第四話
セリーヌとローレンツの会話に心を完全に打ち砕かれたアネットは、逃げるように宮殿の奥にある古い温室へと足を運んでいた。
ここなら、自分を「飾り」や「面汚し」と嘲笑う者は誰もいない。誰もいない静寂だけが、今の彼女を癒やしてくれる唯一の味方だった。
「……ううっ……、くすん……」
堪えきれず目元を拭う。公爵令嬢だった頃は、涙を見せることなど決して許されなかった。けれど今、誰もいないはずの温室で、せき止めていた悲しみがあふれ出して止まらない。
(私はどうして、まだあの人を好きでいてしまうんだろう。あんなに冷たくされて、道具だと言われたのに……。まだ、あの人に優しくされたいと願ってしまう自分が、一番惨めだわ……)
「おや。こんな美しい場所で、花よりも綺麗な淑女が涙を流しているなんて。……神様も意地悪をなさる」
鈴の鳴るような、ひどく心地よい声。
驚いてアネットが顔を上げると、そこには白銀の髪をなびかせた、見事な美青年が立っていた。隣国の第一王子であり、この国に留学中のリュールだ。誰に対しても一線を引くはずの彼が、アネットに純白のハンカチを差し出し、跪いている。
「僕の前では、無理に微笑まなくていい。……アネット嬢、君の健気さは、僕もよく耳にしているよ」
「私のことを、ご存知なのですか……?」
「もちろん。……冷徹なローレンツには、君のような美しい宝石は少々不釣り合い(もったいない)だと思ってね」
リュールは爽やかに笑いながら、アネットの髪に落ちていたブーゲンビリアの花びらを、優しく指先で払った。
その指先の温かさに、アネットの胸が小さく震える。
(ああ……私を、一人の人間として見てくれる人が、まだいるのね)
道具でもなく、飾りでもなく、「アネット」という一人の女性として優しく扱われたことで、彼女の凍りついていた孤独が、ほんの少しだけ溶かされていくような気がした。
だが、その穏やかな時間は、唐突に鳴り響いた「激しい足音」によって破られる。
「──そこを退け、リュール」
現れたのは、肩を激しく上下させ、瞳に尋常ならざる怒りを宿したローレンツだった。
ローレンツから放たれる凄まじい威圧感に、リュールは面白そうに口元を歪めたが、「では、またね、可愛いアネット嬢」とだけ言い残し、爽やかに去っていった。
温室に残されたのは、荒い息を吐くローレンツと、その気迫に身をすくめるアネットの二人だけ。
ローレンツはゆっくりとアネットを振り返った。その顔は、これまで見たこともないほど歪んでおり、アネットにはそれが「不祥事を起こしたペットに対する激怒」にしか見えなかった。
そして、ローレンツの口から飛び出したのは、アネットの尊厳を完全に消し去る言葉だった。
「……何をしている! 我が国の皇太子の婚約者でありながら、他国の男を誘惑するような真似をするとは。これ以上、私に恥をかかせるな!」
(──誘惑)
(──恥をかかせるな)
アネットの頭の中で、ローレンツの冷酷な言葉が、今度は鋭い刃となって胸を何度も突き刺した。
(私はただ、泣いていたのを慰めてもらっただけなのに……。殿下は、私のことをそんな、貞操観念もない不潔な女だと、そう思っていらっしゃるのね。セリーヌ様という本命がいながら、私のことは『浮気者』だと疑う。最初から、私を人間として一ミリも信用なんてしていなかったんだわ。ただの『飾り』のくせに、これ以上不貞を働いて俺の泥を塗るな、と……)
アネットの瞳から、完全に光が消えた。
涙すら、もう出なかった。これ以上、この人に何を言っても無駄なのだ。私は彼の名誉を汚すだけの存在。私の存在そのものが、彼の「恥」なのだ。
「……お見苦しいところをお見せし、大変申し訳ありませんでした、ローレンツ殿下。今後は、このような『恥』を晒さぬよう、厳に慎みますわ」
アネットは冷え切った、完璧な一礼をすると、ローレンツが引き留める隙も与えず、足早に温室を立ち去った。二度と振り返らなかった。




