ローレンツ編 4
アネットに「そんなもの」と言い放ってしまった東屋の事件から、俺は生きた心地がしていなかった。
バルドゥール家を油断させるためとはいえ、愛する女性に世界で一番残酷な言葉をぶつけてしまったのだ。
胸が引き裂かれるような焦燥感に駆られ、俺は後宮の中を必死にアネットを探し回っていた。
そして、古い温室の陰から、鈴が鳴るような男の声が聞こえた瞬間――俺の全身の血が逆流した。
「冷徹なローレンツには、君のような美しい宝石は少々不釣り合い(もったいない)だと思ってね」
そこにいたのは、隣国の第一王子リュールだった。
誰にも心を許さないはずの男が、アネットの前に跪き、あろうことか彼女の髪に優しく触れている。そしてアネットは、俺には一度も見せたことのないような、救われたような表情で彼を見つめていた。
(お前が……お前が、俺以外の男にそんな顔をするな……!!)
脳内が真っ赤に染まる。アネットを失うかもしれないという底なしの恐怖が、俺の理性を完全に焼き切った。気づけば、獣のような足取りで二人の間に割って入っていた。
「――そこを退け、リュール。貴様に我が国の婚約者が気安く触れていい理由はない。失せろ、今すぐにだ」
殺意を隠そうともせず睨みつけると、リュールは全てを楽しんでいるような嫌らしい笑みを浮かべ、「では、またね、可愛いアネット嬢」と言い残して去っていった。あいつはアネットが俺の弱点だと完全に気づいている。
あいつを今すぐ斬り殺さなかったのは、俺のなけなしの理性だ。だが、振り返り、怯えたように身をすくめるアネットを見た瞬間、俺の口からは最悪の言葉が全自動で飛び出していた。
「……何をしている! 我が国の皇太子の婚約者でありながら、他国の男を誘惑するような真似をするとは。これ以上、私に恥をかかせるな!」
(違う、違うんだ、アネット! 俺が言いたいのはそんなことじゃない!!)
心の中の俺が絶叫する。
本当は、「あいつはお前を利用しようとしているだけだ、危ないから近づかないでくれ」「俺以外の男に微笑みかけないでくれ、嫉妬で頭がおかしくなりそうだ」と言いたかったのだ。
なのに、口から出たのは彼女を「不貞の女」と罵るような最低の台詞。
アネットの瞳から、完全に光が消えた。彼女は冷え切った完璧な一礼をすると、俺の返事すら待たずに立ち去ってしまった。
「あ……、あねっ……」
伸ばした俺の手は、虚しく空を掴む。
彼女を守るために張った結界のせいで、俺自身が彼女を一番深く傷つけている。その矛盾に、俺は温室の中で狂いそうになっていた。




