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氷の皇太子の仮面の下は、没落婚約者への狂愛で満ちている  作者: 迦陵れん


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第六話

 城を抜け出し、街の片隅にある古びたアパートの一室に身を隠してから、一週間が経った。


 四畳半ほどの狭い部屋。きしむベッドと、小さな木机があるだけの空間は、かつて過ごした豪奢な後宮とは比べものにならないほど寒々しかった。それでも、自分で針を動かして稼いだわずかな銅貨で硬いパンを買い、それを齧る瞬間にだけは、誰の重荷にもなっていないという奇妙な安らぎがあった。


(これでいいの。私はもう、殿下の完璧な人生を汚す飾りでも、恥晒しでもない。ただの、名もなき平民のアネットなのだから……)


 そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥底がじりじりと焼け付くように痛む。


 どれほど冷酷に突き放されても、どれだけ自尊心を削られても、私の心はまだ、あの黄金の髪と氷の双眸を求めていた。忘れられるはずがなかった。幼い頃からずっと、私の世界の中心には、いつも彼がいたのだから。


 けれど、街に流れる噂は、そんなアネットのささやかな安らぎを容赦なく剥ぎ取っていく。


「おい、聞いたか? 皇太子殿下が、失踪した元婚約者を血眼になって探しているらしいぞ」

「国境の検問もすべて封鎖されたって話だ。見つかったら不敬罪で処刑されるんじゃないかって噂だぜ」


 仕立て屋の裏口で針子たちがお喋りする声を耳にした瞬間、アネットの手元が狂い、針が深く指に刺さった。ポタポタと落ちる赤い血を、震える手で必死に押さえる。


(やはり……お怒りなのだわ。黙って婚約者の座を放棄した私を、我が国の『恥』として、処罰するために探していらっしゃるのね……)


 見つかったら、今度こそ本当に終わりだ。冷え切った牢獄に入れられるか、あるいはもっと恐ろしい罰を受けるかもしれない。ローレンツのあの冷徹な眼差しが脳裏をよぎり、アネットは恐怖で全身がガタガタと震えそうになるのを、必死に堪えていた。


 そんなある日の夕暮れ、アパートの扉が静かにノックされた。


 怯えながらアネットが扉を開けると、そこには、フードを深く被った隣国の王子、リュールが立っていた。


「……見つけたよ、可愛いアネット嬢」


 リュールはいつもの爽やかな微笑みを浮かべ、狭い室内に入ると、そっとアネットの震える手を包み込んだ。


「ローレンツは狂ったように騎士団を動かしている。君をまるで、檻から逃げた小鳥のように連れ戻そうと躍起になっているよ。……アネット、そんなに怯えることはない。僕の国へ来ないか? 君を『飾り』ではなく、一人の尊い女性として、僕が一生大切に守ると誓う」


 リュールの温かい言葉。差し伸べられた救いの手。


 それは今の傷ついたアネットにとって、何よりも甘く、魅力的な誘いのはずだった。けれど──アネットの口から出たのは、拒絶の言葉だった。


「……ありがとうございます、リュール殿下。でも、お気持ちだけ受け取らせてください。私は、誰かの保護の元で生きるのではなく、自分の力で立っていたいのです。これ以上、他国の方の手を煩わせるわけにはまいりません」


 リュールは少しだけ寂しそうに、けれど全てを見透かしたような大人の微笑みを浮かべた。


「……君のその頑固なまでの気高さが、彼を狂わせ、僕を惹きつけるんだろうね。気が変わったら、いつでも僕を頼るといい」


 リュールが去った後、アネットは一人、胸を押さえて座り込んだ。


 なぜ断ってしまったのだろう。リュールについて行けば、ローレンツの恐怖から逃れられたかもしれないのに。


(私は、どこまで愚かなのかしら……。処刑されるかもしれないと怯えながらも、まだ、あの人の国から出たくないなんて思っているなんて)


 その日の暮れ方、必要な食材を買うためにアネットが薄暗い街路を歩いていた時のことだった。


 突如、地響きのような激しい馬の蹄の音が響き渡った。


「退け! 道をあけろ!」


 騎士たちの怒号。アネットは心臓が止まりそうになりながら、慌てて路地裏の物陰に身を潜めた。フードを深く被り、息を殺して通りを覗き込む。


 先頭を駆けていたのは──他でもない、ローレンツだった。


 馬を荒々しく操り、街並みを鋭い視線で見回すその姿。アネットは恐怖に身を竦ませた。しかし、彼が物陰のすぐ側を通り過ぎようとした、その一瞬。


 アネットは目を見張った。


(……え?)


 街灯の光に照らされたローレンツの横顔。そこに、かつての冷徹な「氷の皇太子」の面影はなかった。


 金髪は乱れ、頬はやつれ、その双眸は怒りではなく──今にも泣き出しそうな、胸を掻き毟るような深い「悲痛」に染まっていたのだ。


 まるで、世界で一番大切なものを失くしてしまった子供のような、絶望に満ちた顔。


 ローレンツの馬が走り去った後も、アネットは物陰から動くことができなかった。ドクドクと不快なほど激しく打つ心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。


(なぜ……? なぜ、あんなに辛そうな顔をなさるの? 殿下にとって私は、ただの『飾り』で、目障りなお邪魔虫だったはずなのに……。どうして、あんな顔で私を探しているの……?)


 彼の本心が、全く分からない。


 処刑される恐怖と、彼のあの悲しげな横顔への戸惑い。二つの感情がアネットの胸の中で激しく渦巻き、彼女の心を容赦なく掻き乱していった。








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