第五話
「誘惑」「恥をかかせるな」──温室でのローレンツの言葉が、アネットの心を完全に決定づけた。
(ここにいては、殿下の邪魔になるばかりか、不名誉な疑いまでかけられてしまう。一刻も早く、ここを出ていかなくては)
アネットは、後宮を去ったあとの計画を立てていた。頼れる実家はもうない。これからは平民として、自分の力で生きていくのだ。そのためには、小さな家を借りるための頭金と、数ヶ月分の家賃が必要だった。
幸い、公爵令嬢時代に叩き込まれた「刺繍」の技術だけは一流だった。アネットはディミトリに頼み込み、素性を隠して街の仕立て屋から高級既製服の刺繍の居残り仕事を回してもらうことにした。
それからというもの、アネットは夜な夜な、自室のランプの灯りの下で針を動かした。
「……ふう。これで今月分の家賃にはなるかしら」
昼間の疲れも見せず、目を血走らせて一針一針に魂を込める。指先が針で刺され、血が滲んでも、感覚すら麻痺していた。
(もうすぐ自由になれる。もうすぐ、殿下を私の存在から解放して差し上げられるわ。彼に『恥』をかかせることも、もうなくなるのね……)
それは寂しいはずの決意なのに、彼女の胸にはどこか、憑き物が落ちたような静けさがあった。アネットの打つ繊細な刺繍は、街の貴族たちの間で「正体不明の天才職人が現れた」と、密かに大評判になり始めていたが、今の彼女にはそんな名誉はどうでもよかった。ただ、一日でも早く、あの冷たい視線から逃れたかった。
しかしある夜、恐れていた事態が起きる。
前触れもなく、自室の扉が激しく押し開けられた。そこに立っていたのは、眉間に深い皺を寄せたローレンツだった。
「アネット……!? お前、何をしているんだ」
驚愕するローレンツの視線が、机の上に散らばる大量の布地と糸に注がれる。アネットは弾かれたように立ち上がり、慌てて刺繍を背中に隠した。
「ロ、ローレンツ殿下……! なぜこのような時間に……」
「その布は何だ! なぜそんな貧相な内職のようなことをしている!? 欲しいものがあるなら、なぜ俺に言わない!」
ローレンツの声は、怒りで激しく震えていた。その威圧的な態度に、アネットの心はすっと冷めていくのを感じた。
(また、怒られるのだわ。皇太子の婚約者がこんな内職をして、外聞が悪い、恥さらしだと……。私のやること為すことすべてが、この人には不快でしかないのね)
アネットは悲しげに目を伏せ、しかし真っ直ぐにローレンツを見据えて、きっぱりと言った。
「殿下のお金を、これ以上私の私欲のために使うわけにはまいりません。私は……自分の力で生きていくための蓄えが必要なのです。これ以上、殿下にご迷惑をおかけしたくありません」
「迷惑だと……!?」
ローレンツの顔が、見たこともないほど白く強張る。
「俺の金が不満か! お前はアスラント皇太子の婚約者だぞ! 頼むから……俺を、俺の力を頼れ!」
「……お言葉ですが殿下。私はもう、ただの『飾り』なのでしょう? ならば、せめて中身くらいは、自分の力で立っていたいのです。殿下の重荷になりたくありません」
(これ以上、あなたに『施し』を受け、憐れまれ、その裏で『恥さらし』と罵られるのは、私の心が耐えきれないのです──)
アネットの冷徹な正論に、ローレンツは言葉を失ったように絶句した。その唇が微かに戦慄いている。
「用が済みましたら、お引取りください。明日の分の仕事が残っておりますので」
一歩も引かないアネットの瞳を見て、ローレンツは拳を固く握りしめ、何かを堪えるように部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋で、アネットは机の上に置かれた、あの青いサファイアの首飾りの箱を見つめた。
「これで、お別れですね」
翌朝、そこには綺麗にまとめられたわずかな荷物と、サファイアの箱だけが残されていた。




