第3話『血痕』 ~section5:完成するクローズド・サークルと、狂気の秒針~
大人が、壊れていく。
エリートとして常に論理的であろうとする桐生院誠の悲痛な制止の言葉すらも、大人たちの恐怖の渦に無惨に飲み込まれ、談話室は完全に無秩序なパニック空間へと変貌していた。
親友であり、この見知らぬ異国の洋館での唯一の盾でもあったシェリーを、密室で首を折られるという凄惨な形で失ったメアリー・ノアは、この洋館に到着してからずっと被り続けていた『人見知りで大人しく、親友の陰に隠れる気弱な女性』という仮面を完全にかなぐり捨てていた。
彼女の口から機関銃のように飛び出すのは、醜悪な自己保身と、目の前にいる他者への理不尽な攻撃ばかりだ。ディナーの席で赤の他人であるジェームスに下品なナンパをされていた時は、ただ怯えておどおどしていたくせに、今やその顔は極度の恐怖と怒りによって夜叉のように歪みきっている。
グランバール卿もまた、長年培ってきたはずの貴族としての矜持や、大人の余裕などとうに忘れ去っていた。彼は顔を茹でダコのように真っ赤に紅潮させ、メアリーに向かって拳を振り上げんばかりの勢いで怒鳴りつけている。エイミー夫人は「あなた、やめて! 誰か助けて!」と泣き崩れながら絨毯に伏し、執事のサモンは主人と客の間に割って入る勇気すら持てず、ただオイルランタンを震わせながらオロオロと神に祈るばかりだ。
誰もが、見えない殺人鬼という実体のない恐怖から逃れるために、目の前にいる他者を『敵』と見なして攻撃し、責任を転嫁するという、人間として最も醜く下劣な防衛機制を剥き出しにしていた。
「……いい加減にしろよ、あんたたち」
床に突き飛ばされた桐生院が、乱れたタキシードの膝の埃を払いながらゆっくりと立ち上がり、ギリッと音が鳴るほど強く拳を握りしめた。その目には、理性を完全に喪失した大人たちへの明確な軽蔑と、己の論理的思考がこの狂気の空間では何の役にも立たないという、どうにもならない状況への苛立ちが濃密に渦巻いている。
「いがみ合って誰かが助かるのか!? 犯人がこの中の誰かだろうと、外部の人間だろうと、今ここで互いを罵り合ってもシェリーさんは生き返らない! 電話線は意図的に切断され、電波もジャミングで妨害されているんだ。だったら、僕たちに残された生存の道は一つしかないだろう! 束になって外に出て、物理的にこの山を下りて、麓の警察に直接助けを求めるしかないんだ!」
桐生院の、理性を取り戻そうとする必死の絶叫が談話室に響いた、まさにその瞬間だった。
ドォォォォォォンッ!!
談話室の分厚いマホガニーの扉が、外の廊下側からの強烈な物理的衝撃によって、凄まじい音を立てて乱暴に蹴り開けられた。
「ヒィッ!?」
メアリーが短い悲鳴を上げて後ずさり、グランバール卿がビクッと肩を震わせて身構える。僕も咄嗟に部屋の隅の暗がりへと逃げ込み、壁に背中を張り付けた。
ついに殺人鬼が、扉を破って僕たちを皆殺しに来たのか。
しかし、オレンジ色の非常灯に照らされた扉の向こうの暗闇から現れたのは、殺人鬼でも亡霊でもなかった。
「ハァッ……! ハァッ……! ダメ、デス……!」
それは、一人で館の他の出入り口の施錠確認と、ツアーバスの状況を見に向かっていた、現地ガイドのミハイルだった。
しかし、彼の姿は、先ほどまでの能天気で胡散臭いチャラチャラした風貌からは完全にかけ離れていた。彼が誇らしげに身につけていた派手な蛍光ピンクのネクタイも、安っぽい化繊のスーツも、すべてが氷のように冷たい泥水で完全にずぶ濡れになっており、露出した顔や手には無数の生々しい擦り傷ができている。
彼は肺が破れそうなほど激しく酸素を吸い込みながら、談話室の分厚いペルシャ絨毯の上に、泥水をボタボタと滴らせながら崩れ落ちた。
「ミハイルさん! 一体どうしたんですか、その泥だらけの姿は!」
明宮先生が弾かれたように駆け寄り、彼の巨体の肩を支えて抱き起こす。
ミハイルが開け放った扉の向こう――エントランスホールのさらに奥、彼が確認のために開け放ったままにしてきたであろう玄関の巨大な両開き扉から、凄まじい大自然の暴力の音が、何のフィルターも介さずに談話室にまで直接響いてきていた。
ゴォォォォォォッという、山そのものが唸りを上げているかのような、地鳴りにも似た暴風の音。そして、窓ガラスをパチパチと叩き割らんばかりの勢いで無数に吹き付ける、氷の刃のようなみぞれの音。
気温は急激に低下し、談話室のオレンジ色のカプセルの中に、物理的な死を予感させるような極寒の気流が流れ込んでくる。ベルグラヴィアの深い森は今、何百年かに一度レベルの、完全な嵐の猛威の底に沈み込んでいたのだ。
「外の様子はどうなっている! まさか、この猛吹雪で私の館の外壁や、美しい庭園の敷地にまで被害は出ていないだろうな!」
グランバール卿が、宿泊客の命よりも自身のテリトリーと財産への被害を危惧してミハイルに詰め寄る。しかし、ミハイルは泥だらけの手で顔を覆い、絶望に満ちた掠れた声で首を激しく横に振った。
「バスは……無事デス。エントランスの巨大な扉以外の出入り口も、すべて内側から鍵がかかったままデシタ。外から何者かが侵入した形跡は、どこにもありマセン。……しかし、それ以前の問題デス!」
「それ以前の問題とはなんだ!」
「道が……我々がここへ来るために登ってきた、山を下りるための唯一の未舗装の山道が……完全に消滅してマシタ……!」
「……は?」
警察を呼ぶために山を下りると宣言したばかりだった桐生院の喉から、間の抜けた声が漏れた。
「先ほどからのヒドい雨と雪で、館へ続く斜面が、ドカーンと崩れてしまったのデス! ワタシが念のためにバスの安全を確認して、ふと斜面の入り口の方を見ると……さっきまで道があった場所が、ドロドロの滝みたいになって、谷底まで一気に流されてマシタ……! バスはもちろん、人間の足で歩いて山を下りることも、絶対に不可能デース!!」
ミハイルの血を吐くような、そしてすべての希望をへし折る絶望の報告が、談話室の空気を完全に凍りつかせた。
「土砂崩れ……道が、消滅した……?」
ソファの裏で身を縮めていた五味鉄平が、手からタブレット端末を力なく滑り落とした。ゴトリ、と鈍い音が絨毯に吸い込まれる。彼の最後の命綱であった『外部への物理的移動』という選択肢すらもが、大自然の猛威によって完全に遮断されたのだ。
「カルデラ湖周辺の、水捌けの極めて悪い火山灰と軽石が長年堆積した、脆弱な地層構造。そこに、この数時間にわたる異常な降雨量による、短時間での急激な地中水分量の飽和。……地質学的に見ても、斜面の剪断応力が限界を軽々と超え、大規模な表層崩壊を起こすのは、必然の物理演算じゃな」
部屋の隅の、薄暗い一人掛けのソファに深く腰を沈めたまま、如月さんが冷徹な地質学のルーツを淡々と語り始めた。
「ましてや、このベルグラヴィアの洋館は、手入れの行き届いていない広大な私有地の深い森の中に孤立している。都市部のようなコンクリートの擁壁や、地中深くの岩盤まで打ち込まれたアンカーボルトなどの人工的な地盤補強のインフラなど、一切存在しない。大量の雨水が地層の境界に水みちを作り、摩擦係数をゼロにして、一気に滑り落ちたのじゃろう。地質学と重力学の、極めて基本的なセオリーじゃ」
「必然の物理演算、だと……? 地質学のセオリーだと……?」
グランバール卿が、血の気の引いた土気色の顔でよろめき、革張りのソファの背もたれにどうにか手をついて体を支えた。そして、その知性を認めている如月さんへと、もはや貴族のプライドも何もない、縋るような視線を向けた。
「では、我々は一体どうなるのだ、賢者殿! 有線の電話線は切られ、警察も呼べない! ジャミングによって携帯の電波も一切通じない! そして、外へ逃げるための唯一の道すらも、自然の暴力によって物理的に塞がれた! 我々は、この見えない殺人鬼がうろつく呪われた館に、完全に閉じ込められたということではないか!」
完璧な、クローズド・サークル。
人間の理知的な悪意による『通信の切断』と、大自然の猛威による『陸路の崩壊』という二つのベクトルの融合によって、ミステリー小説の舞台装置が、今、僕たちの現実に完全に組み上がってしまったのだ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!! 嫌ぁぁぁっ! 助けて、誰か助けてぇぇぇぇっ!!」
限界を迎えたメアリーが、ついに床を転げ回りながら、自身の鼓膜すらも破らんばかりのヒステリックな絶叫を上げた。
「私、何もしてないわ! シェリーについて旅行に来ただけなのに! ここで暗闇の中で首を折られて殺されるなんて絶対に嫌!!」
彼女の目は完全に血走り、狂犬のように周囲を睨みつける。そして、その矛先は、グランバール卿から外れ、部屋の隅で固まっていた僕たち『如月学園の生徒と教師』へと向けられた。
「じゃあ、あんたたちよ! そこの日本の学校の連中!」
メアリーの震える指が、如月さんと、僕たちを真っ直ぐに指し示した。
「さっきから何よ、その偉そうな態度は! 人が死んでるのに、冷静ぶって理屈ばっかり並べて! 特にその手袋の気味の悪い女! あんたがジェームスやシェリーを殺したんじゃないの!? そうよ、あんたたち全員グルなんでしょ!」
「はぁ!?」
その理不尽すぎる言いがかりに、パニックで震えていたはずの鳴海亜衣が、佐伯を庇うように一歩前へ出た。彼女の持ち前の裏表のない勝気な性格が、恐怖を塗り潰して爆発したのだ。
「ふざけんなよ、アンタ! アタシらだって被害者なんだよ! ワケわかんない殺人事件が起きたって聞かされて、こっちだって死ぬほどビビってんのに、怖いからって適当な言いがかりつけてんじゃねえよ!」
「な、何よその口の利き方は! この人殺し!」
「人殺しだぁ!?」
「ひぐっ……やめて、鳴海さん、もうやめて……」
佐伯陽菜が鳴海の背中にしがみつき、ポロポロと涙をこぼしながら震えている。普段はおっとりしたお嬢様の彼女には、この狂気に満ちた大人の罵り合いは刺激が強すぎた。
「メアリーさん、そこまでにしなさい!」
二人の間に、清瀬瑞希先生が毅然とした態度で、しかし極度の疲労と緊張が滲む顔で立ち塞がった。彼女は両手を広げ、生徒たちを完全に背後へ庇う。
「引率責任者として、これ以上、私の生徒たちへの理不尽で無根拠な非難は許しません! あなたの恐怖は理解しますが、彼らもまた、巻き込まれた未成年の子供なのです! ……グランバール卿、あなたの客人でしょう、落ち着かせてください!」
「私の知ったことか! そもそも極東の学生の団体客など、受け入れるのではなかった! 私の威厳と館を汚す疫病神め!」
「なんですって……!? グランバール卿、それはあまりにも……!」
清瀬先生の顔に、明確な怒りの色が浮かぶ。
「落ち着いてください、皆さん! 敵対しても何も……痛っ!」
明宮先生が必死になだめようとメアリーの肩を掴むが、「触るな!」と乱暴に振り払われ、頬に鋭い爪痕を立てられた。
五味は「データが……クラウドのデータがない……」と電源の落ちたタブレットの黒い画面を見つめながら壊れた機械のように呟き続け、サモンはへたり込んで十字を切り続けている。
大人が、理性が、崩壊していく。
誰も信じられない。メアリーが狂乱の果てに誰かを襲うかもしれないし、激怒しているグランバール卿が、あるいは悲痛な顔を取り繕っている明宮先生が、暗闇の中で僕たちの首を折る殺人鬼なのかもしれない。
強烈な疑心暗鬼とパラノイアが、冷たい毒のように僕の血管を巡り、思考を完全に麻痺させていく。息が詰まる。誰も信じられない。この密室から、今すぐ逃げ出したい。
僕の意識が、完全な恐怖の暗淵へと落ち込もうとした、まさにその時だった。
カチリ。
という、氷のように冷たく、極めて硬質な金属音が、狂乱の渦巻く談話室の空気を切り裂いた。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク……。
それは、メアリーのパニックによる絶叫や、鳴海の怒声、外の暴風雨の轟音すらもすべて物理的に貫通して、僕の鼓膜の奥へと直接叩き込まれるような、極めて精密で、暴力的なまでに正確な『一秒』の打撃リズムだった。
ハッとして顔を上げると、一人掛けのソファに座る如月瑠璃が、純白の綿手袋を嵌めた手で、銀色の古い機械式懐中時計の蓋を開けていたのだ。
人間の安静時の心拍数である六十回/分に極めて近い、1.0ヘルツの規則正しい金属の打撃音。
その極めて論理的で一定の周波数が、メアリーのヒステリーを、グランバール卿の怒声を、鳴海の反発を、そして僕の暴走する交感神経を、強制的な音響学的アプローチによって強引に相殺し、シャットダウンさせていく。
「五月蝿いぞ、愚鈍な者ども」
如月さんの、アメジストのように澄み切った、そして絶対的な知性と傲慢さを孕んだ氷のような声が、水を打ったように静まり返ったオレンジ色の部屋に凛と響き渡った。
「たかがインフラが絶たれた程度で、見えない情動のバグに踊らされ、己の脳の論理的処理能力を完全に放棄するなど、知性を持たぬ下等生物としての極めて下劣な防衛本能に過ぎぬ。無意味な責任転嫁で吠え合う前に、少しは己の頭蓋骨に詰まった理性の演算回路を回すがよい」
如月さんは静かにソファから立ち上がり、パニックに陥る大人たちや生徒たちには一切目を向けず、ただ自らの手の中の懐中時計の美しい文字盤と、規則正しく動く秒針だけを冷たく見つめていた。
「見事な盤面じゃ」
彼女は、まるでこの世で最も難解だが、最も美しい数式を目の前にした数学者のように、微かに口角を上げた。
「有線と無線の通信遮断。計算されたかのような土砂崩れによる陸路の崩壊。そして、すべての時間を奪われた時計が鎮座する、建築工学的に完璧な密室。……姿なき殺人鬼が我々に突きつけた、暴力的なまでに精巧な物理の問題じゃな」
如月さんは、パチリ、と硬い音を立てて懐中時計の銀色の蓋を閉じた。
その瞬間、彼女の全身から発せられる空気が、ただの女子高生という有機物の枠組みから、万物のルーツを解体し、真実を暴き出す孤高の『鑑定眼』へと、完全に、そして絶対的に変質したのを、僕は肌で感じ取った。
「怯える必要などどこにもない。通信が落ち、陸路が断たれた密室であろうと、世界を構築する物理と化学の絶対法則は決して揺るがぬ。犯人がいかに奇怪なノイズで空間を装飾しようとも、人間という質量が残した『ルーツ』を誤魔化すことは不可能なのじゃ」
如月さんは漆黒のベルベットドレスの裾を優雅に翻し、恐怖に震える人間たち全員を見下ろすように、冷徹な宣戦布告の言葉を空間に突きつけた。
「これより、如月瑠璃がこの空間に仕掛けられたすべての歯車を解体し、真実を証明してやろう。……サクタロウ、準備はいいな。わしの工具として、その眼球と鼓膜に、すべての物理的証拠を狂いなく焼き付けるのじゃ」
「……っ、はい!!」
僕は弾かれたように、壁際から立ち上がった。
殺人鬼に対する恐怖や、クローズド・サークルへの絶望が完全に消え去ったわけではない。僕の足は未だに微かに震えている。しかし、彼女の放つ絶対的な論理という名の光だけが、僕がこの狂気の洋館で正気を保ち、生き延びるための、唯一の道標だった。
外の嵐は、さらに激しさを増して分厚い窓ガラスを叩きつけ、館全体を不気味に軋ませている。
誰一人信じられない閉鎖空間。見えない殺人鬼が仕掛けた、命を懸けた論理と物理の闘い。
如月瑠璃の傲慢なまでの知性の輝きとともに、血塗られた『静寂の館』の真の幕が、今、重々しく切って落とされたのだった。
~如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上) fin~




