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第9巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(上)  作者: アリス・リゼル


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第3話『血痕』 ~section1:消えたチャラ男と、土の匂いのする予言者~

 非常灯の頼りないオレンジ色の光が、ひび割れたアンティークの鏡面と、そこに突き刺さる純銀の『おたま』を不気味に照らし出している。


 おたまの柄から滴り落ちる赤黒い血液が、大理石の床に生々しい水溜まりを作り出し、酸化した鉄の匂いが廊下という密閉空間に濃密に立ち込めていた。


「お主の仕掛けたその拙い嘘、わしが物理の法則において、すべて解体してやろう」


 純白の手袋と銀のルーペを手にした如月さんの、氷のように冷たく、そして傲慢なまでの絶対的知性を孕んだ宣戦布告。


 その言葉は、恐怖とパニックに支配されていた廊下の空気を、一瞬だけ鋭利な刃物のように切り裂いた。しかし、極限状態に置かれた大人たちの脳は、一介の女子高生が放ったその異常なほどの冷静さを、正しく処理することはできなかった。


「な、何を馬鹿なことを言っているの! あなた、自分が何を言っているか分かっているの!?」


 壁に背を張り付けていたシェリーが、ヒステリックな声を上げた。


「如月さん、勝手な行動や推測で場を乱さないでください! ここは異常です、明らかに重大な事件が起きています!」


 学校主任の清瀬先生も、顔色を青ざめさせながらも教育者としての義務感から、如月さんの前に立ち塞がるようにして声を張り上げた。


「生徒諸君、そしてドリスご夫妻も! ここに留まるのは危険です! 犯人がまだ近くに潜んでいるかもしれない。一旦全員、身の安全が確保できる談話室へ戻りましょう! 明宮先生、桐生院くん、皆さんを誘導して!」


 清瀬先生の切羽詰まった指示が飛んだ、まさにその時だった。


「オ、オーマイガッ!! 信じられマセーン!!」


 突如として、僕の背後から鼓膜を破らんばかりの大声が轟いた。振り返ると、蛍光ピンクのネクタイを締めた現地ガイドのミハイルが、両手で頭を抱え、目をひん剥いてパニックを起こしていた。


「こ、この由緒正しき洋館に、凶悪な暴漢が侵入しているかもしれないという事デスネ!? だとしたら、外に停めてあるワタシの愛するツアーバスも破壊されているかもしれない! イヤ、それよりも、他の出入り口の鍵がどうなっているか確認してきマース!!」


「ちょっ、ミハイルさん! 待ちなさい!」


 清瀬先生が鋭く制止の声を上げたが、ミハイルは「ワタシはプロのガイドですから、お客様とバスの安全を確保する義務がありマス!!」と叫びながら、その巨体とは思えないほどの素早さで身を翻し、エントランスの方角へと駆け出して行ってしまった。


「ああもう、どいつもこいつも勝手な真似を! サモン、お前は西側の窓の施錠を確認してこい! 」


 グランバール卿もまた、自身のテリトリーを血で汚された怒りと恐怖から完全に冷静さを失い、執事に怒鳴り散らしている。


「いやぁぁぁ! ジェームスが! 鏡の中に!」


 足元ではメアリーが未だに錯乱して泣き叫び、エイミー夫人がそれを必死に宥めている。


 大人たちが次々とパニックに陥り、怒号と悲鳴が飛び交う無秩序な状況。僕もその圧倒的な混乱の渦に呑まれ、息をするのすら忘れそうになっていた。


「……待ってください。おかしいです」


 その耳障りな喧騒を縫うように、桐生院誠がエリート特有の鋭い観察眼で周囲を見回し、低く緊迫した声を上げた。


「清瀬先生、点呼を取り直すべきです。先ほどまで……あそこの壁際で嘔吐を堪えていたはずの人物が、一人足りません」


「え……?」


 僕たちは全員、一斉に桐生院が指差した方向――血だまりから少し離れた壁際へと視線を向けた。


 つい数十秒前まで、確かにそこにいたはずの人物。


 ゴシップ記者の、シェリー・バーンの姿が、煙のように忽然と消え失せていたのだ。


「シェリーさん!? シェリーさん、どこに行ったんですか!」


 清瀬先生が慌てて周囲を見回すが、彼女の姿はおろか、足音一つ聞こえない。ミハイルが走り去った足音や、大人たちの口論にかき消され、彼女がいつ、どちらの方向へ消えたのか、誰一人として見ていなかったのだ。


「嘘でしょ……どうして……シェリーまで……!」


 親友の消失に気付いたメアリーが、再び過呼吸のような発作を起こす。


 大人たちが新たな疑心暗鬼に囚われようとしている中、僕の視界の端で、如月さんが静かに動いた。


 彼女は、血塗られたおたまから視線を外し、純白の手袋を嵌めた手で銀色のルーペを持ちながら、大理石の床へとゆっくりとしゃがみ込んだ。


「……愚かな」


 如月さんのアメジストの瞳が、血だまりの縁から少し離れた床面に残された、微かな痕跡を捉えていた。


「皆がパニックを起こし、喚き散らしている騒音の隙に、この現場で金になる情報(特ダネ)でも拾い、欲に目が眩んで単独で動いたか。……ハイエナの浅ましい本能じゃな」


「き、如月さん? 一体、何を見ているんですか?」


 僕が恐る恐る尋ねると、如月さんはルーペを床に向けたまま、淡々と答えた。


「靴跡じゃ」


「靴跡……?」


「右足の小指側、そして左足の踵だけが極端に擦り減った、アシンメトリーなヒールの跡。……先ほど談話室で看破した、あの三流パパラッチの歩行の歪みが、大理石の上の微細な埃を乱し、明確なベクトルを持って続いておる」


 如月さんが指し示した先を見ると、確かに、目を凝らさなければ見えないほどの微かな埃の乱れが、僕たちが来た談話室の方角ではなく、この廊下をさらに奥へと進んだ先――この洋館の『東棟』へと続く、深い闇の方向へと点々と続いていた。


「シェリーさんは……ジェームスさんの手がかりか何かを見つけて、一人で追いかけていったってことですか!?」


「おそらくはな。盗聴や張り込みで培われた隠密行動のスキルだけは、無駄に高いようじゃ。だが、己の欲望を優先し、この異常な空間のルーツを見誤った代償は高くつくぞ」


 如月さんはゆっくりと立ち上がり、漆黒のベルベットドレスの裾を払った。そして、大人たちが言い争っているのを完全に無視して、シェリーの足跡が続く東棟の暗い廊下へと、一切の躊躇なく歩み出そうとした。


「如月さん! どこへ行く気ですか! 勝手な行動は許しませんよ!」


 清瀬先生が慌てて制止しようとするが、如月さんは振り返ることなく、冷たい声で切り捨てた。


「鮮度の高いルーツを追う。時間は物理的に不可逆じゃ。ここで無意味な情動のやり取りに時間を浪費すれば、失われた歯車は二度と見つからぬ」


 そして、彼女は背中越しに、僕に向かって絶対的な命令を下した。


「サクタロウ、来い。お主はわしの助手であり、工具じゃ。外界のノイズキャンセリングの役割を果たせ」


「ひぃっ……! ぼ、僕も行くんですか!?」


 僕は情けない悲鳴を上げた。こんな血生臭い事件現場から、さらに暗くて寒い未知の領域へと足を踏み入れるなど、正気の沙汰ではない。しかし、如月瑠璃という絶対的な主の命令に逆らうという選択肢は、僕の生存戦略システムにはプログラミングされていなかった。


 僕は涙目になりながらも、五味や桐生院の同情の視線を背中に浴びつつ、ガタガタと震える足で如月さんの背中を追いかけた。


**


 東棟へと続く廊下は、先ほどまでのメインの廊下よりもさらに非常灯の間隔が広く、光の届かない漆黒の闇がところどころに口を開けていた。


 窓の外から吹き付ける暴風雨の音が、古い石造りの壁を通して重く響いてくる。みぞれ混じりの雨がガラスを叩きつける音は、まるで無数の小さな爪が、外からこの館を引っ掻いているかのようで、僕の恐怖心を限界まで煽り立てた。


「き、如月さん……。本当にシェリーさんはこっちに行ったんですか? なんだか、空気がどんどん冷たくなっている気が……」


 僕は両腕で自分の体を抱きしめながら、小刻みに震える声で尋ねた。


「空気の温度低下は、この棟のどこかに外気と直結する隙間がある証拠じゃ。そして、ヒールの偏摩耗の痕跡は、間違いなくこの廊下の奥へと続いておる」


 如月さんは七つ道具の一つである小型の懐中電灯のスイッチを入れ、その鋭い白色の光で床の微小な痕跡をトラッキングしながら、一定のペースで歩みを進めていく。


 その時だった。


 前方の暗がり――中庭へと続くと思われる、重厚な木製の勝手口の扉の前に、ぬっと、巨大な影が立ち塞がった。


「ヒィッ!!!」


 僕は心臓が口から飛び出しそうになり、その場に腰を抜かしかけた。


 殺人鬼か、それとも鏡に引きずり込む悪魔か。


 しかし、如月さんの懐中電灯の光がその影を捉えた瞬間、僕の恐怖は、別の種類の『不気味さ』へと変質した。


 そこに立っていたのは、深い皺の刻まれた顔を持つ、七十代ほどの老人だった。


 分厚く汚れた作業着を身に纏い、手には巨大で鈍い光を放つ鉄製の『剪定鋏(せんていばさみ)』を握りしめている。


 そして何より僕の嗅覚を強烈に刺激したのは、この異常な冷気の中でもはっきりとわかる、彼の全身から立ち上る匂いだった。それは、血の匂いなどではない。むせ返るような、土と植物が発酵した『腐葉土と肥料の匂い』だ。


 彼はおそらく、この広大な洋館の敷地を管理している使用人の一人、庭師なのだろう。


 チャキ……チャキ……。


 老人は、手にした巨大な剪定鋏の刃を、無機質なリズムでゆっくりと開閉させた。その鋭い金属音が、静まり返った東棟の廊下に不気味に響く。


「……お主、ここで何をしておる」


 如月さんは全く動じることなく、冷徹な声で老人に問いかけた。


 老人は、この洋館の中で起きているパニックや血塗られた事件など、全く我関せずといった様子で、虚ろな、しかしどこか人間という生物を底知れぬ眼差しで見透かしているような濁った瞳で、僕たちを見下ろしていた。


「……季節外れの『黄色いカーネーション』が咲いたようだ」


 老人のひび割れた声が、地の底から湧き上がるように低く響いた。


「なんですか、それ……」


 僕が震えながら聞き返すが、老人は僕のことなど見えていないかのように、ただ虚空に向かって言葉を紡ぎ続けた。


「軽蔑と、拒絶。……その忌まわしい種が、冷たい石の床に深く根を下ろした。あのチャラついた若者の血を吸ってな」


「っ……!」


 ジェームスのことを言っているのか。なぜこの庭師は、先ほど起きたばかりの事件のことを知っているかのように、花言葉の隠喩で語るのか。


「……次は『トリカブト』の根が張るだろう」


 老人は、剪定鋏をギリッ、と強く握りしめた。


「人間嫌いと、死の猛毒。それが、この館の腐りきった土壌を侵食し始めている。お前たちも、美しい花弁の下に隠された毒のルーツに気をつけることだ……」


 それは、ただの老人の戯言というよりも、これから起こる凄惨な未来を確定させるような、不吉で絶対的な『予言』のように聞こえた。僕の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。


 老人はそれ以上何も言わず、足を引きずるような重い足取りで、僕たちの横を通り抜け、談話室のある方向へと姿を消していった。


「な、なんだったんですか、今の……。完全にホラー映画に出てくる、意味深なことだけ言って去っていくモブのお爺ちゃんじゃないですか……!」


 僕がガクガクと震えながら言うと、如月さんは小さく鼻を鳴らした。


「愚鈍な。トリカブトだのカーネーションだの、非科学的なオカルトの妄想や隠喩に付き合う暇はない。見るべきは、あの老人が残した『物理的なルーツ』じゃ」


 如月さんはしゃがみ込み、老人が先ほどまで立っていた場所の床に落ちた、黒っぽい土くれへとルーペを向けた。


「黒ボク土に、微量の消石灰とピートモスが混ざっておるな」


 如月さんの口から、瞬時に土壌の化学成分が分析されていく。


「この館の広大な庭園の土壌は、地質学的に見て基本的に粘土質じゃ。しかし、この成分は明らかに人工的に酸度と水はけを調整された改良土。わしの記憶が確かならば、この東棟の外側……かつて使用されていた『開かずの旧客室』と呼ばれるエリアの周辺でのみ、特殊な植物を育てるための土壌改良が行われていたはずじゃ」


「えっ、じゃあ、あの庭師さんは……」


「左様。あの老人の長靴の泥の乾き具合と成分のルーツから推測するに、彼はつい先ほどまで、その『旧客室』の周辺で作業をしておったということじゃな。館内で起きたジェームス消失事件の時刻のアリバイにはなるが、同時に、シェリーが向かった先と見事に一致しておる」


 如月さんは懐中電灯の光を、再び廊下の奥へと向けた。

 そこには、シェリーのヒールの痕跡が続いていた。

 しかし、その痕跡は、老人が現れたこの勝手口の付近から、明らかな『異変』を起こしていた。


「如月さん……これ……」


 僕の声が、恐怖でひっくり返った。

 シェリーのヒールの跡の先に続いていたのは、単なる足跡ではなかった。


 それは、外から持ち込まれた泥と、そして……微かな『血』が混ざり合った、太く、重い『擦過痕』だった。


 まるで、意識を失った重い質量――人間の肉体を、引きずって奥へと進んだような、生々しく暴力的な痕跡。その引きずり痕は、この廊下の突き当たりにある、重厚なオーク材の扉の方へと真っ直ぐに伸びていた。


「……遅かったか」


 如月さんが、一切の感情を交えない、氷のような声で呟いた。


「獲物を追っていたはずのハイエナが、いつの間にか狩られる側に回ったようじゃな。急ぐぞ、サクタロウ。命のルーツが完全に冷え切る前にな」


 僕は恐怖の限界を超え、今にも気絶しそうになっていた。しかし、僕の足は、まるで目に見えない鎖で繋がれているかのように、絶対的な主である如月さんの背中を追って、死の匂いが濃厚に漂う『開かずの旧客室』へと向かって動き出していた。



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