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第9巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上)  作者: アリス・リゼル


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第3話『血痕』 ~section2:開かずの間の密室と、針のない柱時計~

 東棟の最奥部。非常灯の頼りないオレンジ色の光すら届きにくくなった、冷え切った石造りの廊下の突き当たりに、その扉は存在した。

 長年の湿気とベルグラヴィア特有の冷気によって表面のニスが剥がれ、黒ずんだ重厚なオーク材の両開き扉。ジェームス襲撃現場から点々と続いていた、シェリーのヒールの跡と、血と泥が混ざった無惨な引きずり痕は、その扉の真下にあるわずかな隙間へと吸い込まれるようにして、完全に途切れていた。


「……ここじゃな」


 如月さんは小型の懐中電灯の鋭い白色光を、扉の真ん中に備え付けられた真鍮製のドアノブに向けた。そして、純白の手袋を嵌めた手を一切の躊躇なく伸ばす。

 カチャリ、と硬い金属音が鳴る。しかし、ドアノブ自体は回転するものの、扉はびくともしない。シリンダー内部のピンタンブラーが物理的に噛み合っている、明確な施錠状態だ。


「如月さん! 朔くん! 勝手な行動をしてはダメだと、あれほど言ったでしょう!」


 背後の暗がりから、荒々しい足音が複数近づいてきた。振り返ると、明宮先生と桐生院、そしてオイルランタンを高く掲げた執事のサモンが、息を切らして走ってくるのが見えた。僕たちが清瀬先生の制止を振り切って暗闇の奥へ進んでしまったため、現場の収拾を清瀬先生に任せ、慌てて追いかけてきたのだろう。


「明宮先生……。シェリーさんの、血の跡が、この部屋に……」


 僕が震える指で足元の凄惨な痕跡を指し示すと、駆けつけた三人の顔色が、非常灯の薄暗い光の下でもはっきりとわかるほどに一気に青ざめた。


「ち、血の引きずり痕……!? 馬鹿な、ここは長年使われていない『開かずの旧客室』だぞ! 誰も入るはずのない場所に、なぜ……!」


 サモンがランタンを持つ手をワナワナと震わせ、信じられないものを見る目でオーク材の扉を凝視した。


「サモン、問答は後じゃ。この扉の鍵を開けよ」


 如月さんが、パニックの兆候を見せる執事に向けて冷徹な声で命じる。サモンは弾かれたようにビクッと肩を震わせると、腰のベルトループからジャラジャラと重そうな真鍮製のマスターキーの束を取り出し、震える手でその中の一本を選び出し、オーク扉の鍵穴に差し込んだ。


 ガチャリ。

 重いタンブラーが回転する音が廊下に響き、シリンダー錠自体は確かに解錠された。


「開きました! これで……」


 サモンがドアノブを回し、勢いよく体重をかけて扉を押し込もうとする。

 しかし、ガツッ、という鈍い衝突音が鳴っただけで、扉はわずかに数ミリ前後にガタついたのみで、決して開くことはなかった。


「……開きません! シリンダーの鍵は間違いなく開いたはずなのに……どうして……!」


「退け」


 如月さんは混乱するサモンを無造作に押し退け、扉と枠の隙間へと銀のルーペと懐中電灯を向けた。


「……やはりな。ドアノブのシリンダー錠とは別に、内側から堅牢な金属製のカンヌキ(デッドボルト)が物理的に下ろされておる。外からいくらマスターキーで鍵を開けたところで、内側からカンヌキを外さぬ限り、この扉は絶対に開かぬ構造じゃ」


「内側からカンヌキがかかっている……? ということは、シェリーさんは自分でこの部屋に逃げ込んで、内側から鍵をかけたってことですか?」


 桐生院が眉をひそめ、論理的な推論を口にする。


「いや、ただの逃走や引きこもりではない。この扉のルーツを見るがよい」


 如月さんはしゃがみ込み、ルーペを床と扉の接地面、そして巨大な鉄製の蝶番(ちょうつがい)の部分へと滑らせた。


「この東棟は長年放置されていたため、廊下の端にはミリ単位のハウスダストや建材の粉塵が堆積しておる。しかし、この扉の開閉軌道上の大理石の床だけ、埃が扇状に綺麗に払拭されているじゃろう。さらに、蝶番の金属の隙間に溜まっていた酸化した機械油と埃の塊が、真新しく押し潰されておる」


如月さんは立ち上がり、冷酷な事実を突きつけた。


「ここ数ヶ月、いや数年は開けられていなかったであろうこの旧客室の扉が、つい先ほど、明確な意志を持って開閉され……そして『内側から施錠』された。その直前には、大量の血を流す重い質量がこの部屋に引きずり込まれた痕跡がある。……これが何を意味するか、わかるな?」


「中に、シェリーさんか……あるいは彼女を引きずり込んだ犯人が、まだ潜んでいるということか!」


 明宮先生が声を荒げた。その表情には、教育者としての冷静さはなく、未知の凶悪犯に対する強烈な警戒感が張り付いている。


「明宮先生、強行突破しましょう。僕も手伝います」


 桐生院がタキシードのジャケットを乱暴に脱ぎ捨て、扉の前に立った。


「サモンさん、この扉のカンヌキはどの位置についていますか?」


「ド、ドアノブのすぐ上、およそ十センチの高さの裏側です! スライド式の分厚い鉄製のボルトが、壁側の木枠に深く刺さる構造になっています。しかし、頑丈なオーク材ですよ、人間の力でぶつかっても……!」


「やるしかありません! シェリーさんが中で血を流して倒れているなら、一分一秒を争う事態だ!」


 明宮先生と桐生院が、互いに顔を見合わせて力強く頷く。彼らは数歩後ずさりして助走の距離を取ると、カンヌキが設置されているであろう扉の合わせ目に向かって、同時に全力の体当たりを敢行した。


 ドゴォォォォンッ!!


 分厚いオーク材が悲鳴を上げ、建物全体が揺れるような凄まじい衝撃音が響く。しかし、数百年を耐え抜いた木材の密度と鉄製のカンヌキの強度は凄まじく、扉はミシミシと嫌な音を立てただけで、まだ耐えている。


「もう一度!! 足の踏み込みを合わせますよ!」


 明宮先生の掛け声とともに、二人の成人男性──桐生院は高校生だが、その鍛え上げられたアスリート顔負けの肉体の質量は十分に大人のそれと同等だ──の全体重と助走の運動エネルギーが、再び扉の一点に集中して叩きつけられる。


 メキィッ……バキィィィィンッ!!!


 三度目の衝撃。ついに、物理的な限界点を超えた。内側の金属製カンヌキ自体が折れたのではない。カンヌキの受け金具を壁側に固定していた太い木ネジが、オーク材の木枠ごと引き千切られるようにして弾け飛んだのだ。

 ストッパーを失った重厚なオークの扉が、凄まじい音を立てて内側へと乱暴に開き、壁に激突して跳ね返る。


 その瞬間。

 長年密閉されていた部屋特有の、カビと分厚い埃の淀んだ空気の塊が、気圧差によって一気に廊下へと溢れ出してきた。

 そしてそれに混じって、先ほどの鏡の廊下で嗅いだものよりもさらに色濃く、生温かい『強烈な血の匂いと、人間の消化液や排泄物の入り混じった悪臭』が、僕の嗅覚を暴力的に蹂躙した。


「うっ……!」


 人間の死というものがもたらす、最も生々しく、最も醜悪な生理現象の匂い。月見坂市の無菌室のようなスマートシティで育ってきた僕の脳が、かつて経験したことのない異常な嗅覚情報に対して強烈なエラーコードを吐き出している。

 サモンが震える手でランタンを高く掲げ、如月さんが懐中電灯の光を部屋の奥へと向ける。


 そこは、かつてはドリス家を訪れる貴賓をもてなすための、豪華な客室であっただろう広大な部屋だった。

 しかし、天蓋付きのキングサイズベッドのシーツは黄ばんで朽ち果て、床に敷き詰められた分厚い絨毯は湿気で黒ずみ、天井のシャンデリアからは至る所に分厚い埃と蜘蛛の巣が垂れ下がっている。完全に時間が停止し、誰からも忘れ去られた廃墟のような空間。

 その部屋の中央。

 埃まみれの朽ちたペルシャ絨毯の上に、一つの『物体』が転がっていた。


「……ヒッ!」


 僕の喉から、声にならない引き攣った悲鳴が漏れた。

 ゴシップ記者のシェリー・バーンだった。

 先ほどまで、真っ赤な口紅を引いて狡猾に僕たちを値踏みし、如月さんに突っかかっていた彼女は、仰向けの状態で大の字になって倒れていた。

 タイトなパーティードレスは無惨に引き裂かれ、腹部周辺が赤黒い血でべっとりと染まっている。床のペルシャ絨毯が、彼女の体から流れ出した大量の血液を吸い込み、どす黒い染みを広げ続けていた。


 だが、僕の精神を最も深く抉り取ったのは、彼女の『首』だった。

 彼女の頭部は、頸椎が完全に砕け、人間の首の物理的な可動域を完全に無視した異常な角度……ほぼ真横に、ポッキリと折れ曲がっていたのだ。皮膚が不自然に引き延ばされ、首の横にどす黒い内出血の痕が浮かび上がっている。見開かれたままの双眸は、恐怖と極度の苦痛に染まり、焦点の合わないガラス玉のように虚空を見つめ続けている。


「……ッ!」


 視覚と嗅覚から同時に叩き込まれた、圧倒的で絶対的な『死の事実』。

 僕の脳の防衛本能が完全に決壊した。胃袋が激しく痙攣し、未消化のディナーが胃酸とともに食道をせり上がってくる。僕は慌てて両手で口元を強く押さえ、壁に背を預けてズルズルと崩れ落ちた。冷や汗と涙が滲み出し、全身の震えが全くコントロールできない。

 ゲームや映画の綺麗な死体じゃない。これは、圧倒的な暴力によって構造を破壊され、命のルーツを強制的に断ち切られた、生々しい人間の肉体の残骸なのだ。


「シェリーさん! しっかりしてください!!」


 明宮先生が部屋に飛び込み、血の海を厭わずに彼女のそばに膝をつき、不自然に曲がった首元に指を当てる。しかし、数秒後、彼は絶望的な顔で首を横に振った。


「……ダメだ。頸動脈の拍動がありません。呼吸も停止している。完全に……亡くなっています」


 桐生院が「くそっ!」と忌々しげに壁を殴りつけ、サモンは「神よ、この館に何という呪いを……」とその場に膝をついて十字を切った。


 そんな凄惨な地獄絵図の中にあって、如月瑠璃という人間だけは、ただ一人、別の次元を生きていた。

 彼女は、壁際でうずくまり胃液を堪える僕にも、明宮先生の絶望的な死亡宣告にも、そして不自然に首の折れた凄惨な遺体にも、一切の情動を動かされることはなかった。純白の手袋を嵌めた手で懐中電灯を持ち、静かに、そして傲慢なまでの落ち着きを払って、部屋の中央へと歩み入ったのだ。


「如月さん……! 見ちゃダメだ、離れて……!」


 僕が涙声で叫ぶが、彼女には届かない。彼女は血だまりに沈む遺体を一瞥しただけで素通りし、部屋の構造そのものを解体するための『空間の鑑定』を開始したのだ。


「明宮。死亡確認が終わったのなら、遺体から離れよ。それ以上、現場の物理的ルーツを汚染するな」


 如月さんの氷のような声に、明宮先生がハッと我に返って後ずさる。

 彼女は懐中電灯の光を、部屋の奥にある巨大な二つのランセット窓へと向けた。


「サモン、この部屋の窓は開くか?」


「い、いえ……! この東棟は長年の隙間風と寒波に悩まされていたため、十数年前に窓枠の隙間をすべて硬化パテとペンキで塗り潰し、さらに内側から長い鉄釘を何本も打ち込んで、完全に封鎖しております。絶対に開くはずがありません」


 如月さんは窓枠に近づき、ルーペでその木枠の接合部と釘の頭を確認する。


「左様。ペンキの塗膜は完全に硬化し、乾燥しきっておる。もし一度でも強引に開閉していれば、必ず微小なひび割れ(クラック)や塗膜の剥離が生じるはずじゃが、それらが一つも生じておらぬ。内側から打ち込まれた釘も、表面の赤錆が木材の繊維と完全に癒着している。長年、物理的に開閉された痕跡は一切ない。ここからの出入りは不可能じゃ」


 次に、彼女は部屋の壁面に設置された、石造りの古い暖炉へと歩み寄った。


「煙突は?」


「そ、そちらも同様です。鳥が巣を作ったり、雨水が侵入したりしないよう、屋上側の排煙口に太い鉄格子を溶接して完全に塞いでおります。そもそも、大人が通れるような幅ではありません」


 如月さんは暖炉の内部に上半身を潜り込むようにして懐中電灯の光を当て、内壁の煤と灰の付着状況を確認する。


「確かに。煙突の直系はおよそ十五センチから二十センチといったところか。人間の成人――大腿骨や肩幅の骨格構造が物理的に通過することは絶対に不可能じゃ。内部に付着した煤の層にも、何かが擦れたり、ロープを垂らしたりしたような物理的干渉のルーツは皆無。煙突からの出入りも棄却される」


 如月さんはゆっくりと振り返り、僕たちが今物理的な破壊をもってこじ開けたばかりの、唯一の出入り口であるオーク扉を見据えた。


「先ほどサモンが外から鍵を開け、そして明宮と桐生院が体当たりをして『内側のカンヌキ』を壁の木枠ごと破壊するまで、この部屋の出入り口は完全に塞がれていた。床下や天井に隠し通路が存在するかどうかも、この建物の基礎構造と床板の反響音(タッピング)からしてあり得ない」


彼女の冷徹な声が、カビ臭い部屋の空気をさらに重く、絶望的なものへと変えていく。


「窓は長年密閉され、煙突は侵入不可能。隠し通路も存在しない。そして唯一の扉は、内側から堅牢なカンヌキで施錠されていた。……つまり、この空間は、建築工学的にも物理学的にも一切の抜け道が存在しない、完璧な『密室』じゃ」


 密室殺人。

 ミステリー小説の中でしか存在しないはずの、非現実的で悪魔的な殺人の証明。


「犯人は、シェリーさんを引きずり込んで殺害した後……この密室から、煙のように消え失せたということですか……?」


 桐生院が、自らの信じる論理的思考が崩壊していくような感覚に耐えきれず、信じられないものを見る目で部屋を見回した。


「煙のように消える人間などおらぬ。すべての事象には必ず物理的なルーツとトリックが存在する」


 如月さんはそう断言すると、初めて、部屋の中央で倒れているシェリーの遺体の方へと歩み寄った。

 しかし、彼女の視線の先――アメジストの瞳が捉えていたのは、シェリーの無惨な死体そのものではなかった。


「……悪趣味な亡霊じゃ。どこまでも、空間の調律を狂わせるのがお好きなようじゃな」


 如月さんの呟きに促され、僕も壁に寄りかかりながら、恐る恐る視線を向ける。

 そして、遺体のすぐ傍に転がっている『それ』の異質さに、思わず息を呑んだ。


 それは、高さ二メートルはあろうかという、巨大なアンティークの『柱時計(ホールクロック)』だった。

 高級なウォールナット材で作られ、精緻な彫刻が施されたその時計は、本来壁際に立っているべきものだが、今は仰向けに倒れ、遺体の横に横たわっている。

 異常なのは、その『状態』だ。この部屋のベッドや絨毯といった他の家具がすべて分厚い埃とカビに覆われているのに対し、その柱時計だけは、まるで毎日執事に磨き上げられていたかのように艶やかな光沢を放ち、埃一つ被っていないのだ。明らかに、この廃墟のような部屋のルーツから外れた、別の場所から意図的に持ち込まれた不純物。

 しかも、その文字盤を覆っていたはずのドーム状のガラスは、先ほどの鏡と同じように粉々に叩き割られていた。


 だが、真の異常はガラスが割れていることではなかった。

 懐中電灯の光に照らし出された、アンティーク時計のアイボリー色の文字盤。ローマ数字が美しく印字されたその盤面の中心に、あるはずのものが存在しなかったのだ。


「……針が、ない」


 僕の震える声が、部屋に響いた。

 時計の命とも言える、『時針』『分針』、そして『秒針』。

 その三つの針が、根元から乱暴に、しかし確実に、物理的にもぎ取られて消失していた。本来針が接続されているべき中心軸である真鍮製の歯車の先端だけが、無惨に剥き出しになっている。


 密室の中で首を折られて死んでいる女。

 その傍らに倒れている、針を奪われた巨大な柱時計。


 それは、ジェームスの事件に続く、犯人からの第二の異常なメッセージだった。

 完璧な密室というキャンバスに描かれた、意味不明で狂気的なオブジェ。

 僕の脳は、このあまりにも理解不能な状況に悲鳴を上げ、再び深い絶望と恐怖のどん底へと突き落とされていくのだった。



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