ローレンツ編 1
「――来週の建国記念夜会だが。君は出席しなくていい」
重厚な執務室。手元の書類を見つめたまま、俺は極力、感情を排した声でそう告げた。
アネットの顔を見ることができなかった。
もし、彼女のあの美しい青い瞳と視線が合ってしまえば、今すぐ椅子から飛び起きて彼女を抱きしめ、「愛している、俺の側にいてくれ」と無様に乞うてしまう確信があったからだ。
ローゼンバーグ公爵家が罠に嵌められ、取り潰されたあの日。
俺は自分の全権力を使って、彼女を「婚約者」として後宮に囲い込んだ。表向きは政治的な温情。だがその本心は、泥をすするような没落の苦しみから、彼女を世界の誰よりも安全な場所で守るため、そして――俺の側から一生離さないためだ。
「……かしこまりました、ローレンツ殿下」
アネットの、鈴を転がすような澄んだ声が響く。
その完璧な淑女の微笑みを見た瞬間、俺の胸は激しく痛んだ。彼女は怒ることも、泣き喚くこともせず、ただ静かに俺の決定を受け入れている。
(違うんだ、アネット。お前を恥に思っているからじゃない。今の夜会は、お前の実家をハメたバルドゥール侯爵(セリーヌの親)どもの巣窟だ。そんな汚らわしい場所に、傷ついたお前を出せるわけがない。あいつらを根こそぎ叩き潰すまで、お前はここで安全に守られていてくれ……!)
脳内でそう狂ったように叫びながらも、俺の口から出たのは別の言葉だった。
「私の見栄えの悪さで、殿下の足を引っ張るわけにはまいりませんもの。お配慮、感謝いたします」
「……そうか。分かればいい」
配慮などではない。ただの俺の独占欲と過保護だ。
お前は見栄えが悪くなどない。いつだって世界で一番美しい。
そう伝えたいのに、俺の「皇太子としての仮面」は、弱みを見せることを許さない。これ以上あいつらにアネットの存在を意識させないよう、あえて冷淡に突き放さなければならなかった。
アネットが深く頭を下げ、部屋を出ていく。
重い扉が閉まった瞬間、俺はペンを放り出し、深く椅子に背をもたれて顔を覆った。
「……ディミトリ」
「はい、殿下。相変わらず、地獄のような口下手ですね。アネット様、完全に誤解して傷ついておいででしたよ」
「分かっている……! だが、これでいい。バルドゥールを潰すまで、彼女をあの泥沼に巻き込むわけにはいかないんだ」
拳を固く握りしめる。
早く、一日でも早くあいつらを処刑し、アネットをこの胸に抱きしめて、すべての非礼を詫びる。それまでは、この氷の仮面を被り続けると、俺は孤独に誓った。




