元冒険者ガルドの過去
閉店後の《深淵の鍋》は静かだった。
カウンターに座ったガルドは珍しく酒をゆっくり飲んでいた。
向かい側では、エレナが無表情で帳簿をまとめている。
エレナがふと顔を上げ、淡々と言った。
「主人。今日の赤い牙への弁当、かなり気合を入れていましたね。
通常の効率を考えれば、あそこまで豪華にする必要はありませんでした。
理由を伺っても?」
ガルドはジョッキを置いて、髭をゆっくりと撫でた。
少し遠い目をして、珍しく本音を話し始めた。
「……ああ、実はな。あの弁当、昔の自分を思い出しながら作ってたんだよ」
彼は昔を振り返るように、天井を見つめながら語り出した。
ガルドは元々、かなり名の知れた冒険者だった。
パーティ名は『鉄の胃袋』。
その名の通り、どんな危険なダンジョン食材でも平気で食らい、生き延びることで有名だった。
「十年前……俺はパーティのリーダーだった。
深層80階を超えるような無茶な依頼をよく受けてたよ。
でも、食い物だけはいつも粗末だった。
乾パンと干し肉、魔力回復ポーションだけ。
味なんか全く考えちゃいなかった。腹が膨れりゃいいってな」
ガルドの表情が少し苦くなった。
「ある日、紅の洞窟で大規模な崩落が起きた。
パーティの4人が生き埋めになりかけた。
3日間、食料がほとんど尽きて……俺は必死で周りのダンジョン食材を探して回った。
毒草と見分けがつかないキノコ、硬すぎるオーク肉、味のしないスライム……
とにかく口に入るものを集めて、火も満足に起こせない状況で料理したんだ」
彼は自嘲気味に笑った。
「そのとき初めて思ったよ。
『冒険者って、命を懸けてるのに飯だけはいつも雑なんだな』って。
仲間が『もう死にたい……』って弱音を吐いた夜、俺は必死で味付けして、
なんとか美味く見せかけて食わせた。
そしたらみんな、少しだけ笑ってくれたんだ」
ガルドはジョッキを軽く回しながら続けた。
「その依頼が終わった後、俺は冒険者を引退した。
『美味い飯を食わせて、冒険者を元気づける店を作ろう』って決めたんだ。
ダンジョン食材を活かして、危険だけど最高に美味いものを提供する……
それが《深淵の鍋》を始めた本当の理由だよ」
エレナは無表情のまま、静かに聞いた。
「だから、赤い牙にダンジョン弁当を渡すときは、特に力を入れるのですね」
「ああ。
あいつらを見ていると、昔の自分と仲間を思い出す。
ダンジョンの中で冷めた飯を食う辛さ、腹が減って集中力が切れる怖さ……
少しでも温かくて、ちゃんと味がする弁当を食わせてやりてえんだよ」
ガルドは少し照れくさそうに髭を掻いた。
「もちろん、儲けも大事だが……それだけじゃねえ。
俺は『飯で冒険者を支えたい』って、馬鹿みたいな夢を抱いてこの店をやってるんだ」
しばらく沈黙が流れた後、エレナがぽつりと言った。
「理解しました。
主人の非効率的な感情的判断は、長期的な顧客ロイヤリティ向上に寄与していると判断します。
今後も赤い牙への弁当は、通常より1.2ランク上の仕様で作成することを許可します」
ガルドは大笑いした。
「はははっ! お前な……結局全部『利益』に変換すんのかよ。
まあいい。お前がいるから、この店は回ってるんだ」
エレナはわずかに目を細め、ほとんど聞こえない声でつぶやいた。
「……主人の作る弁当は、確かに不味くはありませんでした」
ガルドはそれを聞き逃さなかった。
「おい、今『不味くない』って言ったか?
珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
エレナは即座に無表情に戻り、平坦な声で答えた。
「聞き間違いです。
私はただ、原価率が許容範囲内であると判断しただけです」
ガルドは嬉しそうに笑いながら、残りの酒を飲み干した。
「まあいいさ。
これからも、赤い牙には少しだけ『元冒険者の情』を込めた弁当を作ってやるよ。
……お前も、たまには素直に美味いって言えよ」
エレナは答えず、ただ帳簿を閉じた。
しかしその夜、看板の注意書きの下に、
いつもの冷たい文句とは少し違う一文が、エレナの字で小さく追加されていた。
『赤い牙へのダンジョン弁当は、特別仕様となります。
……頑張って採取してきてください。』




