第2話『晩餐』 ~section5:銀のおたまと、凍る鏡~
ジジッ、ジジジジジッ……パンッ!
不快な電気的ショートのノイズが鼓膜を激しく叩き、何かが破裂するような小さな音が鳴った直後だった。談話室の壁面に等間隔で設置されていた数個のブラケットライトが、苦しげな明滅を数秒間繰り返した後、薄暗いオレンジ色の光をじわじわと放ち始めた。
完全な漆黒の闇から、不完全な光の世界への帰還。しかし、地下室の非常用バッテリーから供給されているであろうその予備電源の光は、およそ照明と呼ぶにはあまりにも頼りないものだった。ナトリウムランプ特有の、波長の長い単色に近いオレンジ色の光。それは、部屋の壁を覆うイングリッシュオークの重厚な書棚や、チェスターフィールドソファの使い込まれた本革の質感を、まるで古いセピア色の写真のように不気味に変色させていた。
さらに、人間の眼球は急激な光量の変化に対応できず、視界の端には残像のような黒いノイズがチラチラと飛び交っている。ただでさえ息の詰まる閉鎖空間が、この異常な色彩と光量の不足によって、まるで巨大で古びたカプセルの中に閉じ込められたかのような、強烈な閉塞感を生み出していた。
「皆様、ご無事ですか!」
開け放たれたドアから、執事のサモンが血相を変えて駆け込んできた。彼の手にある真鍮製のオイルランタンの灯りが、オレンジ色の非常灯の光と混ざり合い、壁に巨大で歪な影をいくつも投げかけている。
「先ほど、館の奥から悲鳴と……何か、巨大なガラスが砕け散るような恐ろしい音が聞こえましたが、一体何が……」
サモンの問いかけに即座に答える者は、誰一人としていなかった。
急激な光の回復によって灼かれた網膜を瞬きで慣らしながら、誰もが硬直したまま、自分の身に何が起きているのか、周囲の状況を把握しようと脳の処理をフル回転させているのだ。
その凍りついた空間の中で、真っ先に指導者としての理性を取り戻して動いたのは、学校主任である清瀬先生だった。
「生徒諸君! その場から絶対に動かず、まずは点呼を取ります! 声を出して返答しなさい! 桐生院くん、五味くん、朔くん、佐伯さん、鳴海さん、そして如月さん! 全員無事ですか!」
清瀬先生の凛とした、しかし確かな緊張感を孕んだ声が、パニックの淵に沈みかけていた僕たちの意識を強制的に現実に引き戻した。
「……はい。如月学園の生徒は、全員ここにいます」
桐生院が、暗闇の中で微かに乱れたタキシードの襟を整えながら、努めて冷静さを装った声で答えた。僕も、佐伯も鳴海も、そして顔面蒼白になって未だにソファの肘掛けにしがみついてガタガタと震えている五味も、確かにこの談話室のソファ周辺に固まっている。如月さんは相変わらず微動だにせず、アメジストの瞳で静かに、そして冷徹に室内を見渡していた。
「生徒の無事は確認しました。……ですが、ミスター・ドリス」
明宮先生が、消えかかった暖炉のそばで愛猫サクラを抱きしめて震えるエイミー夫人を庇うように立っているオーナー、グランバール卿へ鋭い視線を向けた。
「宿泊客の方々が、全員揃っていません。先ほどの暗闇の中で、悲鳴を上げて廊下へ駆け出していったメアリーさんとシェリーさんはともかく……ジェームスさんの姿が、この部屋のどこにも見当たりません」
「……なんだと?」
グランバール卿がモノクルの奥の目を細め、怪訝な表情で室内をぐるりと見渡した。
明宮先生の指摘する通りだった。つい数分前まで、暗闇の中で「可愛いお嬢ちゃんたち、俺のそばにおいでよ」と下品な軽口を叩き、ソファから立ち上がる衣擦れの音をさせていたあのチャラ男の姿が、この薄暗いオレンジ色の空間から完全に消失しているのだ。
「オー! ミスター・ジェームスなら、停電になって真っ暗になった直後、トイレにでも行くように、ふらりと廊下の方へ歩いていきマシタヨ! ワタシ、彼のつけているキツい香水の匂いが、鼻先を通り過ぎるのを確かに感じマシタカラ!」
蛍光ピンクのネクタイを締めたミハイルが、こんな異常事態に及んでも未だに能天気な大声を上げた。
だが、彼のその無邪気な証言は、僕の背筋に決定的な悪寒の杭を打ち込むのに十分すぎる破壊力を持っていた。
(……ジェームスは、暗闇の中で一人で廊下へ出た。そしてその直後、廊下の奥からメアリーの絶叫と、鈍い衝撃音、そして巨大なガラスの砕け散る音が響いた……。まさか)
僕が最悪の想像に行き着き、呼吸が浅くなったのと同じタイミングで、清瀬先生が鋭い指示を飛ばした。
「サモンさん、明宮先生。音がした廊下の奥へ向かいましょう。何か重大な事故、あるいは事件が起きている可能性があります。生徒諸君は絶対にここから出ないように……」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
清瀬先生の言葉を遮るように、再び廊下の奥から悲鳴が上がった。今度は、ゴシップ記者のシェリーの声だった。彼女の悲鳴には、先ほどのメアリーのものとは違う、何か信じられないほど異様で冒涜的な光景を目の当たりにした、生理的な嫌悪と恐怖が入り混じっていた。
「シェリーさん!?」
明宮先生が堪えきれず、談話室を飛び出していく。サモンもランタンを高く掲げてその後を追った。
「サモン! 私も行くぞ! 私の館で何が起きているのか、この目で確かめねばならん!」
グランバール卿が、貴族としての義務感と、自身のテリトリーを侵された怒りを露わにして後に続く。エイミー夫人は「あなた、気をつけて!」と悲鳴のような声を上げた。
「待ってください! 私たちも行きます!」
桐生院が、清瀬先生の制止の言葉を振り切るようにして廊下へ向かう。彼もまた、エリートとしての責任感からか、あるいは未知の事態に対する不安からか、大人たちに追従することを選んだのだ。それに釣られて、鳴海や佐伯も恐怖に顔を引き攣らせながら、互いの手を取り合って部屋を出てしまった。
取り残されたのは、僕と、過呼吸を起こしかけている五味、そして如月さんだけだ。
「サクタロウ。五味を置いて行くぞ。あれは客観的データというインフラが切断された時点で、脳の情報処理能力が完全にフリーズしておる。連れて行ってもノイズにしかならぬ」
如月さんは、漆黒のベルベットのワンピースの裾を静かに翻し、一切の躊躇なく血の匂いが漂う廊下へと歩み出した。
僕は五味をこの薄暗い部屋に一人残すことに強い罪悪感を覚えつつも、それ以上に、自分自身がこの不気味な談話室に取り残されることへの恐怖が勝り、慌てて如月さんの背中を追いかけた。
談話室のドアを一歩出た瞬間、僕はその環境の急激な変化に思わず立ち止まりそうになった。
「……寒っ……!」
完璧に温度管理され、チリ一つなく清掃されていたはずの洋館の廊下が、異常なほどに冷え切っていたのだ。
それは単に暖房が切れたというレベルの生易しい寒さではない。どこかの窓が完全に開け放たれているのか、あるいは外壁に物理的な欠損が生じているのか。濃霧を含んだベルグラヴィア山間部特有の極寒の気流が、廊下という石造りのトンネルを勢いよく吹き抜け、僕の安物のダークスーツの生地を容易く透過して皮膚の表面温度を急激に奪っていく。熱力学的に見ても、この短時間でこれほど室温が低下するのは明らかに異常事態だった。
オレンジ色の非常灯が点々と続く、果てしなく長い廊下。
僕たちは、前方から漂ってくる強烈な血の匂いと、大理石の床を踏みしめる大人たちの不規則な足音だけを頼りに、その突き当たりへと向かった。
最後尾を歩く僕の膝は、恐怖と寒さでガタガタと情けない音を立てて笑い続けている。
やがて、人だかりができている廊下の最奥部――おそらく、この洋館の別の棟へと続く連絡通路の入り口付近に辿り着いた。
そこでは、メアリーが床にへたり込んで両手で顔を覆いながら発狂したように泣き叫び、シェリーが壁に背を張り付けて口を押さえ、激しく嘔吐するのを堪えていた。明宮先生と清瀬先生は、彼女たちの前に立ち塞がるようにして、その『惨状』を凝視し、完全に言葉を失っている。桐生院や鳴海たちも、息を呑んで青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「……先生。何があったんですか。ジェームスさんは……」
僕が震える声で尋ねながら、大人たちの隙間からその光景を覗き込んだ瞬間。
僕の脳は、視覚から送られてきたあまりにも不条理で、あまりにも異常な情報に対して、完全に処理を停止した。
そこに、死体はなかった。
暗闇の中で何者かに襲撃され、血まみれになって倒れているはずのチャラ男の姿は、この狭い廊下のどこにも存在しなかったのだ。
廊下の突き当たりの石壁に立て掛けられていたであろう、高さ二メートルを超える巨大なアンティークの姿見。
その分厚い鏡面は、中心部から放射状に凄まじい蜘蛛の巣状の亀裂が走り、無数の鋭利な破片となって足元の大理石の床に散乱していた。先ほどのドゴォンという衝撃音と、ガラスが砕け散る破壊音のルーツは間違いなくこれだ。
だが、異常なのは鏡が割れていることではない。
その粉々にひび割れ、オレンジ色の非常灯を不気味に乱反射している鏡の『中心』……ちょうど人間の心臓の高さほどの位置に、ある物体が、まるで壁の奥深くまで貫通しているかのように、深々と突き刺さっていたのだ。
それは、先ほどのディナーの際に厨房にあったはずの、純銀製の巨大な『レードル』だった。
何百年もこの館に存在し、完璧に磨き上げられてきたアンティークの鏡。そこに、全く不釣り合いなキッチン用品が、物理法則を完全に無視したような異常な角度と力で突き立てられている。
純銀という金属は、比較的柔らかく、強い衝撃を与えれば容易に変形するはずだ。しかし、そのおたまは、分厚い鏡のガラスを叩き割り、さらにその奥にある頑強な石壁にまで食い込んでいるにもかかわらず、柄の部分が一切曲がることなく、真っ直ぐに空間に突き出している。人間の腕力で、ただの丸みを帯びたおたまをガラスと石壁に真っ直ぐ突き刺すなど、力学的に不可能に近い。
そして何よりも僕の精神を根底から破壊したのは、その銀のおたまの表面をべっとりと覆い尽くしている『色』だった。
非常灯のオレンジ色の光の下でもはっきりとわかる、ねっとりとした赤黒い液体。
おたまの柄を伝い、すり鉢状の掬う部分の縁から、ポタ……ポタ……と、一定の重いリズムで真下の大理石の床へと滴り落ちている、生々しい大量の人間の血液。
床にはすでに、直径数十センチほどの巨大な血だまりが形成され、その表面が異常な寒気によって微かに凝固し始めている。廊下に充満していた酸化した鉄の匂いは、間違いなくここから発せられていた。
「な、なんということを……! 私の館の、歴史あるアンティークになんという真似を!」
グランバール卿が、砕け散った鏡を見て激昂し、ワナワナと全身を震わせた。しかし、その怒りはすぐにおたまから滴り落ちる大量の血だまりへと向き、彼の顔色を一瞬にして恐怖の土気色へと変えた。
「ち、血……? なぜ、キッチンのおたまが、血まみれになってこんなところに……!」
「……グランバール卿、お下がりください。これは単なる悪戯ではありません」
明宮先生が、グランバール卿を制止するように腕を広げた。その顔には、教育者としての爽やかな笑顔は微塵もなく、極度の緊張と警戒が張り付いている。
「清瀬先生、これは異常事態です。ジェームスさんの姿はなく、代わりにこの大量の血。……そして、凶器に使われているのは『調理器具』だ」
明宮先生のその言葉に、現場の空気が一気に凍りついた。
その場にいない人間、そして調理器具という凶器。その二つの要素が結びつく人物は、この館に一人しかいない。
「サモン!! ローレルはどこにいる!!」
グランバール卿が、血走った目で執事のサモンを怒鳴りつけた。
「彼しかいないだろう! あの銀のおたまは、今日のディナーで彼が使っていたものだ! あの男、エイミーの無茶なオーダーで精神を病んで、ついに狂行に走ったのか! 早く彼をここへ連れてこい!」
「お、お待ちください、旦那様! ローレルはディナーの後、厨房の片付けをしてそのまま自分の部屋に戻ったはずです。いくらなんでも、彼がお客様を襲うなど……!」
サモンが慌てて料理長を庇おうとするが、大人たちの疑心暗鬼はすでに止まらない。
「待ってください、ミスター・ドリス。もし料理長が犯人なら、彼は刃物を持っている可能性があります。不用意に近づくのは危険です」
桐生院が大人たちの会話に冷静に割り込み、エリートらしい的確な状況判断を下した。
「それに、この異常な冷気。どこかの窓か扉が開け放たれている証拠です。犯人はジェームスさんを襲撃した後、すでに館の外……この濃霧の森の中へ逃走した可能性が高い」
「違う! 違うわよ!!」
床にへたり込んでいたメアリーが、突然、両手で頭を抱えながら錯乱したように金切り声を上げ始めた。
「料理長なんかじゃないわ! 人間じゃないのよ! 暗闇の中で、ジェームスが私の横を通り過ぎて……そうしたら、突然、何かにものすごい力で引きずられるような音がして……! ジェームスは、鏡の中に引きずり込まれたのよ! 悪魔よ! この館に棲みついている悪魔が、鏡の中からジェームスを引きずり込み、血を搾り取って、あのおたまを突き刺したのよぉぉぉっ!!」
「落ち着きなさい、メアリー! 鏡の中に人が引きずり込まれるなんて、そんな馬鹿げたオカルトがあるわけないじゃない!」
シェリーが必死にメアリーの肩を揺さぶって制止しようとするが、彼女自身も青ざめた顔で、その血塗られたおたまから目を離せずにいる。
恐怖の連鎖。
料理長犯人説という疑心暗鬼、オカルトの妄想、暗闇、極寒の冷気、濃密な血の匂い、そして物理法則を無視した血塗られたオブジェ。
僕の交感神経は完全に限界を突破し、過呼吸のような浅い呼吸が止まらなくなっていた。視界がグラグラと揺れ、足の力が抜けそうになる。インフラに守られた温室育ちの僕の脳は、この圧倒的な『死の気配』と大人たちの狂乱を処理しきれずに悲鳴を上げていた。
「……まったく」
その時。
僕の鼓膜のすぐ傍で、氷のように冷たく、しかし絶対的な静謐を孕んだ声が響いた。
如月さんだ。
彼女は、パニックに陥り、互いに疑心暗鬼をぶつけ合う大人たちや僕を全く意に介することなく、ただ一人、その血塗られた鏡の前へとゆっくりと歩み出ていた。
彼女は、漆黒のベルベットドレスに合わせて肩から下げていた、小さな黒い革のパーティーバッグの留め金を開けた。
まさかディナーの席にまでそんなものを持ち込んでいたのかと一瞬驚いたが、よく考えれば当然だ。如月瑠璃という人間は、銀のルーペ、純白の手袋、懐中電灯、懐中時計、万年筆、銀の匙、そして古い革の手帳という『七つの道具』を、いかなる時も、いかなる服装であろうとも決して肌身離さず持ち歩いているのだから。
彼女はバッグの奥から純白の手袋を取り出す……前に。
まずは、掌に収まるサイズの、古びた銀色の『懐中時計』を取り出した。
カチリ、と。
リューズを巻く、硬く冷たい金属音が響く。
そして、蓋が開かれた。
チク、タク、チク、タク……。
それは、極めて精密に調整された機械式時計が刻む、一秒の狂いもない正確な秒針の音だった。
その微かな、しかし規則正しい金属の打撃音が、パニックの悲鳴と混乱に支配されていた廊下の空気を、まるで波紋を広げるように静寂へと塗り替えていく。
一定のリズム。それは、人間の心臓の鼓動――安静時の心拍数である六十回/分(1.0Hz)に極めて近い周期で刻まれていた。
「……っ」
僕の暴走していた心拍が、その時計の音の規則正しいリズムに引きずられるように、強制的に減速させられていくのを感じた。
過呼吸が収まり、焦点の合っていなかった視界がクリアになる。
如月さんが自らの思考を研ぎ澄ますために行う『調律』。それは同時に、周囲にいる人間の乱れた情動のノイズを物理的に相殺し、脳波を強制的に安定させるための、完璧な音響学的アプローチでもあった。
「血や異常な光景という、視覚から得られる過剰な情動のバグに惑わされるな、サクタロウ。……そして、そこの大人たちも、浅はかな論理の飛躍で騒ぎ立てるのをやめよ」
如月さんは懐中時計をバッグに仕舞い、振り返ることなく冷ややかに言い放った。
「鏡の中に人間が引きずり込まれるなど、質量保存の法則を完全に無視したオカルトじゃ。世界は常に、物理学と化学の絶対的なルールの上で構築されておる。そして、料理長のローレルが犯人だという推測も、プロファイリングの観点から見て極めて杜撰と言わざるを得んな」
彼女の言葉は、メアリーの錯乱も、グランバール卿の怒りも、冷水で断ち切るように響いた。
「ローレルは、狂気のオーダーに対して血の滲むような化学的アプローチで正解を導き出す、真の職人じゃ。そのようなプライドを持つ料理人が、己の魂とも言える純銀の道具を、わざわざこんな雑な見せしめのために用いて置き去りにするはずがない」
如月さんはバッグから純白の綿手袋を取り出し、指の先まで一切の隙間を作らぬよう、ゆっくりと丁寧に嵌めていく。
そして、同じく取り出した銀色のルーペを右目に当て、割れた鏡の中心に突き刺さる、血塗られた銀のおたまへとその美しいアメジストの瞳を向けた。
「見るべきは、オカルトという妄想でも、安直な責任転嫁でもない。そこに残された物理的なルーツじゃ。……例えば、このガラスを破壊した際の『衝撃のベクトル』と、破片の飛散状況じゃな」
彼女はルーペ越しに、おたまが突き刺さっているガラスの亀裂の起点を冷徹に観察する。
「純銀のモース硬度はおよそ2.5から3。対して、鏡のガラスは5.5から6じゃ。本来、柔らかい純銀で硬いガラスを叩き割れば、銀の側が大きくひしゃげ、変形する。しかし、このおたまの柄は一切曲がることなく、ガラスを突き破って奥の石壁にまで到達しておる」
如月さんの口から紡がれるのは、恐怖でもオカルトでもない。
ただそこにある異常な事象を、冷徹な物理法則と生体反応に当てはめて解体していく、圧倒的な知性のプロセスだった。
「これを成立させるには、人間の不規則な腕力などではなく、おたまの柄の『芯』に対して、ミリ単位のブレもなく真っ直ぐに運動エネルギーを伝達させる必要がある。例えば、強靭なバネを用いた機械的な射出装置か、あるいは巨大な振り子の原理を用いた『物理的な加速』による一撃じゃ」
そして、彼女の視線は、おたまの先端から滴り落ちる血痕へと移る。
「血液は体外に排出された瞬間から、血小板と凝固因子によって急速にフィブリンの網を形成し、凝固を始める。この異常な冷気の中であれば、その反応はさらに加速するはずじゃ。血の粘度と、床の血だまりの凝固の進行度合いから逆算すれば……この血が流出してから、まだ数分しか経過しておらぬ」
如月さんはルーペを下ろし、砕けた鏡に歪んで映る自分の姿と、その中心に刺さる異物を静かに見据えた。
「ジェームスが暗闇で談話室を出てから、メアリーの悲鳴が上がるまでの、ごくわずかな空白の時間。その数分足らずの間に、これだけの出血を伴う致命的な外傷を与え、さらには巨大な鏡を物理法則を無視した一撃で粉砕し、死体だけを隠蔽する……」
「この館の亡霊とやらが用意した、随分と手の込んだ悪趣味な物理トリックじゃな」
如月さんはアメジストの瞳を細め、冷たく言い放った。
「だが、いかに奇怪に装飾しようとも、物質が残す痕跡を誤魔化すことはできぬ。……お主の仕掛けたその拙い嘘、わしが物理の法則において、すべて解体してやろう」
純白の手袋と銀のルーペを手にした孤高の天才による、冷徹な宣戦布告。
完璧な洋館という密室空間に生じた、最初の『ノイズ』。
血塗られたおたまと消えたチャラ男。この常軌を逸した消失事件の幕は、こうして不気味に、そして残酷に切って落とされたのだった。




