第一話
「──来週の建国記念夜会だが。君は出席しなくていい」
重厚な大理石の床に、冷徹な声が低く、容赦なく響いた。
広大な執務室。その中央にある漆黒の机に向かったまま、こちらに視線すら向けずに淡々と告げたのは、この国の皇太子ローレンツ・フォン・アスラント。
流れるような金髪に、すべてを見透かすような氷の美貌。弱冠二十歳にして国政を掌握する、完璧なる次期国王だ。
そして私は、その向かい側で小さく背筋を伸ばし、完璧な淑女の笑みを浮かべている。
「……かしこまりました、ローレンツ殿下」
アネット・ローゼンバーグ。
ほんの数ヶ月前まで、誇り高き公爵令嬢だった──今は、すべてを失ったただの「没落令嬢」だ。
実家が身に覚えのない冤罪を着せられて取り潰された際、なぜか幼馴染でもあったローレンツ殿下に「婚約者」として拾われ、こうして後宮の片隅に囲われている。
(ああ、やっぱり……私は、彼の隣にふさわしくないのね)
胸の奥がツンと細く痛み、呼吸が浅くなるのを必死で隠す。
建国記念夜会は、国内外の貴族が集まる最も重要な社交の場だ。そこに婚約者である私を出席させないということは、要するに「恥晒しの没落令嬢を、表舞台に出して我が国の不名誉にしたくない」という彼の冷徹な意思表示に他ならない。
本当は、昔のように彼の隣を歩きたかった。けれど、今の私にはその資格すらない。
「私の見栄えの悪さで、殿下の足を引っ張るわけにはまいりませんもの。ご配慮、感謝いたします」
「……そうか。分かればいい」
ローレンツ殿下は、ピクリと美しい眉を動かしたものの、相変わらず冷たい声音で言った。
彼はそのまま、手元の書類に視線を戻してしまう。もうお前に用はない、という無言の合図だ。
「それでは、失礼いたします」
私は深く頭を下げ、静かに執務室を退室した。
重い扉が閉まった瞬間、張り詰めていた緊張が解け、視界がわずかに滲む。
廊下ですれ違う侍女たちが、「あの方、また夜会に置いていかれるんですって」「まあ、没落令嬢ですものね」とクスクス笑い合う声が聞こえたけれど、もう痛みにすらならなかった。
(殿下は、お優しいから私を義務で匿ってくださっているだけ。これ以上、彼に甘えて、彼の完璧な人生に泥を塗るような真似は絶対にすまい──)
アネットはぎゅっと拳を握り、健気に前を向いて歩き出した。
彼にこれ以上の恋慕を抱くことが、どれほど身の程知らずで、彼を困らせるだけのことなのかを、冷え切った心に深く刻み込みながら。




