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エレナの計算

エレナが《深淵の鍋》で働き始めて半年が経ったある夜、閉店後の厨房でガルドが珍しく質問を投げかけた。


「お前、なんでこんな店で助手なんかやってんだ? もっとまともな仕事があっただろ」


エレナは床を拭く手を止めず、いつもの平坦な声で答えた。


「まともな仕事は、利益率が低いです」


ガルドはビールを飲みながら、珍しく真面目な顔で続けた。


「いや、冗談抜きで聞きたいんだ。お前の過去、ほとんど何も知らねえ。銀髪にその目……ただ者じゃねえだろ」


エレナは少しの間、動きを止めた。表情は相変わらず変わらない。ただ、いつもの少しだけ早いテンポで話し始めた。


「私は『白銀の塔』という魔導研究所で生まれました。

正確には、『作られました』と言うべきかもしれません」


彼女は淡々と語り始めた。


白銀の塔は、感情を排除した完璧な魔導師を人工的に生み出す実験施設だった。

魔力の効率を極限まで高めるため、生まれた子供たちから「不要な感情」を段階的に削ぎ落としていく。喜び、怒り、悲しみ、そして最後に「笑い」。


エレナは第17号試作体として育てられた。

他の子供たちが途中で精神崩壊を起こす中、彼女だけが異常な適応を示した。

感情を切り捨てるたびに魔力制御が向上し、計算速度が上がったからだ。


「私は12歳のとき、施設の最高効率記録を更新しました。

その代償として、表情筋の大部分と感情の揺らぎを失いました。

研究所の記録にはこう書かれています。『第17号は笑わない。泣かない。怒らない。故に、最も優れた道具である』と」


ガルドは黙って聞いていた。


ある日、施設で大規模な事故が起きた。

暴走した実験体が施設を半壊させ、多くの研究者が死亡した。

その混乱の中で、エレナは初めて「自分の意志」で行動した。


逃げた。


しかし、感情をほとんど失っていた彼女は、逃亡先で何をすればいいのか分からなかった。

金が必要だと気づき、商会の計算係になった。

次に冒険者ギルドのリスク査定係。

どこに行っても、彼女の冷徹な計算能力は高く評価されたが、

「人間味がない」と煙たがられ、すぐにクビになった。


「最後は、冒険者パーティのマネージャーでした。

彼らはダンジョンで大儲けした後、私に報酬を払わずに逃げました。

そのとき思いました。『自分より冷徹に金を管理できる人間などいない』と」


それから半年後、彼女は黒鉄の宿場に流れ着き、

「ダンジョン食材専門の居酒屋」という、危険で非効率的な店を見つけた。


「ここなら、誰も私の感情の欠如を気にしません。

そして、利益を最大化する余地が無限にあります」


ガルドは髭を掻きながら、苦笑した。


「……つまり、お前は『感情を捨てた完璧な計算機』として作られたのに、

結局、金勘定と経営効率にしか興味がなくなったってことか」


エレナは無表情のまま、わずかに首を傾げた。


「違います。

私は感情を捨てたのではなく、ただ『不要なもの』を切り捨てただけです。

今の私にとって、最も価値があるものはこの店の存続と利益率です。

主人、あなたの料理は非効率ですが……悪くありません」


ガルドは大笑いした。


「ははっ! 褒められてんのかけなされてんのか分からねえな」


エレナは床拭きを再開しながら、ぽつりと言った。


「一つだけ、研究所時代に残った感情があります」


「へえ、何だ?」


「損失に対する嫌悪感です。

値引きを要求されるたび、私はとても……不快になります」


ガルドは空になったジョッキを置き、静かに笑った。


「それが、お前の『笑わない理由』か」


エレナは答えず、ただ淡々と掃除を続けた。


翌朝、看板に新しい注意書きが追加されていた。


『値引き交渉は、感情の無駄遣いです。

強くおすすめしません。』


明らかにエレナの字だった。


ガルドは看板を見上げながら、今日も新しいダンジョン食材の仕入れに出かけた。

後ろでエレナが、無表情のまま小声でつぶやく。


「今日の利益目標は、前日比115%……」

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