歩くキノコの逃亡
《深淵の鍋》の厨房は、今日も異様な熱気に包まれていた。
「よし、今日の新メニューはこれだ!」
ガルドが豪快に笑いながら掲げたのは、ダンジョン深層から持ち帰ったばかりの『歩くキノコ』だった。
傘の部分が淡く光り、細い根のような脚でゆっくりと床の上を歩き回っている。
エレナは無表情でそのキノコを観察し、淡々と言った。
「歩くキノコ……逃走速度は時速約4km。味は良いですが、調理中に逃げ出す個体が多いと聞きます」
「心配すんな。俺がしっかり押さえて焼くからよ」
ガルドは自信満々にキノコをまな板に固定し、オリーブオイルを引いたフライパンに放り込んだ。
すると、キノコは突然脚をバタバタさせ、熱いフライパンの中を必死に逃げ回り始めた。
「逃げるなよ! 美味しくしてやるから!」
ガルドがフライ返しで追いかけ回す様子は、まるで小さな生き物との格闘だった。
エレナが冷静に指摘する。
「主人。逃げている間に水分が飛んで、食感が悪くなります。早く押さえつけてください」
「うるせえな、こうやって……おらっ!」
ようやく押さえつけて焼き色がついた頃、店内に運ばれた歩くキノコのソテーは、予想外の人気となった。
一口食べた冒険者が目を輝かせた。
「うめえ! この歯ごたえ……生きてるみたいに跳ねてるぞ!」
「確かに! 口の中でまだ動いてる感じがする!」
客たちは大喜びだったが、エレナは無表情のまま小声でガルドに告げた。
「実は、歩くキノコは火を止めても完全に死滅せず、胃の中で再び活動を始める性質があります。約三十分後には、食べた者の腹の中で再び歩き始めると」
ガルドの顔が青ざめた。
「は……? おい、それ本当かよ!?」
その言葉が終わらないうちに、店内から奇妙な現象が起き始めた。
「うっ……お腹が……何か動いてる!」
「俺の腹の中でキノコが散歩してる……!」
客たちが次々と腹を抱えてテーブルに突っ伏す。ある者は笑いながら、ある者は苦しそうに、ある者は「面白い」と言いながらお腹をさすっていた。
店内は一気にカオスと化した。
ガルドが慌てて叫ぶ。
「エレナ! どうすりゃいいんだ!」
エレナは少しも動じず、淡々と答えた。
「解決方法は二つです。一つは強力な消化薬を飲ませること。もう一つは……」
彼女は厨房から巨大なローリングピンを取り出し、静かに言った。
「外からしっかり押さえつけて、再加熱することです。追加料金で」
客たちが一斉に悲鳴を上げた。
「待て! 俺の腹をローリングピンで潰す気か!?」
「英雄の証をお持ちの方は、腹部再加熱料として通常の二倍頂きます」
その冷たい一言で、店内は再び静まり返った。
結局その日は、腹の中で歩くキノコを「再加熱」するために、客全員が厨房の前に並ばされるという前代未聞の光景となった。
閉店後、ガルドはぐったりと椅子に座りながらぼやいた。
「……もう歩くキノコは二度と出すまい」
エレナは床を掃除しながら、平坦な声で答えた。
「残念です。あのメニュー、客単価が68%も上昇しました。次は『逃げないように事前に脚を縛った歩くキノコ』で出しましょう。名前は『拘束ソテー』でどうですか?」
ガルドは天井を仰ぎ、深いため息をついた。
翌朝新しい注意書きが追加された。
看板には、エレナの綺麗な字でこう書かれていた。
『歩くキノコは完全に火を通してお出しします。
腹の中で散歩されたい方は、追加料金にて対応いたします。』
最後に一言。
勘定は、必ずお支払いください。
――エレナより




