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氷の皇太子の仮面の下は、没落婚約者への狂愛で満ちている  作者: 迦陵れん


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第三話

「アネット様、殿下の命令を無下にされては、それこそ不敬になりますよ」


 翌日、ディミトリにそう諭され、アネットは重い足取りで宮殿の庭園へと向かっていた。


 鏡の前で、何度も首元に手を伸ばしては躊躇った。結局、身につけているのはあのサファイアの首飾りだ。「仕舞っておく」と言ったアネットに対するローレンツのあの冷淡な沈黙を思えば、義務としてでも身につけて見せるのが、今の自分の正しい処世術なのだと思わざるを得なかった。


(これをつけていれば、殿下は満足してくださるのかしら。少しは『外聞』が良く見えるの?)


 庭園の奥にある東屋。定期茶会の席に、定刻通りローレンツが姿を現した。


 相変わらずの氷の美貌。アネットが席を立って一礼すると、ローレンツの視線がまっすぐに彼女の首元へと注がれた。その切れ長の瞳が、一瞬だけ鋭く細められる。


(……やっぱり、お気に召さないのだわ。無理につけさせているようで、かえって見苦しいと仰りたいのかしら)


 アネットは自嘲気味に胸の内で呟いた。贅沢な青い輝きは、今の自分の地味なドレスにはあまりにも分不相応で、まるで「私は哀れみを受けています」と周囲に宣伝しているかのように思えて仕方がなかった。彼が沈黙する一秒一秒が、アネットの心臓をじわじわと締め付けていく。


「ふん……まあ、悪くない。我が国の面汚しにはならんようだ」


 ローレンツは視線を逸らし、ぶっきらぼうにそう言い放った。褒め言葉とは程遠い、ただの品評。


「ありがとうございます、ローレンツ殿下」


 アネットはただ、人形のような完璧な笑みを返すことしかできなかった。


 どこまでも冷え切った空気の中、ローレンツが急な公務の伝令によって、一度席を外すことになった。


「すぐに戻る。ここで待っていろ」


 彼が去り、東屋にアネットが一人残された、その時だった。


「まあ、随分と寂しいお茶会ですこと」


 高慢な笑い声と共に現れたのは、色鮮やかなフリルのドレスを纏った令嬢――セリーヌ・フォン・バルドゥール侯爵令嬢だった。アネットの実家を嵌めた黒幕と噂される侯爵家の娘であり、次期皇太子妃の座を狙っていると社交界で有名な女性だ。


「ごきげんよう、セリーヌ様」

「挨拶など結構ですわ。それより……まあ、不愉快!」


 セリーヌはアネットの首元を扇で指差し、キッと目を剥いた。


「そんな最高級のサファイア、あなたのような没落令嬢にふさわしいとでもお思い? 殿下も、同情と温情でそんなものを与えねばならないなんて、本当にお労しい。夜会に連れて行ってもらえない当て擦りにしては、あまりに見苦しいですわ!」


 セリーヌの棘のある言葉が、アネットの胸の傷口を正確に抉っていく。


(同情、温情……ええ、本当にその通り。セリーヌ様の仰る通りだわ。私は殿下に、そんな惨めな気遣いをさせてしまっているのだわ)


 言い返す言葉など、あるはずもなかった。アネットはただ静かに微笑み、嵐が過ぎ去るのを待つように目を伏せた。その無抵抗な態度が、余計にセリーヌを調子づかせる。


 そこへ、ローレンツが戻ってくる足音が聞こえた。セリーヌは瞬時に表情を取り繕うと、甘ったるい声を上げてローレンツに擦り寄った。


「ローレンツ殿下ぁ! ちょうど今、アネット様とお話ししていたのですわ。……殿下、建国記念夜会のパートナー、まだ決まっていらっしゃらないのでしょう? 没落したアネット様では、国の恥ですわ。ぜひ、このセリーヌを隣に──」


 戻ってきたローレンツの瞳は、底知れないほど冷たく凍りついていた。彼はセリーヌを一瞥したあと、その場に佇むアネットへと視線を移す。


 アネットは、息を止めて彼の言葉を待った。


 どこかで、ほんの少しだけ、彼が自分を庇ってくれるのではないかという、愚かな期待を捨てきれずにいた。かつて幼馴染として笑い合っていた、あの頃の優しい彼がどこかに残っているのではないかと、縋るように彼の唇を見つめる。


 しかし、ローレンツの口から出たのは、その淡い期待を木っ端微塵に砕く言葉だった。


「……バルドゥール令嬢。アネットはただの、我が国の温情を示すための『飾り』に過ぎん。夜会に出さぬのもその意だ。君がそんなものに、いちいち目くじらを立てる必要はない」


(……飾りに過ぎない)


(……そんなもの)


 アネットの頭の中で、その言葉が何度も激しくリフレインした。


 ゴトゴトと、自分の世界が崩れ落ちていくような錯覚に陥る。


(ああ……そう、だったのね)


 彼にとって、私はもう名前を呼ぶ価値すらなく、セリーヌ様の前で『そんなもの』と言い切れるほどに、価値のない存在。ただの政治的なパフォーマンスの道具。


 私がここにいること自体が、彼に不必要な気遣いをさせ、彼の価値を下げていたのだ。


 ガタガタと震えそうになる膝をドレスの布地の上から必死に押さえ、アネットは絶望の淵で、静かに、けれど鋼のような決意を固めていた。


(もう、ここにいてはいけない。お邪魔虫は、一刻も早く消えなくては──)


 ローレンツが、アネットのあまりの血の気の引いた表情に気づいたのか、わずかに眉を動かした。だが、今の彼女には、その微かな変化さえも「早く目の前から消え失せろ」という無言の威圧にしか感じられなかった。









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