第2話『晩餐』 ~section3:美食の解体と、食卓の不協和音~
地獄の釜茹でか拷問器具の展示室かという狂気の大浴場から逃げ出した僕は、冷え切った廊下を小走りで抜け、自室に戻って震える手で着替えを済ませた。
この由緒正しき『静寂の館』でのディナーには、当然ながら厳格なドレスコードが設定されている。いくら高校生の特別海外研修とはいえ、晩餐の席にカジュアルな服装で臨むわけにはいかないのだ。
僕は日本を出発する前、月見坂市の量販店で親に買ってもらった、無難で安価なダークスーツに袖を通し、ネクタイを締め直した。鏡に映る自分の姿は、どう贔屓目に見ても『スーツに着られている感』が満載の、ただの小市民的な高校生だ。エリートの桐生院などは、おそらく自前の高級なオーダーメイドのタキシードでも着こなしてくるのだろう。僕は己の圧倒的なステータス格差に深いため息をつきながら、指定された一階のダイニングルームへと向かった。
ダイニングルームは、エイミー夫人のトンチキな日本愛の浸食を奇跡的に免れた、中世ヨーロッパの貴族社会そのものを体現する完璧な空間だった。
天井からは、エントランスホールにあったものよりさらに巨大で複雑な意匠を持つ、クリスタルガラスと真鍮のシャンデリアが吊り下げられている。光源は白熱電球と本物の蝋燭が入り交じり、揺らめく暖かな光が部屋全体を重厚に照らし出していた。
部屋の中央に鎮座するのは、樹齢何百年という巨大なマホガニーの一枚板から削り出された長大なダイニングテーブルだ。その表面は鏡のように磨き上げられ、天井のシャンデリアを歪みなく反射している。テーブルの上には、雪のように真っ白で折り目一つない最高級リネンのテーブルクロスが敷かれ、純銀製のカトラリーと、繊細なカットが施されたバカラのワイングラスが、ミリ単位の狂いもなく幾何学的な正確さで並べられていた。
僕たち如月学園のメンバーは、長大なテーブルの片側に一列に並んで着席するように促された。
部屋の入り口に近い側から順に、明宮先生、僕、鳴海亜衣、五味鉄平、佐伯陽菜、桐生院誠、如月瑠璃、そして一番奥の端に清瀬先生という並びになった。
如月さんは、先ほどのトラベルドレスから、ディナー用の漆黒のベルベット生地のワンピースへと着替えていた。過剰な装飾はないが、その洗練されたシルエットと、極上の陶器のような白い肌のコントラストが、この重厚な空間に完璧に調和している。アメジストのような美しい紫の瞳は、暖炉の火を反射して静かな知性の光を放っていた。
桐生院は予想通り、一切のシワがない完璧な仕立てのタキシードを着こなし、五味もまた、機能的でありながらも体にフィットした上質なスリーピーススーツを着用している。佐伯は持ち前の豊満なプロポーションを少しだけ強調するような淡いピンクのパーティードレスを、鳴海はアスリート体型に似合うスタイリッシュなパンツドレスを見事に着こなしていた。
そんな僕たちの向かい側、巨大なマホガニーのテーブルを挟んだ対面の列には、この館に滞在している他の宿泊客たちと、そしてなぜか現地ガイドのミハイルが着席していた。
こちらも入り口側から順に、ミハイル、女性が二人、そしてチャラ男が一人という並びだ。
「オー! ボーイ! そのスーツ、なかなかキマってマスヨ! ワタシのこの伝統的な刺繍の施されたジャケットと、蛍光ピンクのネクタイの組み合わせには敵いマセンがネ! ハッハッハ!」
僕の斜め向かいに座るミハイルが、相変わらず声がでかく、そして絶望的に空気を読まないテンションで話しかけてきた。厳格な洋館のダイニングルームにおいて、彼のその奇抜なファッションとノリは完全に浮き上がり、空間の品位を著しく下げている。
「あ、ありがとうございます……」
僕は引き攣った愛想笑いを浮かべて軽く会釈した。隣の明宮先生が、「食事の席ではもう少し声のトーンを落としていただけますか」と冷ややかな視線でミハイルを牽制している。
さらに、ミハイルの横に並んで座っている三人の宿泊客たちも、それぞれに強烈な個性を放っていた。
「やあ、君たち日本の高校生なんだって? 俺はジェームス・ロイ。一人旅でベルグラヴィアに来たんだ」
向かい側の列の奥側、明宮先生や如月さんの正面あたりに座っている若い男が、気安くウインクを飛ばしてきた。十代後半とおぼしき彼は、細身のスーツをだらしなく着崩し、首元にはシルバーのアクセサリーをジャラジャラとぶら下げている。いわゆる『チャラい』という言葉がそのまま服を着て歩いているような、軽薄な空気を纏う旅行客だ。
「いやー、こんな堅苦しい洋館、俺にはちょっと息が詰まるけど……そっちの可愛いお嬢さんたちが一緒なら、退屈せずに済みそうだね。特にそこの君、すっごいボリュームで最高じゃん」
ジェームスは、テーブル越しに佐伯の胸元へあからさまにいやらしい視線を向けた。
「その隣のスポーティな子も、なかなか勝気そうな顔しててそそるね」
次いで、鳴海の顔を値踏みするように舐め回す。桐生院が不快そうに眉をひそめ、鳴海は「は? ぶっ飛ばすぞ」と小さな声で凄んでいる。
「……でも、一番の極上は、俺の正面に座ってる黒髪のお嬢さんだね。どう? 綺麗な瞳してるじゃない。後で俺と二人で抜け出さない?」
女好きのチャラ男の標的が、ついには絶世の美貌を持つ如月さんへと向けられた。
「……」
当然ながら、如月さんはジェームスのナンパなど完全に無視である。彼女のアメジストの瞳は、目の前に並べられた純銀のカトラリーの酸化具合を観察することにしか向けられていない。
「ジェームスさん。彼女たちは私の大切な生徒です。初対面でそのような羽目を外した発言は、教育者として看過できません。お控えいただきたい」
如月さんの隣に座る清瀬先生が、眼鏡の奥から鋭く冷たい目に明確な警告の色を滲ませて、ピシャリと釘を刺した。
「おっと、先生のガードが固いね。ジョークだよジョーク」
ジェームスは悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
「ちょっと、ジェームスさんとか言ったかしら。初対面でそんなに女の子をジロジロ見るなんて、エスコートの欠片もないわね。私たちまであなたと同類だと思われたくないわ」
ジェームスの軽薄な態度を冷たく一蹴したのは、ミハイルの隣に座る二十代前半の女性だった。
彼女はシェリー・バーンと名乗り、体の線が出るタイトなドレスを着こなしている。明るく社交的な声色だが、その瞳の奥には、どこか他人の懐を値踏みするような、狡猾で計算高い光が宿っていた。
「……ねえメアリー、あなたもそう思うでしょ?」
シェリーが同意を求めたのは、彼女とジェームスの間に挟まれるようにして座っている、もう一人の二十代前半の女性だった。
「あ、あの……私、そういうのは、あまり……」
メアリー・ノアと名乗った彼女は、極度の人見知りなのか、ジェームスの隣に座っていることすら苦痛であるかのように身を縮こまらせていた。彼女はノーメイクに近い青白い顔をしており、手元の真っ白なナプキンを神経質にいじり続けている。時折、ビクッと肩を震わせては、窓の外の暗闇や、部屋の隅の影を怯えたように見つめていた。
「ごめんなさいね、この子、今日が誕生日でバースデートリップなんだけど、すごく人見知りで。私が企画して無理やり連れ出したのよ」
シェリーはメアリーの肩をポンと叩きながら、僕たちに向けてそう説明した。
「それにしても……そちらの美しい黒髪のお嬢さん、如月学園の生徒ってことは、もしかしてあの『如月コンツェルン』のご令嬢かしら?」
シェリーは身を乗り出し、真っ赤な口紅を引いた唇を歪めて、如月さんに探りを入れてきた。
「私、実はフリーのジャーナリストをやっていてね。最近、如月コンツェルンがベルグラヴィアの通信インフラ事業に大規模な投資をするっていう噂を耳にしたんだけど……何か、面白いお話、聞かせてもらえないかしら?」
ゴシップ記者としての本性を露わにし、あからさまな情報収集を試みるシェリー。
「……」
如月さんはその問いかけに対しても、視線を向けることすらせず、冷たい沈黙で完全に無視を決め込んでいた。彼女にとって、経済のゴシップや他人の懐事情など、最も興味のない情報の最下層に位置するものだからだ。
「ちょっと、無視することないじゃない。これだから温室育ちのお嬢様は……」
シェリーが不快そうに鼻を鳴らす。
「シェリーさん、生徒の個人的な背景に関する質問はお控えください。ここはあくまで研修の場です」
今度は清瀬先生が、絶対零度の声でシェリーの追及を物理的に遮断した。
「フン、お堅いこと。通信インフラなんて、今この館じゃ完全に死んでるのにね」
シェリーはつまらなそうにワイングラスを弄った。その言葉に反応したのか、僕の隣に座る五味が「……その通りだ。電波が届かないのは技術的怠慢に他ならない。客観的データにアクセスできないこの状況は、極めて非合理的だ」と、誰にともなくブツブツと文句を言い始めている。
(……最悪だ。なんだこのメンバーは)
僕はテーブルの下でギュッと拳を握りしめた。
軽薄で女子にちょっかいをかけるチャラ男のジェームス、怯えきって会話が成立しないメアリー、そして令嬢から特ダネを引き出そうと狙うゴシップ記者のシェリー。おまけに、大声で笑い続ける蛍光ピンクネクタイのミハイルと、電波の死に苛立つ五味。
僕は決して自分から好んで目立ちたいわけでも、ツッコミを入れたいわけでもない。ただ平穏に、波風を立てずに生きていきたいだけの小市民だ。しかし、これほどまでにツッコミどころと不協和音が満載の人間たちが一つのテーブルに集められてしまえば、僕の脳内は異常事態に対するアラートを鳴らし続け、心の中でツッコまざるを得なくなってしまうのだ。胃の奥が嫌な音を立てて軋み始めている。
「皆様、お待たせいたしました」
重苦しい空気を断ち切るように、ダイニングルームの奥にあるスイングドアが開き、エントランスで僕たちを出迎えたオーナーのグランバールと、愛猫サクラを抱いたエイミー夫人が現れた。二人はテーブルの一番奥、主人夫婦のために用意された席に並んで腰を下ろした。
そして、彼らの後ろから、執事のサモンとともに、純白のコックコートを身に纏った長身の男が姿を現した。この館の厨房を預かる料理長ようだ。
彼は五十代前半で、鋭い鷲鼻と、神経質そうに整えられた口髭が特徴的な男だった。一流レストランのシェフと言われても疑わないほどの洗練された佇まいだが、その顔色はどこか土気色に沈んでおり、目の奥には三日三晩徹夜したかのような、異様な疲労感と狂気が宿っているように見えた。
「本日のメニューは、当館の女主人であるエイミー夫人の強いご要望により、日本の皆様への歓迎の意を込めた『極上の和洋折衷料理』をご用意いたしました」
料理長が、ひきつったような笑顔──というより、顔面神経痛のような痙攣を浮かべながらメニューを告げた。
その瞬間、僕の脳内で再び嫌な警報が鳴り響いた。エイミー夫人の『ご要望』。エントランスの焼肉定食掛け軸や、お椀に入った緑茶の惨劇を思い出す。嫌な予感しかしない。
「ええ、私がローレルに特別にお願いしたのよ!」
エイミー夫人が立ち上がり、満面の笑みでワイングラスを高く掲げた。
「はるばる東洋から来てくださった若き客人たちに、我が洋館の伝統と、日本の素晴らしい食文化の融合を味わっていただきたいの! さあ、皆様! 日本の伝統的な食事の開始を告げる、あの神聖な言葉をご唱和ください! ゴチソウサマデシタァ!」
(違う! 食い終わってどうする! それは食後の挨拶だ! ここは『いただきます』か『乾杯』だろうが!)
異常事態に、僕の脳内ツッコミが音速を超えた。しかし、それを口に出して女主人の機嫌を損ね、場の空気を凍らせる勇気は僕にはない。僕はただ引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
ジェームスやシェリーは「ゴチソーサマー?」と首を傾げながらもグラスを掲げている。グランバール卿は深くため息をつき、こめかみを押さえながら「……乾杯」とだけ低く呟き、正式に晩餐の開始を告げた。
「さあ、お召し上がりください」
サモンとメイドたちが、僕たちの前に置かれた巨大な皿を覆っていた銀の蓋を一斉に開け放つ。
芳醇な肉の香りがダイニングに広がった。
「メインディッシュは、『最高級アンガス牛のローストビーフ、ストロベリージャムと熟成醤油のレダクションソース添え』。そして付け合わせとして、『トリュフ香るマッシュポテトと仔羊肉のローストで作られた軍艦巻き』でございます」
皿の上には、中心部が見事なロゼ色に火入れされた分厚いローストビーフが鎮座し、その横には、海苔の代わりに薄切りの仔羊肉で巻かれ、上に黒トリュフが乗せられたマッシュポテトの塊が添えられている。見た目だけは、ミシュランの星を獲得したレストランのように、芸術的で美しい。
だが、その『概念』は完全に狂っていた。
(ジャムと醤油のソース!? マッシュポテトと羊肉の寿司!? いや、それはもう寿司じゃない! ただの羊肉巻きポテトだ! エイミー夫人の『日本=醤油と寿司』という極端すぎる安直なイメージを、西洋の料理に無理やりフュージョンさせただけじゃないか!)
僕の理性は崩壊寸前だった。ローストビーフに甘いソースを合わせる手法はフレンチにも存在するが、そこに強烈な塩味と発酵臭を持つ日本の『熟成醤油』をぶち込むなど、味覚のテロ行為に等しい。しかも、ただでさえクセの強い仔羊の肉でマッシュポテトを巻いて寿司と言い張るその精神性。このローレルという料理長は、エイミー夫人の無茶苦茶なオーダーに応えるために、料理人としての魂を悪魔に売り渡してしまったのだろうか。
「なんだ、この悪趣味な料理は。グランバール卿、あなたの館では豚の餌を客に出すのかい?」
ジェームスが、皿を見るなりあからさまに顔をしかめてフォークをテーブルに投げ出した。
「申し訳ありませんが、私、羊の肉の匂いは少し苦手で……」
メアリーも青ざめた顔で小さく首を横に振る。
他の生徒たちも、エリートである桐生院でさえ、手元のナイフとフォークを持ったまま完全に硬直していた。誰もが、この狂気の料理に手を付けることを本能的に拒絶しているのだ。
そんな中、空気を全く読まない――いや、対象の成分を分析することしか考えていない人物が一人だけいた。
「ほう。なるほどな」
如月さんだ。
彼女は純銀製のナイフとフォークを手に取ると、一切の躊躇なく、その分厚いローストビーフに刃を入れた。
スッ、と。
ナイフが吸い込まれるように肉の繊維を断ち切る。そのあまりにも滑らかな切れ味と、肉の異様な柔らかさに、僕は思わず目を丸くした。
如月さんは切り分けた肉の断面を顔の高さまで持ち上げ、じっと観察する。彼女は料理をただ『味わおう』としているのではない。解剖台に乗せられた未知の生体サンプルを観察するように、肉の繊維の収縮状態と、そこに絡みつくソースの粘度を物理的に測定しているのだ。
そして、彼女はその肉片を口に運び、ゆっくりと咀嚼し、静かに目を閉じた。
ダイニングルームの全員が、息を呑んで彼女の反応を待った。
毒を食らったように倒れるのか、それとも顔をしかめて吐き出すのか。
数秒後、如月さんはゆっくりと目を開き、厨房の入り口に立っている料理長ローレルへと、アメジストのような紫の瞳を真っ直ぐに向けた。
「……見事じゃな。お主、これほどの絶望的な制約の中で、よくぞこの味覚の均衡を成立させたものだ」
如月さんの口から出たのは、予想外の『称賛』だった。
「な、何を言っているんだ君は。ジャムと醤油だぞ? そんなものが食えるはずが……」
五味が横から口を挟もうとしたが、如月さんは冷ややかな視線でそれを制し、淡々とした、しかし有無を言わせぬ論理の刃をローレルに向けて放ち始めた。
「この館の現在地の標高は、およそ千五百メートル。気圧は約八百五十ヘクトパスカル前後。この物理環境下において、水の沸点は摂氏百度ではなく、摂氏九十五度付近まで低下する。通常の調理法で肉を煮込めば、タンパク質が十分に熱変性する前に水分が蒸発し、パサパサの硬い肉になってしまうはずじゃ」
如月さんはフォークの先で、皿に残った肉の断面を指し示した。
「しかし、このローストビーフの中心温度は見事なまでに均一な摂氏五十八度を保ち、極めて柔らかい。これは単なる低温調理ではないな。お主は調理の事前段階で、肉の表面に炭酸水素ナトリウム……つまり『重曹』をすり込み、そのアルカリ性によって肉のタンパク質のペプチド結合を強制的に分解し、極限まで肉質を柔らかくする化学的処理を施しておるな?」
「……ッ!」
ローレルの顔色が変わった。驚愕に見開かれた目が、如月さんを凝視している。
「そして、この狂気のソースじゃ」
如月さんは、肉に添えられた赤黒いソースをナイフの腹で掬い上げた。
「イチゴジャムの主成分であるペクチンと大量のスクロース。そこに、熟成醤油の強烈な塩化ナトリウムとアミノ酸。これらをそのまま混ぜ合わせれば、浸透圧の違いによって肉の水分が根こそぎ奪われ、ただの塩辛く甘ったるいゴムの塊が完成する。……だが、このソースのpH値は、およそ四・二の弱酸性に完璧にコントロールされておる」
如月さんの声のトーンが、一段階深く、分析の核心へと迫っていく。
「お主は、ジャムの暴力的な甘味を相殺し、かつ醤油の塩味に奥行きを持たせるために、通常の海塩ではなく、このベルグラヴィアの鉱山で採れる特有の『岩塩』を使用したな? あの岩塩には、微量の硫酸マグネシウムと硫酸カルシウムが不純物として含まれており、それが特有の鋭い渋みと苦味を生み出す。その不純物のミネラル成分が、ジャムの糖分と醤油のアミノ酸と奇跡的な結合を果たし、相反する味覚のベクトルを、たった一点の『極上の旨味』へと強制的に収束させておるのじゃ」
ダイニングルームが、水を打ったように静まり返った。
ジェームスも、シェリーも、五味も桐生院も、誰もが言葉を失い、ただ如月さんの口から紡がれる化学の数式のような長台詞に圧倒されていた。
「エイミー夫人から『日本の醤油とジャムを混ぜろ』『マッシュポテトと羊肉でスシを作れ』という、料理人に対する冒涜としか思えない無茶苦茶なオーダーを受けたお主の絶望が、このソースの粘度から痛いほどに伝わってくる。だがお主は、料理人としてのプライドを賭け、己の持つすべての化学的知識と技術を総動員して、この狂った数式に完璧な『正解』を導き出したのじゃ」
如月さんはナイフとフォークを皿の上に静かに置き、ローレルを真っ直ぐに見据えた。
「これはもはや料理ではない。絶望の淵に立たされた男が、血と汗を流しながら完成させた、高度な化学方程式の証明じゃ。……お主のその執念と技術のルーツ、しかとこの舌で観察させてもらったぞ、料理長」
沈黙。
長い、長い沈黙の後。
「……うぅっ……うおおおおおおおぉぉぉぉん!!」
突然、厨房の入り口に立っていた料理長ローレルが、顔を両手で覆い、その場に泣き崩れた。
大の大人が、しかも一流の出立ちをしたシェフが、子供のように声を上げて号泣し始めたのだ。
「ローレル!?」
サモンが慌てて駆け寄るが、ローレルは首を横に振り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を如月さんに向けた。
「あ、あなたという人は……! そうです、奥様からあのオーダーを受けた時、私は厨房で三日三晩、一睡もせずにソースの調合を繰り返しました! ジャムと醤油! 狂っている! 何度も何度も失敗し、もうこの館を辞めてしまおうかと絶望しました! だが……だが、あなたが、私の苦労を……岩塩のミネラル分まで、たった一口で完璧に理解してくださった……!」
ローレルは床に膝をついたまま、如月さんに向かって深く、深く頭を下げた。
「あなたこそ、真の美食家だ! 私の料理人としての魂は、今、あなたという最高の理解者を得て救われました!」
彼は涙を流しながら、如月さんに対して深い敬意と、そして料理人としての強烈なライバル心を抱いたようだった。
「大袈裟な男じゃ。わしはただ、そこにある事実を物理的に読み上げただけじゃぞ」
如月さんは全く興味がなさそうに冷たく言い放ったが、ローレルの耳にはもう届いていないようだった。
「あの、如月さん。それってつまり……美味しい、んですか?」
僕が恐る恐る尋ねると、如月さんは少しだけ呆れたように息を吐いた。
「愚鈍な。これだけの化学的均衡が保たれた有機物の集合体が、不味いわけがなかろう。己の舌で確かめてみるがよい」
僕は恐る恐るナイフを取り、ローストビーフを切り分け、ジャムと醤油のソースをたっぷりつけて口に運んだ。
……驚愕した。
頭の中では『イチゴジャムと醤油』という狂った概念が警報を鳴らしているのに、舌の上で弾けるのは、極上の旨味と、深いコク、そして肉の完璧な柔らかさだった。ジャムの甘みは嫌味がなく、醤油の塩気と岩塩の微かな苦味が、肉の旨味を何倍にも引き上げている。
「うまっ……! なにこれ、めちゃくちゃ美味しい!」
「信じられない……本当に、ただのゲテモノじゃないわ」
僕の声に釣られて、鳴海や佐伯、そして桐生院たちも次々と料理に口をつけ、その常軌を逸した美味しさに目を見開いていた。文句を言っていたジェームスたち大人組も、悔しそうにしながらも、無言で肉を口に運び続けている。
トンチキな概念と、完璧な技術。
僕の味覚と脳の処理は完全にバグを起こしていたが、とにかくこの料理がローレルの血の滲むような努力の結晶であることだけは理解できた。
「皆様、素晴らしいお食事をお楽しみいただけたようで何よりです」
食事が終わる頃、サモンが一歩前に出て、恭しく一礼した。
「これより、隣のドローイングルームにて、食後のコーヒーと紅茶、そして食後酒をご用意しております。暖炉の火も焚いておりますので、どうかおくつろぎくださいませ」
(……やっと終わった。もう無理。早く部屋に帰って寝たい)
僕のライフは、狂気の風呂と狂気のディナー、そしてアクの強い大人たちとの同席によって完全にゼロになっていた。
しかし、宿泊客としての体裁上、すぐに部屋に引き上げるわけにもいかないらしい。清瀬先生の「生徒諸君も、少しだけ大人たちの社交の場を学びなさい」という無言の圧力を受け、僕たちは重い足取りで、ダイニングルームから隣の談話室へと移動を促されるのだった。
これが、これから起こる凄惨な事件の前の、最後の『平和な時間』になるとも知らずに。




