第2話『晩餐』 ~section4:ブラックアウトと、闇夜の悲鳴~
狂気の和洋折衷ディナーという名の、僕の味覚と脳の処理能力をバグらせた晩餐が終わり、僕たち一行は一階の奥にあるドローイングルームへと案内された。
そこもまた、エントランスやダイニングに負けず劣らずの、完璧に作り込まれたアンティーク空間だった。
部屋の壁面には床から天井まで届く巨大なイングリッシュオークの書棚が据え付けられ、緻密な虎斑模様の木肌に、革装丁の古い書物が隙間なく並べられている。部屋の中央には、使い込まれて鈍い光沢を放つ本革のチェスターフィールドソファが、石造りの重厚な暖炉を囲むように配置されていた。壁際に置かれた精巧な細工のウォールナット材の柱時計が、チク、タク、と落ち着いた音を刻み続けている。
暖炉の中では太い薪が赤々と燃え、パチリ、と時折爆ぜる音を立てていた。その温かな放射熱が、食後のコーヒーや紅茶、そして大人たちに振る舞われた琥珀色の食後酒の香りと混ざり合い、部屋全体をゆったりとした空気で満たしている。
しかし、その優雅な室内の空気とは裏腹に、窓の外の環境は急速に悪化しつつあった。
濃密な霧が立ち込めているだけでなく、ベルグラヴィアの山間部特有の冷たく強い風が吹き始めていたのだ。ヒュオオォォォッという気味の悪い風切り音が古い石造りの壁にぶつかり、背の高いランセット窓の木枠をガタガタと不吉なリズムで揺らし続けている。
「……それにしても、見事な調度品ですね。このソファの革の鞣し方一つとっても、現代の大量生産品には真似できない職人の技術が息づいています」
明宮先生が、コーヒーのカップを片手に、ソファの肘掛けを撫でながら感嘆の声を漏らした。
「ええ。ですが、少しばかり空調が心許ないですね。窓のサッシの隙間から、外の冷気がかなり入り込んできているようですね」
清瀬先生は、完璧な姿勢でソファに浅く腰掛けながら、少しだけ身震いをして首元を抑えた。
そんな大人たちの社交的な会話をよそに、僕たち生徒組はそれぞれのやり方でこの食後の時間をやり過ごしていた。
桐生院はエリートらしく、美しい所作でダージリンティーを嗜んでいる。鳴海と佐伯は、ソファの隅で何やら小声で(おそらく大浴場での僕に対する評価か何かを)話してはクスクスと笑い合っている。五味は完全にネットワークから遮断されたタブレット端末の黒い画面を未だに睨みつけ、指先で神経質にベゼルを叩き続けていた。
僕はといえば、ふかふかのソファに深く身を沈めながら、清瀬先生から言われた『大人たちの社交の場を学びなさい』という言葉に従い、嫌々ながらもこの談話室の人間模様を観察していた。
「オー! ボーイ! ドウシマシタ、そんなにしかめっ面をして! さっきのディナーでジャムと醤油のハーモニーに感動して、言葉を失ってしまったのデスネ! ハッハッハ!」
僕が周囲を観察しようとした矢先、どういうわけか僕のことをやたらと気に入っているらしい現地ガイドのミハイルが、蛍光ピンクのネクタイを揺らしながら体を隣のソファに沈めてきた。
「い、いえ……ただ、少し外の風の音が気になりまして……」
僕は引き攣った愛想笑いを浮かべ、適当にお茶を濁す。ミハイルの大声は、この静かで重厚な空間において完全にノイズでしかなかったが、彼にはそれを察知するセンサーが根本的に欠落しているらしい。
「心配アリマセンヨ! この館の石壁は、ベルグラヴィアの厳しい冬を何百年も耐え抜いてきたんデス! ちょっとやそっとの風で揺らぐようなヤワな造りじゃ——」
「ねえ、如月のお嬢様。さっきのディナーの席でははぐらかされちゃったけど、私、どうしてもあなたに聞きたいことがあるのよ」
ミハイルの大声を遮るように、如月さんの座る一人掛けのソファに、フリージャーナリストのシェリーがワイングラス片手に歩み寄ってきた。
彼女は真っ赤な唇を歪めて狡猾な笑みを浮かべると、小さな革張りの手帳とペンを取り出した。
「如月コンツェルンが、このベルグラヴィアの通信インフラの買収に動いているって噂。本当は知ってるんでしょ? 会長の孫娘だもの。ねえ、オフレコでいいから教えてよ。私、フリーのジャーナリストとして、このネタはどうしてもものにしたいの」
シェリーは如月さんのパーソナルスペースにずかずかと踏み込み、手帳を広げてペンを構えた。他人の秘密を暴き、それを金銭に換算することだけを目的とした、底意地の悪いハイエナのような眼光だ。
如月さんは、手にしていたアンティークのティーカップをソーサーの上に静かに置いた。カチャリ、と陶器の触れ合う冷たい音が鳴る。
彼女はアメジストのような紫の瞳をゆっくりと持ち上げ、シェリーの顔――ではなく、彼女の手元にある『手帳』と、足元の『靴』へと、物理的な視線のレーザーを突き刺した。
「……ジャーナリスト、と自称しておったな」
如月さんの声は、暖炉の火の温もりを一切反射しない、絶対零度の冷たさを帯びていた。
「だが、お主のその靴のソールの摩耗具合と、手帳の紙の歪みは、ジャーナリズムという高尚な理念とは程遠い、極めて下劣なルーツを証明しておるぞ」
「な、何よ急に……私の靴がどうしたって言うの?」
シェリーは怪訝な顔をして、自らの足元――高価なハイヒールへと視線を落とした。
「お主の履いているそのヒール。右足は小指側の側面だけが異常にすり減り、逆に左足は踵のヒール部分に極端な偏摩耗が生じておる。歩行の癖にしては非対称すぎる。これは、歩くことによって生じた摩耗ではない」
如月さんはソファに背を預けたまま、解剖学と生体力学の数式を読み上げるように淡々と語り始めた。
「それは、壁やドアに右耳をピタリと押し当て、息を殺して長時間の『立ち聞き』をする際、無意識に右足の側面に極端な体重を預け、左足の踵でバランスを取ろうとする特有の姿勢……盗聴者の生体力学的な歪みじゃ」
「……ッ!」
シェリーの顔色から、一瞬にして余裕が消え去った。
「さらに、お主が今広げているその手帳じゃ」
如月さんの視線が、シェリーの持つ手帳の紙面へと移動する。
「ページ全体が波打つように変形し、紙の繊維の結合が崩れておる。これは単なる経年劣化ではない。雨や霧が立ち込める劣悪な野外環境下において、他人の密会現場などに隠れて張り込み、極度の緊張と興奮状態による『過剰な手汗』を滲ませながら、急いでメモを取ったという物理的な痕跡じゃ」
如月さんの容赦のない鑑定が、シェリーの隠していた『三流パパラッチ』としての本性を、衆人環視の明るみへと引きずり出していく。
「お主の仕事は、真実を追求するジャーナリズムなどではない。他人の弱みやスキャンダルを盗み聞きし、張り込み、それを脅迫の材料にして小銭を稼ぐ、卑劣なゴシップ屋に過ぎぬ。その証拠が、お主の靴の底と、手帳の紙の繊維に克明に記録されておるのじゃ」
「あ、あんたねぇ……! いいがかりも大概にしなさいよ!」
シェリーは顔を真っ赤に紅潮させ、手帳を乱暴に閉じて声を荒げた。
「いいがかりではない。万物は嘘をつかぬ。……三流のパパラッチが、わしから金になる情報を引き出せるなどと自惚れるな。不快じゃ。二度とわしの視界に入るでない」
如月さんは完全に興味を失ったように目を伏せ、再びティーカップを手に取った。
ぐうの音も出ないほど完璧に物理的証拠で論破されたシェリーは、屈辱に唇を震わせ、「……覚えてなさいよ」と捨て台詞を吐いて、足早に談話室の奥へと逃げるように去っていった。
(す、すごい……。ただの目視だけで相手の隠された素性を丸裸にしちゃったよ……)
僕は隣でその圧倒的な論破劇を見届けながら、如月さんの物理的観察眼の恐ろしさに改めて戦慄していた。彼女の前では、どんな嘘や誤魔化しも、物理的なバグとして検出されてしまうのだ。
「いやー、すげえな! あの女をあそこまで黙らせるとは思わなかったぜ!」
少し離れたソファから、ジェームスが下品な笑い声を上げて身を乗り出してきた。
「俺、君のような強気な子、嫌いじゃないよ。ねえ、そこのお嬢さん、俺と……」
ジェームスが如月さんにウィンクを飛ばそうとした、その時だった。
バツンッ!!
まるで、空間そのものを巨大なハサミで物理的に切断したかのような、重く鋭い破裂音が談話室内に響き渡った。
次の瞬間、天井のシャンデリアも、壁のブラケットライトも、すべての照明が一瞬にしてその光を完全に失った。
さらに不運なことに、強風によって煙突から逆流した一陣の冷たい突風が、暖炉の炎を激しく煽り、ほとんどの薪の火をフッと吹き消してしまったのだ。
残ったのは、わずかに赤く燻る熾火の、頼りないほどの微かな光だけだった。
「えっ……!?」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
完全なる暗闇、ブラックアウトだ。
月見坂市のように街灯の光が窓から差し込むこともない、深い森に囲まれた洋館の夜。視界を覆い尽くす漆黒の闇が、物理的な質量を持って僕の全身を押し潰してくるような感覚に襲われる。
「キャアアッ! な、なに!?」
「停電……!? 嘘でしょ!」
佐伯と鳴海が悲鳴を上げ、ソファの上で身を寄せ合う音が聞こえた。
僕の心臓が、早鐘のように激しく打ち始めた。
僕たちが暮らす月見坂市は、完璧な次世代送電網によって管理された無停電都市だ。雷が落ちようが台風が来ようが、〇・一秒の瞬断すら起こらない。僕の人生において、『建物すべての電気が消える』という経験は、これが初めてだった。
視覚情報が急激に奪われるということが、これほどまでに人間の本能的な恐怖を呼び覚ますものだとは知らなかった。交感神経が暴走し、背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
「……あり得ない! 自家発電のシステムエラーか!?」
暗闇の中で、五味鉄平のパニックに満ちた叫び声が響いた。
「電圧の降下によるフリッカ現象ではない! 完全に電流が遮断されている! どこの馬鹿だ、こんな脆弱なインフラの館に我々を連れてきたのは! ブレーカーが物理的に落ちたのか、それとも配線のショートか! 客観的データが何一つ取得できない!」
データとインフラに完全に依存しきっていた五味は、暗闇という非論理的な状況に耐えきれず、完全にヒステリーを起こしていた。
「五味くん、落ち着きなさい! 皆、その場から動かないで!」
清瀬先生の凛とした声が、闇を切り裂くように響く。
「明宮先生、生徒たちの安全確保を。私は……」
「皆様、どうかそのままで!」
突然、談話室の入り口のドアが開き、執事のサモンがランタンの灯りを揺らしながら駆け込んできた。
「申し訳ございません。どうやら、古い配電盤がこの強風のせいでショートを起こしてしまったようです。すぐに地下室へ向かい、予備電源を復旧させてまいります。それまで、決してこの部屋から出ず、この場で……ああ、暖炉の火も消えかかっておりますね。すぐに戻りますので、どうかお待ちください!」
サモンは早口でそう告げると、足早に廊下へと引き返していった。バタン、と重いドアが閉まる音が響き、再びランタンの光すら失われた完全な暗闇が訪れる。
「マジかよ、真っ暗じゃねえか。……おい、そっちの可愛いお嬢ちゃんたち、怖かったら俺のそばにおいでよ」
ジェームスが、この状況に及んでまだチャラい声を上げ、ソファから立ち上がる気配がした。
「い、いやっ……! 暗いのは、いやっ……!」
メアリーの過呼吸のような、怯え切った声が聞こえる。
誰かが動く衣擦れの音。テーブルに置かれたグラスがカチャンと倒れる音。外の強風が窓ガラスをガタガタと揺らす音。
視覚が失われたことで、周囲の『音』だけが異常に増幅され、情報の渦となって僕の脳を直接殴りつけてくる。誰がどこで何をしているのか、全く把握できない。
「き、如月さん……! どうしよう、何も見えません!」
僕は恐怖のあまり、隣のソファにいるはずの如月さんに助けを求めるように声を震わせた。
「サクタロウ。動くな。そして、黙れ」
暗闇の中から返ってきた如月さんの声は、信じられないほど冷静で、そして氷のように冷たかった。
パニックに陥る僕の情動を、一言で強制的にシャットダウンさせるような圧倒的な声。
「人間は視覚情報の八割に依存して世界を認識している。それが突然奪われれば、脳がエラーを起こし、パニックになるのは当然の生理反応じゃ。だが、光が失われても、そこにある『物理的な事象』は消えてはいない」
如月さんの声は、暖炉の燻る微かな赤光すら届かない真の暗闇の中から、真っ直ぐに僕の鼓膜へと届いた。
「己の視覚という脆弱なセンサーを捨てよ。そして、この暗闇の中で鳴る『物理的な音のルーツ』だけを追え。誰がどこへ向かって歩いているか、その足音の摩擦係数と反響のベクトルでトラッキングするのじゃ」
音のルーツを追え。
僕は如月さんの言葉に従い、目を固く閉じ、全神経を聴覚へと集中させた。
風の音の向こう側に、別の音が浮かび上がってくる。
コツン、コツン、という硬い靴音。
(……ジェームスだ。革靴の硬いヒールが、大理石の床を叩く音。女子の方へ近づこうとしているのか?)
カツカツカツッ! という、不規則で慌ただしいヒールの音。
(……メアリーだ。パニックになって、走り出している。ドアが開く音……廊下に出たのか!?)
「ちょっと、メアリー! どこ行くのよ! 暗いんだから危ないわよ!」
シェリーの焦った声が、少し遠くから聞こえた。彼女もメアリーを追って廊下へ出たようだ。
そして、ギシッ、と。
僕たちとは反対側の、窓際の方で何かが重く軋む音。
(……誰だ? 誰かが、窓の方へ動いた?)
情報が錯綜する。
僕は暗闇の中で必死に音をマッピングしようとしていたが、外の強風が窓を叩く音が邪魔をして、正確な位置関係が掴めなくなりかけていた。
永遠にも思えるような、暗闇の中の数十秒間。
やがて、その張り詰めた沈黙と混乱を、最も恐ろしい形で引き裂く音が響き渡った。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
談話室の外。
廊下のずっと奥の方から、空気を物理的に切り裂くような、女の甲高い絶叫が響き渡ったのだ。
メアリーの声だ。ただのパニックではない。何らかの圧倒的な恐怖、あるいは『死』に直面した人間の、魂の底からの悲鳴。
直後。
『ドゴォォォンッ!!』 という、何か重い質量――例えば、人間の肉体の塊――が、硬い床に叩きつけられるような鈍く暴力的な衝撃音が響いた。
さらにその直後。
『ガシャァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!』という、巨大なガラスが派手に砕け散り、無数の鋭い破片が石の床にバラバラと降り注ぐ、鼓膜を突き刺すような破壊音が立て続けに鳴り響いた。
「ヒィッ……!」
僕は恐怖のあまり、ソファの上で完全に身をすくめて両耳を塞いだ。佐伯と鳴海の悲鳴が重なり、桐生院が「なんだ今の音は!」と叫ぶ声が聞こえる。五味はヒィヒィと引き攣った呼吸を繰り返している。
チリ一つなかった完璧な洋館の空気が、一瞬にして暴力と恐怖、そして死の予感によって完全に支配されたのだ。
そして、空気の対流に乗って、廊下側の開け放たれたドアから、微かな匂いが談話室へと流れ込んできた。
古いイングリッシュオークの香りでも、琥珀色のディジェスティフの匂いでもない。
それは、酸化した鉄のような、吐き気を催すほど生々しく、そして暴力的な『血の匂い』だった。
「……起こったな。物理的限界を超えた、不純物の爆発が」
僕の隣の暗闇の中で、如月さんだけが、その血の匂いを嗅ぎ取りながら、静かに、そして冷酷な宣告の言葉を口にしていた。
僕は、彼女の冷徹な知性が、すでにこの暗闇の中で『見えない何か』を解剖し始めているのを、肌で確かに感じていた。




