ローレンツ編 7
「殿下、アネット様の行方について、看過できない報告があります」
ディミトリがもたらした情報は、俺のなけなしの理性を完全に粉砕するものだった。
街で大評判になっている正体不明の天才針子の『針目』が、アネットのものであることを突き止めたという朗報。……しかし、その後に続いた言葉が、俺を地獄の底へと叩き落とした。
「アネット様が潜伏しているアパートの周辺で、隣国の第一王子――リュールの姿が何度も目撃されています。どうやら、彼はアネット様に接触し、自国への亡命を勧めているようです」
「……、リュールだと……?」
視界が真っ赤に染まった。
あの温室で、アネットの髪に優しく触れていた白銀の髪の男。アネットが、俺には見せなかった救われたような顔を向けた男。
(お前は……俺の元を去り、あの男を選んだのか? 俺の愛が重すぎて、あいつの甘い言葉に逃げ込んだのか!?)
脳内で嫉妬と絶望が限界突破し、ドロドロとした黒い狂気が渦を巻く。
もし本当に彼女があの男と手を繋いで隣国へ逃げようとしているなら――国境に配備した全軍を動かし、戦争を起こしてでもあいつを八つ裂きにし、アネットを奪い返す。他国の男に触れられたアネットを、二度と光の届かない俺の深奥に閉じ込めて、一生俺だけを見続けさせてやる。
「殿下! どこへ行くのですか!」
「アネットを連れ戻す。邪魔をする者は、誰であろうと斬る」
俺は剣を帯び、ディミトリの制止を振り切って馬に飛び乗った。
アネットのいるアパートの住所。そこへ向かって、狂ったように馬を走らせる。頭の中は、彼女を失う恐怖と、あいつへの憎悪で狂いそうだった。
夕闇が迫る街の片隅。
古びた、今にも崩れそうなアパートの前に馬を乗り捨て、俺は階段を駆け上がった。
アネット。俺の、俺だけの唯一の光。頼むから、あの男の影をその部屋に残していないでくれ。俺を、これ以上狂わせないでくれ。
彼女がいるとされる部屋の前に立ち、俺の心臓はちぎれんばかりに脈打っていた。
中から、微かに衣類を擦り合わせるような、荷造りの音が聞こえる。
(また、俺から逃げる気か。あの男の元へ行く気か……っ!!)
「――アネット!!!」
頭が完全に沸騰した俺は、考えるよりも先に、その薄汚れた木の扉を、蝶番ごと吹き飛ばすほどの勢いで激しく蹴り破っていた。
砂埃が舞う中、部屋の奥で、驚愕に目を見開いて立ち尽くす彼女の姿が見えた。
床に散らばる平民の衣服。
あの日以来、片時も忘れられなかった、愛しい、愛しいアネット。
彼女の顔を見た瞬間、俺の頭を支配していた「戦争を起こしてでも閉じ込める」という狂気的な怒りは、一瞬で、消えてなくなった。
代わりに胸を満たしたのは、生きて彼女に会えたという、涙が出るほどの圧倒的な「安堵」だった。
(ああ……アネット。お前、本当に生きて、俺の目の前にいるんだな……っ)
俺の膝は、ガタガタと震えていた。剣を抜く力さえ失い、俺はただ、彼女の足元へと崩れ落ちるように這い寄っていった――。




