ローレンツ編 8
激しく蹴破った扉の向こう、埃が舞う狭い部屋。
そこに立ち尽くすアネットの姿を捉えた瞬間、俺の脳内を支配していた「他国と戦争を起こしてでも奪い返す」という血生臭い狂気は、一瞬で霧散した。
(生きてる。アネットが、俺の目の前で生きてる……っ)
安堵、後悔、そして愛おしさ。すべての感情が一気に決壊し、俺の膝は文字通り砕けた。
生まれて初めて、周囲の目も、皇太子としてのプライドも、すべてがどうでもよくなった。汚れた平民のアパートの床に両膝を突き、俺はただ、彼女の細い腰に必死で縋り付いた。
「あ……ねっと……。アネット、アネット……っ!」
名前を呼ぶだけで、視界が涙でぐしゃぐしゃに歪む。
腕の中に伝わる、懐かしくて、細くて、少し怯えたような彼女の体温。失いたくなくて、もう二度とこの腕からすり抜けさせたくなくて、折らんばかりの力でその身体を抱きしめた。俺のおでこを彼女のお腹に擦りつけながら、喉の奥からみっともない嗚咽が溢れて止まらない。
「頼む、頼むからもうどこにも行かないでくれ……っ! 俺が、俺が悪かった……!」
俺は狂ったように叫んでいた。
バルドゥール侯爵家から守るためだったという言い訳、自分の言葉が彼女をどれほど傷つけたかという絶望、そして、彼女のいない世界など俺には一秒の価値もないということ。
「お前は重荷なんかじゃない! お前がリュールと逃げたと聞いた時は、世界ごとあいつの国を滅ぼして、お前を奪い返して、俺も死のうと思った……っ!」
アネットのドレスに顔を埋め、涙と鼻水で顔を汚しながら、俺は自分の胸の内をすべて曝け出した。格好悪い。情けない。だが、そうでもしなければ、彼女がまた消えてしまいそうで死にそうだったのだ。
ふと、俺の背中に、そっと柔らかな温もりが触れた。
「……怖かったのよ、ローレンツ」
アネットの、泣き出しそうな、けれどどこか優しい声が降ってくる。
俺の大きな手に、彼女の、少し針仕事で荒れた小さな手が重ねられた。その瞬間、俺の心臓は跳ね上がった。
「あなたが、私のことを『恥晒し』だと思っているのだと、ずっと……。私、平民の家賃を稼ぐために、必死で内職をして……あなたに迷惑をかけずに消えようって、それだけを思っていたの……」
(家賃……? 内職……?)
(俺の側にいるのが苦痛で逃げたのではなく、俺のために、消えようとしたのか……?)
その健気すぎる、そしてあまりにも悲しい誤解に、俺の胸は張り裂けんばかりに締め付けられた。俺は弾かれたように顔を上げ、涙まみれの目で彼女を見つめた。
「迷惑なわけがないだろう……!!」
こんな小さな部屋で、自分の綺麗な手を傷つけて、硬いパンを齧っていたのか。俺が与えられるすべての富を、愛を、拒絶されたのだと思って絶望していた。
だが、彼女はただ、俺を想って身を引いただけだった。
「家賃なんて、お前が一生遊んで暮らせるだけの国庫をやる! 頼むから、俺の富を使ってくれ、俺の特権を奪わないでくれ……! お前が自分の力で立つなんて言ったら、俺は、お前に何もしてやれない……っ!」
恥も外聞もなく、俺の特権を、金を、俺のすべてを押し付けるように懇願する。俺を頼ってくれ、俺の支配下で生きてくれと。
そんな俺のみっともない姿を見て、アネットの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
そして次の瞬間――彼女は、かつて幼馴染だった頃のような、心からの、世界で一番美しい笑顔を俺に向けたのだ。
「ふふ……、本当に馬鹿な人……」
その笑顔を見た瞬間、俺の魂は完全に救われた。
「もう、どこにも行きませんわ。……だから、そんな風に泣かないで、ローレンツ」
名前を、呼んでくれた。
もう「殿下」という他人行儀な壁はない。
愛おしさと独占欲が爆発し、俺は彼女の言葉を遮るように、その唇を乱暴に塞いだ。
他国の男の影など、一滴も残さないように。俺の涙も、彼女の涙も、すべて口づけで溶かして塗り潰すように、何度も、何度も、深く貪るように彼女を貪った。
背後でディミトリが呆れたようにため息をつき、部屋の外でリュールが「完敗だね」と諦めて立ち去る気配がした。だが、そんな奴らのことはどうでもいい。
この狭い部屋で、俺は誓った。
もう二度と、仮面など被らない。不器用な嘘で彼女を傷つけるくらいなら、世界中を敵に回しても、この狂おしいほどの執着をすべて注ぎ込んで、一生彼女を甘やかし、溺愛し尽くしてやると。




