第二話
建国記念夜会を数日後に控えた、ある日の午後。
アネットは後宮の自室で、一人ひっそりと刺繍糸の整理をしていた。
「夜会には出席しなくていい」というローレンツの冷徹な宣告は、今も胸の奥底に鋭い破片となって突き刺さっている。けれど、彼が実家を救い、自分をこの城に置いてくれたのは紛れもない事実だ。
(これ以上欲張ってはいけない。私はただの没落令嬢なのだから。日陰で静かに息を潜めているのが、今の私が彼に返せる唯一の報恩なのだわ……)
そう自分に言い聞かせ、アネットは小さく息を吐いた。その瞬間、部屋の扉が静かにノックされ、皇太子側近のディミトリが姿を現した。その腕には、豪奢なビロードの木箱が厳かに抱えられている。
「アネット様。ローレンツ殿下より、お届け物でございます」
「殿下から、私に……?」
不思議に思いながらもアネットが箱を受け取り、そっと蓋を開ける。
──その瞬間、アネットは思わず息を呑んだ。
白絹のクッションに鎮座していたのは、見たこともないほど大きく、深く澄んだ、最高級のサファイアの首飾りだった。窓から差し込む陽光を浴びて、まるで磨りガラス越しの海のように、神秘的でどこか哀しい青い輝きを放っている。
「まあ……なんて、綺麗な青……」
アネットの瞳から、一瞬だけかつての公爵令嬢としての輝きが戻る。彼女の瞳の色と、寸分違わぬその青。それはあまりにも美しく、アネットの凍りついた心を一瞬だけ温めるかのように思えた。
しかし、そのささやかな喜びは、直後に部屋に現れた「贈り主」の言葉によって、無残にも奈落へと突き落とされることになる。
「……受け取ったようだな」
低い足音とともに、ローレンツが部屋に入ってきた。
流れる金髪に、相変わらずの彫刻のような美貌。だが、その表情はどこか硬く、不機嫌そうにすら見える。アネットを見つめるその双眸には、冷たい光しか宿っていないように思えた。
「ローレンツ殿下……。あの、この素晴らしい首飾りは……」
「来週の夜会、君は欠席だが」
ローレンツはアネットからふいっと視線を逸らし、組んだ腕に力を込めながら、冷淡な声で言い放った。
「我が国の皇太子の婚約者が、碌な宝飾品も持たずに部屋に引き籠もっているとあっては、外聞が悪い。私からの『施し』だ。大人しく持っておけ」
(……施し)
その単語が、アネットの耳の奥で鋭く、残酷に弾けた。
アネットの視界から、みるみるうちに色彩が失われていく。
(ああ、やっぱり、そういう意味だったのね……)
彼にとって、今の私は「可哀想だから飼ってやっている哀れな没落令嬢」なのだ。そしてこのサファイアは、夜会に出られない私への同情、あるいは「これで満足して、目立たないよう大人しくしていろ」という口封じの金。
何より、私の存在そのものが、彼の「外聞」を悪くしているのだと、これ以上ないほど冷酷に突きつけられた気がした。彼を愛しているからこそ、その「施し」という言葉が、アネットのプライドと心をずたずたに引き裂いていく。
「……お心遣い、恐れ入ります、ローレンツ殿下」
アネットはすっと表情を消し、人形のような完璧な淑女の笑みを浮かべた。震えそうになる指先を隠すように、サファイアの箱を静かに閉じる。
「没落した私にはいささか分不相応な品でございます。身の程を弁え、大切に、箱の奥に仕舞っておきますわ。二度と日の目を見ることはないでしょうけれど」
「……仕舞っておく、だと?」
ローレンツの声音が、低く険しく響いた。
「ええ。殿下の面汚しにならぬよう、この部屋から一歩も出ず、大事に保管いたします」
深々と頭を下げるアネットを前に、ローレンツはしばらく沈黙していた。その沈黙が、アネットにはひどく重苦しく、責め立てられているようにしか感じられない。
「……そうか。好きにしろ」
やがてローレンツの口から出たのは、信じられないほど突き放した一言だった。彼はそれ以上何も言わず、逃げるように踵を返して部屋を出て行ってしまう。
残されたアネットは、静まり返った部屋で、ぽつりと呟いた。
「もう……ここにいては、いけないのかもしれないわね」
彼女の胸の奥で、静かに、けれど決定的な「別れの決意」の芽が顔を出した瞬間だった。




