下克上の作法
エルヴィンからの密書が届いたのは、ヴォルフ軍が撤退してから三週間後のことだった。
「準備が整いました。男爵の家臣十二名のうち七名が同意。城内の警備兵の過半数を掌握。領民への根回しも完了。決行の合図を待ちます」
ノブナは密書を読み終え、静かに頷いた。
「見事だ。一月とかからなかったか」
「男爵への不満が、予想以上に深かったのでしょう」ヘルムートが答えた。「エルヴィンの根回しが巧みだったこともありますが、それ以上に、きっかけさえあれば崩れる状態だったということです」
「熟れた果実は、自ら落ちる。だがそれは、内側から腐っていたということでもある」
ノブナはフリードリヒとガルドを呼び集め、軍議を開いた。
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「シュタインベルクへ進軍する。だが、戦闘は最小限に留める」
地図を広げたノブナの第一声に、フリードリヒが片眉を上げた。
「最小限、ですか。城攻めとなれば、どうしても――」
「城は攻めぬ。内側から開く」
ノブナは地図のシュタインベルク城を指差した。
「エルヴィンが内応を手配している。城門は内側から開かれる。我々は城下町を押さえるだけでよい」
「なるほど。だが、男爵の直衛兵が抵抗する可能性は」
「ある。だが、エルヴィンの掌握した兵が城内で男爵を包囲する。我々は外から退路を断つ。挟撃の形になる」
フリードリヒは腕を組んで考え込んだ。
「……合理的な作戦です。だが、ノブナ様。一つだけ申し上げたい」
「何だ」
「これは、下克上です」
大広間に静寂が落ちた。
「家臣が主君を裏切り、外敵と通じて城を明け渡す。騎士の道義からすれば、これ以上の不忠はありません。我々がこれを是とすれば、いつか我が家臣も同じことをするかもしれない」
重い言葉だった。フリードリヒは忠義の人だ。オーデンヴァルト家に三十年仕え、ノブナに二度頭を下げた。その彼だからこそ、忠義の破壊を簡単に肯定できない。
ノブナは老騎士を見つめた。
「フリードリヒ。その懸念はもっともだ。だが、一つ問いたい」
「はい」
「忠義とは、何に対するものだ。主君個人に対するものか。それとも、その主君が治める領地と民に対するものか」
「……」
「シュタインベルクの男爵は、民を苦しめ、家臣を使い潰している。エルヴィンが裏切るのは、主君の暴政から民を救うためだ。もしそれが不忠だというなら、暴政に加担し続けることは忠義なのか」
フリードリヒは長い沈黙の後、深くため息をついた。
「……難しいことを仰る。だが、否定はできません」
「下克上には作法がある」
ノブナは立ち上がった。
「力で奪うだけでは、ただの簒奪だ。だが、民のために、秩序のために、より良い統治のために主君を替える。それは――革命だ。必要なのは、大義と覚悟。そしてその後の統治で、正しさを証明すること」
フリードリヒは静かに頷いた。
「わかりました。であれば、この老骨にできることを。攻略後の治安維持にあたらせていただきたい。混乱を最小限に抑えます」
「頼んだぞ、フリードリヒ」
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翌朝。ノブナは千五百の兵を率いてシュタインベルクへ向かった。
フリードリヒの騎兵隊が先行し、街道の安全を確保する。ガルドは兵站と工兵を担当し、万一の城攻めに備えた道具も運んだ。ヘルムートは本陣でノブナの傍に控える。
行軍は速やかだった。シュタインベルク領の国境を越えても、抵抗はなかった。国境の警備兵の大半がエルヴィンに掌握されていたからだ。
城下町に到着した時、異変はすでに起きていた。
後にエルヴィンから聞いた話では、決行の直前、男爵ディートリヒが不審を嗅ぎつけかけたという。近衛の兵が何人か持ち場を離れているのを見咎め、「エルヴィンはどこだ」と怒鳴った。あと半刻発覚が早ければ、城内は血の海になっていただろう。
城の上に、シュタインベルク家の旗ではなく、白旗が掲げられている。
「エルヴィンが動いたか」
ノブナが呟いた瞬間、城門が内側から開いた。
現れたのは、黒髪の青年だった。甲冑に身を包んだエルヴィンが、厳しい表情で城門の前に立っている。その背後には、武装を解いた兵士たちが整列していた。
「ノブナ様。シュタインベルク城、お引き渡しいたします」
「状況は」
「男爵ディートリヒは城内で拘束しました。直衛兵二十名が抵抗しましたが、死者は出ておりません。すべて武装解除させました」
「見事だ。流血なし、か」
「エルヴィン殿のお約束通りです」
ノブナは馬を降り、エルヴィンの前に立った。
「エルヴィン・フォン・シュタインベルク。そなたの覚悟と手腕に敬意を表する」
エルヴィンは片膝をついた。
「すべては、あなたが目指す世界のためです」
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シュタインベルク城の大広間。
鎖に繋がれた男爵ディートリヒが、ノブナの前に引き据えられた。
四十代の大柄な男。かつては威風堂々としていたのだろうが、今は怒りと恐怖で顔が歪んでいる。
「き、貴様……エルヴィン、この裏切り者めが! 恩を仇で返しおって!」
エルヴィンは無言で男爵を見下ろした。その目に迷いはなかったが、痛みはあった。
「恩、ですか。私が仕えた十年の間に、あなたは何をしましたか。民から搾り取り、諫言する者を罰し、才ある者を遠ざけた。私の忠義を、あなたは一度でも報いてくれましたか」
「黙れ! 家臣が主君に逆らうなど――」
「黙るのはそなただ」
ノブナの一言が、男爵の怒声を断ち切った。
紅い瞳が、冷たく男爵を見据える。
「ディートリヒ・フォン・シュタインベルク。そなたの統治は終わった。領民を苦しめ、才を潰し、己の欲のみで領地を食い潰した。そなたに統治者の資格はない」
「こ、殺すのか……」
「殺さぬ」
男爵が目を瞠った。
「命は取らぬ。ただし、追放する。この領地から出よ。二度と戻るな。路銀だけは持たせてやる」
「追放だと……侮辱だ! いっそ殺せ!」
「侮辱ではない。慈悲だ」
ノブナの声は静かだったが、有無を言わせぬ重みがあった。
「そなたが殺されるのは簡単だ。だがそれでは、次に失政をした領主も殺されることになる。私が作りたいのは、そういう世ではない。能力のない者は退場させるが、命までは奪わぬ。それが、私の定める秩序だ」
男爵は呆然とした後、がっくりと肩を落とした。
翌日、ディートリヒは馬一頭と路銀だけを持って、領地を去った。
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城が静まった夜。
ノブナはシュタインベルク城の最上階に立っていた。
第一部の終わりで、オーデンヴァルトの城から大陸を見渡した時と同じように。だが今度は、より高い場所から、より広い景色が見える。
「エルヴィン」
「はい」
背後に控えていたエルヴィンに、ノブナは振り返らずに告げた。
「そなたを将軍に任ずる。シュタインベルクの軍の再編を任せたい」
「……私に、ですか。元の主君を裏切った者に、軍権を」
「裏切り者だからこそ、軍の忠誠がどれほど脆いか知っている。そなたは二度と、同じ過ちを犯すまい」
エルヴィンは息を呑んだ。
「それに、そなたの知略は本物だ。流血なしで城を開けた手腕。それは武勇よりもよほど貴い」
「……ありがとうございます。必ず、ご期待に応えます」
エルヴィンは深く頭を下げた。その灰色の目には、新たな主君への忠誠と、理想への希望が灯っていた。
ノブナは窓の外を見た。北の山並みの向こうに、月が昇っている。
グラーフェン。シュタインベルク。二つの領地を、武力ではなく調略と内応で手に入れた。
だがこれは始まりに過ぎない。次は三つの領地をまとめ上げ、帝国東部の盟主となる。
「さて。切り取った領地は、治めてこそ意味がある。明日からが本当の仕事だ」
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