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第9巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上)  作者: アリス・リゼル


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第3話『血痕』 ~section3:奪われた歯車と、教師の裏の顔~

 完璧な密室という名のキャンバスに描かれた、首を折られた女の無惨な死体と、すべての針を奪われた巨大なアンティークの柱時計。

 このあまりにも意味不明で、物理的な法則性と犯人の動機が完全に乖離した狂気的なオブジェの組み合わせに、僕の脳は処理能力の限界を超え、深い絶望と恐怖のどん底へと突き落とされていた。


 背後の廊下の奥からは、親友の死と自身の置かれた状況に耐えきれなくなったメアリーの、過呼吸を伴う錯乱した叫び声が微かに響き続けている。エイミー夫人が必死に宥めているようだが、効果はないだろう。

 この埃とカビの臭気、そして生温かい血の匂いが充満する密室の中では、大人たちもまた完全に平常心を喪失していた。執事のサモンはオイルランタンを持つ手をガタガタと震わせながら、青ざめた顔で虚空に向かってしきりに十字を切り、神への祈りを口走っている。桐生院は、エリートとして培ってきた論理的な思考回路が全く通用しないこのオカルトじみた状況に、「くそっ、なんだって言うんだこれは……! 密室で、どうやって……!」と、ギリッと苛立たしげに奥歯を噛み締めていた。明宮先生は、シェリーの遺体の傍らに片膝をつき、両手で顔を覆って深い悲痛に沈んでいる。


 血と死の余韻が濃厚に支配する極限のパニック空間。

 しかし、その中で如月瑠璃という人間だけは、ただ一人、周囲のノイズを完全に遮断し、一切の情動を排した極めて無機質な動作で動いていた。


 彼女は、血だまりの中に横たわるシェリーの遺体には目もくれなかった。人間の死という、心肺停止に伴う生物学的な機能停止の事実そのものには、彼女の知的好奇心を刺激する『物質のルーツ』が存在しないからだ。

 彼女が真っ直ぐに向かったのは、その遺体のすぐ傍らに横たわる、文字盤のドームガラスを粉々に砕かれたウォールナット材のアンティーク柱時計だった。


 如月さんは、漆黒のベルベットドレスの肩から下げた小さな革のパーティーバッグの留め金を開き、中から純白の綿手袋を静かに取り出した。


「如月さん……」


 僕が胃から込み上げる吐き気を必死に飲み込みながら、震える声で呼びかけると、彼女は指の先まで一切の隙間を作らぬよう精緻な動作で手袋を嵌めながら、冷徹な声で言った。


「サクタロウ。恐怖という過剰な情動のバグに、脳の処理能力を明け渡すな。視覚から入るショックを遮断し、この部屋に存在する物質のルーツから、犯人が残した不可解な数式を読み解くのじゃ」


 如月さんはバッグから取り出した銀色のルーペを右目に当て、小型懐中電灯の鋭い白色光を、針が失われたアイボリー色の文字盤の中心部へと直接照射した。


「針を折って、時計を壊した……。密室に閉じ込めた被害者に対する、犯人の異常な怒りや、残虐な暴力性の表れでしょうか」


 桐生院が、震える声に無理やり理性を交えようとしながら、背後からプロファイリングめいた推測を口にする。しかし、如月さんは氷のように冷たい声で、その凡庸な推論を即座に否定した。


「人間の不規則な怒りや暴力の衝動に任せて叩き壊されたのならば、文字盤の中心にある真軸(アーバー)が必ず物理的にひしゃげ、曲がり、あるいは金属疲労による断裂のルーツが残るはずじゃ。しかし、この時計の中心軸を見るがよい」


 如月さんの懐中電灯の光が、三つの針が失われた中心の、微小な真鍮製パーツを照らし出す。


「時針、分針、秒針がそれぞれ接続されていた(カナ)の先端は、ミリ単位の歪みもなく、見事なまでに真っ直ぐに保たれておる。これは力任せに折られたのではない。時計の針を文字盤から傷つけずに外すための専用の特殊工具……『ピニオン抜き』を用いて、極めて冷静かつ正確な手技によって、意図的に『抜き取られた』痕跡じゃ。テコの原理を完璧に理解し、力のベクトルを垂直方向のみに制御しなければ、このような美しい切断面にはならぬ」


「専用の工具を使って、わざわざ針を外した……? 人を殺した直後の、いつ誰が入ってくるかもわからない切羽詰まった状況で、どうしてそんな手の込んだ真似を……」


 明宮先生が顔を上げ、怪訝そうに眉をひそめる。

 如月さんはさらにルーペを目に近づけ、針が失われた文字盤の奥――時計の心臓部であるムーブメントの微小な隙間へと、視線のレーザーを滑り込ませた。


「抜き取られたのは、表層の針だけではないな」


 如月さんの声のトーンが、一段階深く、分析の核心へと沈み込んでいく。


「機械式時計の動力源である重錘(じゅうすい)から伝わるエネルギーを、一定のリズムに変換して時を刻むための最重要機構。ガンギ車とアンクルからなる『脱進機(エスケープメント)』。……その要となる真鍮製の歯車が、文字盤の奥から丸ごと綺麗に抜き取られておる。周囲の繊細な歯車や香箱(こうばこ)に傷一つつけずにな。この暗闇、あるいは非常灯のわずかな光量の下でこれを行うには、時計の内部構造を熟知した者による、極めて専門的な解体技術が必要となる」


 如月さんはゆっくりと立ち上がり、アメジストの瞳を僕たちに向けた。


「犯人は、ただ腹立ち紛れに時計を壊したのではない。専用の工具を用い、物理的な時を刻むための心臓部と、それを示す針を的確に解体し、持ち去ったのじゃ。……つまり、犯人はこの密室から、被害者の命とともに『時間という概念のルーツ』そのものを、意図的かつ象徴的に奪い去ったのじゃよ」


 時間という概念のルーツを奪い去った。

 その言葉の持つ不気味でオカルト的な響きと、それを行っているのが極めて論理的で専門的な物理的解体作業であるという矛盾。月見坂市という、すべてがネットワークとデジタルデバイスで管理されたスマートシティで育った僕にとって、巨大な歯車の塊である時計が物理的に解体されるという光景は、この世界のルールそのものが根本から破壊されたような、言語化できない強烈な恐怖を呼び起こした。

 なぜ犯人は、殺人を犯した極限状態の密室の中で、自分の逃走時間を削ってまで、そんな悠長で意味不明な工作を行う必要があったのか。


「さらに言えば、犯人がこの部屋から奪い去ったルーツは、時間だけではないぞ」


 如月さんは再び懐中電灯の光のベクトルを変え、今度は遺体の足元から数十センチほど離れた、黒ずんだ絨毯の表面を照らし出した。


「そこを見るがよい。長年の間、誰も足を踏み入れなかったことで分厚く堆積したハウスダストの中に、一つだけ、明確な『空白』が存在しておる」


 鋭い光の輪の中に浮かび上がったのは、埃の層が不自然に四角く欠け、下地のペルシャ絨毯のくすんだ柄がうっすらと見えている、縦長の長方形の空間だった。


「この四角い空白の寸法、およそ縦十五センチ、横九センチ。そして、その輪郭の長辺がわずかに波打つように歪んでおる。……見覚えがあるじゃろう、サクタロウ」


「あ……!」


 僕は思わず声を上げた。記憶の糸が、先ほど談話室で如月さんが行った、あの容赦のない冷酷な論破劇の光景へと直結する。


「シェリーさんが持っていた……あの、革の手帳!」


「左様。野外の過酷な環境下での張り込みと、過剰な手汗の水分によって革と紙の繊維が変形し、波打つように歪んでいたあの手帳のルーツと、この埃の空白の輪郭は完全に一致する。……シェリーは殺害される直前、あるいは部屋に引きずり込まれて抵抗した際、あの手帳をこの床に落とした。しかし、犯人は彼女の首を折り、遺体を放置したまま、その手帳だけを正確に拾い上げて持ち去ったのじゃ」


 如月さんは手袋の指先で、遺体の指先を軽く持ち上げ、その爪の間に微かに付着した革の繊維片をルーペで確認する。


「爪の間に、手帳のカバーと同じ染料を含んだ微小な革の繊維が残っておる。彼女は死の直前まで、犯人に手帳を奪われまいと強く握りしめて抵抗したのじゃな。……死後硬直は全く始まっておらず、血液の凝固の進行度合い、そして角膜の混濁状況から見ても、死亡推定時刻はつい先ほど、数十分以内。この密室が形成されたのとほぼ同時刻じゃ」


 如月さんは懐中電灯を消し、静かに、しかし決定的な宣告を下した。


「あの手帳には、彼女がこの館で、あるいはベルグラヴィアで掴んだ『金になる特ダネ』のルーツが記されていたはずじゃ。犯人の目的が単なる異常な殺人衝動や怨恨だけであるならば、わざわざ時間をかけて手帳を奪い、時計を解体する必要はない。……この密室殺人は、明確な情報の隠蔽と奪取を第一目的とした、極めて理知的な悪意に基づいている」


 奪われた時間と、奪われた情報。

 完璧な密室というキャンバスに描かれた、あまりにも不可解で不気味な構図。


(……理知的な悪意。明確な目的を持った殺人鬼。そんなことができる人間が、今、僕たちの中にいるっていうのか?)


 僕は恐怖に心臓を鷲掴みにされながら、たまらず周囲の大人たちを見回した。

 サモンは恐怖で祈るように手を組み、己の無力さを嘆いている。桐生院は、エリートとしてのプライドを粉々にされたような悔しげな表情で遺体を睨みつけ、拳を震わせている。

 そして、僕の視線は、遺体のすぐそばにしゃがみ込んでいる、引率の明宮海翔先生の横顔へと移った。


 彼は、無惨に殺された宿泊客の遺体を前に、教育者として、あるいは一人の大人として、深い悲痛とショックに顔を歪ませていた。震える手で額を押さえ、目を固く閉じ、まるでこの理不尽な惨状に耐えきれないといった風情だ。

 だが。

 僕の脳は、彼が額から手を離し、再びシェリーの遺体と、その傍らの『針のない柱時計』へと視線を向けた、そのわずかコンマ数秒の瞬間を、まるでハイスピードカメラの映像のようにスローモーションで捉えてしまった。


 明宮先生の、爽やかな二重瞼の奥にある瞳。

 その瞳孔が、恐怖や絶望ではなく、極度の『興奮』によって一瞬だけ異常に拡大したのだ。

 そして、悲痛に歪んでいたはずの口角の筋肉(大頬骨筋)が、理性的な意思とは全く無関係に、ピクリと上へ引き攣り……。眉間のシワが緩み、顔全体の緊張が解き放たれる。


 それは、どう贔屓目に見ても『悲しみ』や『恐怖』の表情ではなかった。

 長年、重くのしかかっていた何らかの呪縛から解放されたような、深い『安堵』。

 あるいは、自らの心の奥底に眠っていた黒い欲望が、血の匂いと他者の死という結果によって呼び覚まされたかのような、歪でどす黒い『歓喜』の情動。

 教育者という完璧な仮面の下から、得体の知れない『別の何か』が、ヘドロのように一瞬だけ顔を覗かせたのだ。


「……っ!?」


 僕は全身の毛穴が粟立ち、声にならない悲鳴を飲み込んで、思わず一歩後ずさった。

 慌てて目を擦り、もう一度明宮先生の顔を見る。

 しかし、そこにいたのは、再び悲痛な表情で「なんてことだ……彼女が一体何をしたというんだ……」と力なく呟く、いつもの頼れる爽やかな教師の姿だった。


(……今のは、なんだ? 僕の見間違いか?)


 極限の恐怖と死臭に当てられて、僕の脳が幻覚を見せたのだろうか。

 いや、違う。如月さんのように物質の物理的なルーツを解体することはできなくとも、僕は昔から『他人の顔色や空気の変化』という情動のバグを読み取ることに関してだけは、無駄に敏感で臆病な小市民なのだ。

 あの時、明宮先生の瞳の奥に閃いたものは、絶対に幻覚なんかじゃない。圧倒的な死と異常なオブジェを前にして、彼は心の底で、歓喜の産声を上げていた。


 僕の脳裏に、この館に到着したエントランスホールでの記憶がフラッシュバックする。

 あの時、明宮先生は、グランバール卿の傲慢な態度を爽やかな笑顔で受け流しながらも、この館のアンティーク家具の群れに対して、どこか値踏みするような、鋭く冷たい視線を向けていなかったか?

 彼は本当に、ただの高校教師なのか。この『静寂の館(サイレントロッジ)』、あるいはベルグラヴィアという土地に対して、何か隠された個人的な因縁(ルーツ)を持っているのではないか。まさか、この惨劇は……。


 心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らす。

 通信が遮断され、外界との連絡手段が断たれたこの巨大な洋館。ジェームスが消え、シェリーが密室で殺された。

 この一連の連続殺人事件を起こしたのは、本当に姿の見えない『亡霊』や、外部からの『侵入者』なのだろうか。


(違う……。怪物は、僕たちのすぐそばにいるんだ)


 僕はガチガチと鳴る歯の根を噛み締めながら、暗い部屋の中に立つ人間たちを、一人一人、血走った目で見回した。

 悲痛な顔を取り繕いながら、死体の前で笑った明宮先生。

 エリートとしてのプライドから、やたらと現場の主導権を握ろうとする桐生院。

 館の構造を熟知し、密室を構成する扉のマスターキーを持つ執事のサモン。

 そして、この現場にはいないが、僕たちを置いて談話室に残り、この洋館に異常なまでの執着を見せているオーナーのグランバール卿。狂気の料理を作った料理長ローレル。さらには、一人で別の出入り口を確認しに行ったという、あの能天気なガイドのミハイル。


 誰が犯人でもおかしくない。全員が怪しい。

 大人は僕たち生徒を守ってくれる存在だという、温室育ちの甘い前提が、音を立てて崩れ去っていく。

 優しかった教師も、頼りになる大人も、全員が血に飢えた怪物に見えてくる。誰を信じればいい? 誰の言葉が真実で、誰の言葉が殺意を隠すための嘘なんだ?

 強烈な疑心暗鬼とパラノイアが、冷たい毒のように僕の血管を巡り、思考を完全に麻痺させていく。息が詰まる。誰も信じられない。この密室から、今すぐ逃げ出したい。


「……サクタロウ」


 僕の精神が狂気の淵に滑り落ちそうになった、まさにその瞬間だった。

 カチリ、という硬く冷たい金属音が、淀んだ空気を切り裂いた。


 チク、タク、チク、タク……。


 一秒の狂いもなく、正確な物理的周期で時を刻む、機械式懐中時計の音。

 如月瑠璃だった。彼女は、針を奪われた巨大な柱時計の前に立ち、自らの手の中にある小さな銀の懐中時計を開き、僕に向けてその音を響かせていたのだ。

 人間の安静時の心拍数に極めて近い、六十回/分の規則正しい打撃音。


「犯人がいかに空間から時間のルーツを奪い去ろうとも、物理的な時間の流れそのものを停止させることはできぬ。そして、物質が残した痕跡もな」


 如月さんの、アメジストのように澄み切った瞳が、疑心暗鬼に呑まれかけていた僕の目を真っ直ぐに射抜いた。


「見えない怪物に怯え、勝手な妄想で情動をバグらせるな、サクタロウ。交感神経の暴走を止め、呼吸のペースト副交感神経を同期させよ。お主はわしの助手であり、有能な工具じゃ。この世界に存在する怪物は、すべて質量と物理法則を持ったただの『有機物』に過ぎぬ。……わしがそのすべてのルーツを解体し、真実を証明するまで、お主はその理性(機能)を停止させることは許さん」


 その言葉は、他者の感情に一切の共感を示さない、冷酷で傲慢な命令だった。

 だが、狂気と死臭に支配され、誰も信じられなくなったこの密室において、彼女の放つその絶対的な『論理』の光だけが、僕の理性を繋ぎ止める唯一の命綱だった。


 時計の規則正しい音が、僕の脳波を強制的に安定させていく。

 僕は深く、深く深呼吸をし、肺の中のカビ臭い空気を吐き出した。

 そうだ。僕はただの小市民だが、この最強の『鑑定眼』の助手なのだ。怪物が人間の中に潜んでいるのなら、彼女がその正体を、物理的に丸裸にしてくれるはずだ。


「……はい、如月さん」


 僕は震える手で自らの頬を強く叩き、恐怖のパラノイアを無理やり心の奥底へと押し込んだのだった。



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