのは。
金髪を狂おしく乱し、瞳に見たこともないほどの『執着』と『絶望』の炎を宿した──ローレンツだった。
アネットの手から、ぽろりと荷物がこぼれ落ちた。




