第3話『血痕』 ~section4:物理的孤立と、見えないジャミング~
シェリー・バーンの首を折られた無惨な遺体と、針を奪われた巨大な柱時計。その二つの狂気的なオブジェをあのカビ臭い密室に残し、僕たちは内側から破壊されたオーク材の重厚な扉をどうにか押し閉めて、再び重い足取りで談話室へと戻ってきた。
完全な死の気配から一時的に距離を置いたとはいえ、状況は何も好転していない。むしろ、明確な殺意と理知的な目的を持った見えない殺人鬼が、この館のどこかに潜んでいるという事実が確定したことで、生存者たちの間に漂う空気は、先ほどまでの何倍も濃密な絶望と疑心暗鬼に包まれていた。
談話室の重いマホガニーの扉を開けると、そこは相変わらず波長の長いナトリウムランプのような非常灯に照らされ、不気味なオレンジ色の閉鎖空間と化していた。暖炉の火は完全に消え失せ、残された微かな熾火すらも、窓の隙間から入り込む冷気によって急速に温度を奪われている。
「明宮先生! 桐生院くん! 朔くんも如月さんも、無事でしたか!」
僕たちの帰還に真っ先に気づいたのは、生徒たちを守るように部屋の中央に立っていた清瀬先生だった。彼女の顔には、安堵と、そして僕たちの纏う尋常ではない空気を察知した強烈な緊張感が入り混じっていた。
鳴海と佐伯が、青ざめた顔でソファから立ち上がる。五味は過呼吸は治まっていたが、こちらの様子を怯えた目で窺っている。
「それで……シェリーは見つかったの? ジェームスは!?」
メアリーが、すがるような目で僕たちに駆け寄ってきた。グランバール卿も、苛立たしげに腕を組みながら「勝手な真似をしおって。一体どこをほっつき歩いていたのだ」と凄んでいる。エイミー夫人は震える手で愛猫のサクラを抱きしめ、不安そうに僕たちの顔を交互に見つめていた。
その待機組の問いかけに対し、重い沈黙が落ちた。
桐生院は悔しげに唇を噛み締めて目を伏せ、サモンはランタンを持つ手をガタガタと震わせながら、まるで神に許しを乞うように首を横に振った。如月さんはと言えば、そんな大人たちの情動のやり取りなど全く興味がないというように、純白の手袋を嵌めた手をコートのポケットに突っ込み、一人だけ離れた一人掛けのソファへと静かに腰を下ろしてしまった。
誰も口を開けない中、代表して前へ進み出たのは、引率の明宮先生だった。
「……落ち着いて聞いてください、皆さん。特に、メアリーさん」
明宮先生は、教育者としての、そして一人の大人としての深い悲痛とショックを顔いっぱいに張り付け、重々しく口を開いた。
「東棟の奥にある、長年使われていなかった『開かずの旧客室』。……そこで、シェリー・バーンさんを発見しました。ですが……」
「ですが、何よ! もったいぶらないで教えてよ!」
「……彼女は、亡くなっていました。首の骨を、不自然な方向に折られて」
パリン、と。
その場にいた全員の理性の糸が、物理的に断ち切られる音が聞こえたような気がした。
「……え?」
メアリーの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。彼女は数秒間、その言葉の意味を理解できないといった風に瞬きを繰り返し、やがて、その喉の奥から空気を切り裂くような絶叫を上げた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 嘘よ! シェリーが死んだなんて嘘よ!! さっきまで、そこで私と一緒にいたじゃない!!」
メアリーは床に崩れ落ち、頭を抱えて狂乱した。佐伯が悲鳴を上げて鳴海に抱きつき、鳴海もまたガタガタと震えながら佐伯の背中をさすっている。五味は「ヒィッ」と短い悲鳴を上げ、ソファの背もたれの後ろに完全に隠れてしまった。
「ば、馬鹿な! 首を折られて死んでいたなどと……! 殺人だというのか! この由緒正しき私の館で!」
グランバール卿が、目玉が飛び出んばかりに見開いて叫んだ。左目のモノクルがカチャリと外れ、胸元に落ちる。
「ええ、間違いありません。さらに異常なことに、彼女の遺体があった旧客室は、内側から頑丈なカンヌキが下ろされた完全な『密室』でした。我々が体当たりで扉を破壊するまで、犯人が逃げ出す隙間などどこにもなかった。さらに、遺体のそばには、文字盤のガラスを割られ、すべての針を特殊な工具で抜き取られた巨大な柱時計が倒れていました」
桐生院が、明宮先生の報告を補足するように、震える声でその異常な密室の状況を克明に語る。
密室。首を折られた遺体。針のない時計。
その理解不能な事象の羅列に、清瀬先生ですら言葉を失い、顔面を蒼白にして口元を押さえた。
だが、その絶望のどん底で悲痛な顔を作って報告を終えた明宮先生の横顔を見つめながら、僕の心臓だけは、別の種類の恐怖で激しく警鐘を鳴らし続けていた。
(……嘘だ)
僕はガチガチと鳴る歯の根を噛み締めながら、心の中で叫んだ。
確かに、シェリーさんが殺されたという事実は本当だ。しかし、明宮先生のその『悲しみ』の感情だけは、絶対に嘘だ。
つい数分前、あの血の匂いが充満する旧客室で、シェリーさんの無惨な遺体と針のない時計を前にした瞬間。明宮先生の瞳の奥には、抑えきれない『歓喜』と『安堵』の情動が、どす黒いヘドロのように一瞬だけ顔を覗かせていたのを、僕は確かに見たのだ。
なのに今は、完璧な『善良な教師』の仮面を被り、同僚や生徒たちの前で悲劇の報告者を演じきっている。
(……怖い。この人の中にいる『怪物』が、本当に怖い……!)
僕は誰にも気づかれないように、明宮先生からそっと距離を取り、部屋の隅の暗がりへと身を潜めた。
「サモン! サモンはおるか!」
重苦しいパニックの空間を切り裂いたのは、この館の主であるグランバール卿の、血を吐くような怒声だった。
「は、はいっ! 旦那様!」
「今すぐエントランスへ向かえ! そして、麓のベルグラヴィア警察署に電話をかけるのだ! こんな忌まわしい密室殺人など、もはや私の手には負えん! 一刻も早く武装した警官隊を呼ばねば、我々もあの見えない狂人に一人ずつ首を折られるぞ!」
普段は貴族としての矜持を保ち、僕たちを『無学な子供』と見下していたグランバール卿だったが、己の支配下にあるはずの館で連続消失と猟奇的な密室殺人が起きたという事実は、彼の傲慢なプライドを根底から打ち砕いていた。額には玉のような脂汗が浮かび、目は恐怖で血走っている。
「か、かしこまりました! すぐに手配いたします!」
執事のサモンは弾かれたように身を翻し、オイルランタンを揺らしながら談話室を飛び出していった。
僕たちは息を潜め、彼の帰還を待った。警察という公的な『外部の力』が介入すれば、この理不尽な密室の恐怖から解放される。その一縷の望みだけが、限界を迎えた僕たちの精神を辛うじて繋ぎ止めていた。
しかし、数分後。
談話室に戻ってきたサモンの姿を見た瞬間、その淡い希望は粉々に打ち砕かれた。
彼の顔は、まるで本物の亡霊に魂を抜かれたかのように、青ざめるという次元を通り越して土気色に染まっていたのだ。
「……旦那様。だ、ダメです」
「ダメとはなんだ! 早く状況を報告しろ!」
「繋がりません……! 受話器を取っても、ツーという発信音すら聞こえないのです。何度もフッキングを試みましたが、回線そのものが完全に沈黙しております!」
「なんだと……!? 嵐の影響で電話線がショートしたというのか!」
グランバール卿が頭を抱えて呻く。
「……自然現象によるショートなどではないじゃろうな。サモン、わしをその電話の場所まで案内せよ」
一人掛けのソファで静かに沈黙を保っていた如月さんが、ゆっくりと立ち上がった。
「サクタロウ。来い。物理的なルーツの確認じゃ」
「えっ、あ、はい……!」
僕は明宮先生のそばから逃れる口実ができたことに密かに安堵しつつ、如月さんの背中を追い、サモンのランタンの灯りを頼りにエントランスホールへと向かった。
吹き抜けのエントランスホールは、巨大なシャンデリアの光を失い、月明かりすら届かない深い闇に沈んでいた。非常灯のオレンジ色の光だけが、壁際に置かれたアンティークのコンソールテーブルを微かに照らし出している。その上に、真鍮とベークライトで作られた、古めかしいダイヤル式の固定電話が置かれていた。
「サモン、この電話の配線はどこを通っておる?」
「は、はい。壁の木製モールの中を通って、床下の配管から外部の電柱へと繋がっているはずですが……」
如月さんは純白の手袋を嵌めた手で、電話機の背面から伸びる布巻きのケーブルを掴み、壁際へと視線を這わせた。
「懐中電灯を照らせ、サクタロウ。……モールが意図的に外されておるな」
言われた通りに光を向けると、床に近い壁のモールディングが一部剥がされ、内部の配線が剥き出しになっていた。
如月さんはその場にしゃがみ込み、銀のルーペを取り出して、剥き出しになったケーブルの先端を緻密に観察し始めた。
「……やはりな。サモン、これは落雷などの自然現象でも、館に棲みつくネズミの仕業でもないぞ」
如月さんの冷徹な声が、ホールの冷たい空気に響く。
「ネズミの歯による不規則な咀嚼痕や、経年劣化や引っ張りによる断線ならば、銅線の繊維が引き千切られたような不揃いな断面、あるいは塑性変形のルーツが残る。しかし、ここを見るがよい。内部の銅線の芯が、極めて鋭利な『V字型』に、美しく切断されておる」
僕も恐る恐るルーペの先を覗き込むと、確かにケーブルは、ハサミか何かでパチンと一刀両断されたように、極めて人工的な断面を見せていた。
「ニッパーか、あるいはワイヤーカッターのような、両側から均等な圧力をかける金属製の工具によって生じる、典型的な剪断痕じゃ。……犯人は、ジェームスを襲う前か後か、明確な計画性をもってこの館の唯一の有線インフラを『物理的に破壊』したのじゃよ」
外部との連絡手段を絶つための、明確な人的工作。
その事実を突きつけられ、僕は背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。犯人は、最初から僕たち全員をこの館に閉じ込める気だったのだ。
僕たちは重い事実を抱え、談話室へと戻った。
如月さんが電話線の意図的な切断を報告すると、大人たちの間に決定的な絶望が広がった。
「そ、そんな……! 有線インフラが人為的に破壊されたというのなら、我々は完全に孤立したということじゃないか!」
その時、今までソファの裏で身を縮めてタブレット端末の黒い画面を睨みつけていた五味鉄平が、突然立ち上がり、血走った目で叫び声を上げた。
「いや、まだだ! 有線がダメでも、無線がある! この館は山間部とはいえ、窓際に行けば微弱でも通信衛星の電波や、遠くの基地局の電波を拾えるはずだ! 月見坂市の通信網を舐めるな!」
五味は、自らの心の拠り所であるデータとインフラへの信仰を取り戻そうとするかのように、タブレットを天高く掲げ、談話室の窓際をウロウロと歩き回り始めた。
「来い……! キャッチしろ! なぜだ、なぜアンテナピクトが一本も立たない! 圏外表示のままだ! GPSの信号すら取得できないなんて、論理的にあり得ない!」
彼は半ば狂乱状態になりながら、画面を何度もタップし、更新ボタンを狂ったように連打している。
「無駄じゃ、五味」
如月さんはソファに腰を下ろし、冷ややかな視線を五味へと向けた。
「現実から目を背け、画面の上の幻想に縋るのはやめよ。お主のその端末の『バッテリー残量』と『筐体の温度』を見てみるがよい」
「バッテリー……?」
五味がピタリと動きを止め、震える手でタブレットの画面右上を確認し、次いで端末の裏面に手を当てた。
「……なっ!? ば、馬鹿な! ディナーの前まで八十パーセントはあった緑色のアイコンが、たった一時間足らずで、もう十パーセント台の赤色にまで低下している……! しかも、端末の背面が異常に発熱している……! まるでカイロみたいだ。CPUの熱暴走か!?」
「ただの熱暴走ではない。ベースバンドチップが限界駆動している物理的結果じゃ」
如月さんは、絶望する五味に追い打ちをかけるように、冷徹な物理と通信のメカニズムを解説し始めた。
「それは、単にこの館が地形的な圏外にあって電波を探しているからではない。この館のどこかに、強力な『妨害電波発生装置』が仕掛けられておるのじゃ」
「ジャミング……!?」
五味が息を呑み、桐生院も驚愕の表情を浮かべる。
「左様。特定の周波数帯……お主らが依存しているキャリアの4Gや5Gの通信帯域、および衛星通信の帯域に向けて、意図的に強力な広帯域雑音を持続的にぶつけることで、空間のノイズフロアを急激に上昇させているのじゃ。結果として信号対雑音比が極端に悪化し、お主の端末は通信を確立しようと最大出力で電波を送信し続ける。それが、その異常なバッテリー消費と発熱のルーツじゃよ」
如月さんの言葉は、五味の最後の希望であった無線の通信網すらも、見えない殺人鬼によって完全にコントロールされているという事実を完璧な理論で証明していた。
「有線の切断と、無線インフラの無効化……。犯人は、この洋館を物理的にも電波的にも、完全な『陸の孤島』へと変えおったのじゃ」
「あ、悪魔よ……! やっぱり、私たちを閉じ込めて殺す悪魔の仕業なのよ!」
メアリーが両手で頭を抱え、再びヒステリックな絶叫を上げた。
「私たち、全員あの悪魔に呪い殺されるんだわ! ジェームスみたいに血を吸われて、シェリーみたいに首を折られて!」
「愚鈍な。馬鹿げた妄想を口にするな」
如月さんの声が、メアリーの絶叫を氷の刃で切り裂いた。
「悪魔だの亡霊だのという非科学的なオカルトの不純物を、この現場に持ち込むな。ジャミング装置を持続的に作動させるには、極めて安定した大電力と、周波数帯を制御するための高度な電子基板が必要となる。亡霊や悪魔が、リチウムイオンバッテリーや交流電源を用いて、現代の電子機器を使いこなすというのか?」
如月さんはアメジストの瞳を細め、部屋にいる大人たち全員を、冷酷に見据えた。
「電話線の物理的切断といい、ピニオン抜きを用いた時計の解体といい、そして妨害電波の発生といい……これは間違いなく、明確な殺意と、極めて理知的で現代的な計画性を持った『人間の犯行』じゃ。……殺人鬼は、今もこの館のどこかで、我々と同じ酸素を吸い、質量を持った有機物の肉体を持って潜伏しておる」
オカルトへの逃避を許さない、冷徹すぎる現実の突きつけ。
自分たちを狙う怪物が、得体の知れない霊などではなく、血の通った『人間』であるという事実。そして、その人間が、今まさに自分たちと同じ密閉空間に閉じ込められているという恐怖。
それが、生存者たちの精神の均衡を完全に崩壊させた。
「……わかったわ!」
突然、メアリーが充血した目でグランバール卿を指差し、狂ったように叫び始めた。
「あんたね、グランバール! あんたが私たちを殺そうとしてるのよ!」
「なっ……! 無礼な! この下賤な小娘が、誰に向かって口を利いていると思っている!」
グランバール卿が顔を真っ赤にして激怒するが、メアリーの口から溢れ出す恐怖による防衛機制(他責への転嫁)は止まらなかった。
「ディナーの時、ジェームスが言っていたわ! あんたはもう財産が底を突いて、このボロ屋の維持費にも困っているって! だから、宿泊客を殺して、身の回りの高価な時計や宝石、現金を奪おうとしてるんでしょ! だから電話線も切ったのよ!」
「ふざけるな! 歴史あるドリス家の当主が、そのような浅ましい強盗殺人を犯すなどと、断じて許されぬ侮辱だ! サモン、こいつをつまみ出せ!」
「あ、あなた、落ち着いて……! メアリーさんも、どうか……!」
エイミー夫人が泣きながら二人を止めようとするが、恐怖に駆られた大人たちの醜い罵り合いは、もはや誰にも止められない状態へと発展していく。
「私の誕生日旅行だったのに! シェリーの命を返してよ!」
「貴様の友人が勝手にうろつき回って死んだのだろうが! 私のアンティークの鏡と柱時計を壊した損害賠償を……!」
「やめてください! 二人とも!!」
見かねた桐生院誠が、大股で二人の間に割って入った。
「今は互いにいがみ合っている場合じゃありません! 犯人が誰であれ、僕たちは協力して身の安全を確保し、脱出する方法を考えなければならないんです! 大の大人が、みっともない真似を晒さないでください!」
彼のエリートとしての正義感と、論理的なリーダーシップ。
しかし、極限状態に置かれ、死の恐怖に脳を支配された大人たちにとって、高校生の正論など、最も癇に障るノイズでしかなかった。
「うるさい! ガキはすっこんでろ!!」
グランバール卿の太い腕が振り下ろされ、桐生院の胸ぐらを乱暴に突き飛ばした。
「うわっ!」
桐生院はバランスを崩し、無様に床に尻餅をついた。彼の顔に、初めて『自分の論理が全く通用しない暴力的な現実』に対する、挫折と恐怖の色が浮かんだ。
大人が、壊れていく。
僕たちを守ってくれるはずの秩序や理性が、見えない殺人鬼の仕掛けた恐怖によって、内側からボロボロに崩壊していく。
通信は絶たれ、外に助けを求めることもできない。誰も信じられない。メアリーが狂乱の果てに誰かを襲うかもしれないし、激怒しているグランバール卿が、あるいは悲痛な顔を取り繕っている明宮先生が、暗闇の中で僕たちの首を折る殺人鬼なのかもしれない。
強烈な疑心暗鬼とパラノイアが、再び僕の全身を冷たく侵食し始めていた。




