岐阜は異世界にもある
「ノブナ様。三領地を同時に治めるのは、不可能です」
ヘルムートが珍しく声を荒らげた。その手には山のような書類。シュタインベルク制圧から一月、彼の目の下には隈が濃くなっている。
ノブナは三つの領地を飛び回っていた。オーデンヴァルト、グラーフェン、シュタインベルク。それぞれに事情があり、それぞれに問題がある。統一した統治を行うには、まだあまりに歯車が噛み合っていなかった。
「不可能かどうかは、私が決める。まず現状を報告せよ」
シュタインベルク城の大広間。かつて男爵ディートリヒが贅を尽くした広間は、今やノブナの軍議の場に生まれ変わっている。壁の豪華な装飾はそのままだが、中央には巨大な地図台が据えられ、各領地の情報が色分けされた旗で示されていた。
「はい。まずオーデンヴァルト本領。商業は引き続き好調です。自由市場の取引高は半年前の三倍に達しました。人口も増加を続けておりますが、住居の建設が依然として追いついておりません」
「グラーフェンは」
「経済同盟の効果が出始めています。オーデンヴァルトの市場と直結したことで、商人の往来が活発化。ただし、辺境伯が高齢のため、行政の実務は我々が補佐している状況です」
「シュタインベルクが一番の問題だな」
エルヴィンが頷いた。
「はい。男爵の圧政で疲弊した領民の回復には時間がかかります。重税で逃散した民を呼び戻す施策を進めていますが、信頼の回復が最も難しい。彼らにとって、領主が代わったことは――まだ実感が伴っていないのです」
「わかっている。だからこそ、目に見える変化を示さねばならぬ」
ノブナは地図を睨んだ。三つの領地が縦に並んでいる。南にオーデンヴァルト、東にグラーフェン、北にシュタインベルク。それぞれ別の統治体制で、別の法があり、別の税制がある。
「このままでは、三つの領地を持っているだけで、一つの勢力にはなれぬ」
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翌日。ノブナは全家臣を大広間に集めた。
フリードリヒ、エルヴィン、ガルド、ローザ。そしてヘルムート。さらに、グラーフェン辺境伯の代理として派遣された老家臣の姿もある。
「本日、そなたたちに伝えることがある」
ノブナは立ち上がり、地図の前に進んだ。
「オーデンヴァルト、グラーフェン、シュタインベルク。この三領地を統合し、一つの連合と為す。名を『オーデンヴァルト連合』と――」
自分の声が低くなりすぎていることに気づいた。
「……ごほん。『オーデンヴァルト連合』と致します」
家臣たちの間に、かすかな苦笑が漏れた。もう慣れたものだ。この令嬢は時折、まるで戦国の将のような声で話す。だが、その奇癖を笑う者はいない。この令嬢の言葉は、笑い話で終わったことがないからだ。
大広間がざわめいた。
「連合、ですか」
フリードリヒが問い返した。
「併合ではなく」
「そうだ。併合ではない。それぞれの領地には、これまでの歴史と文化がある。それを踏みにじれば、民の心は離れる」
ノブナは地図の三領地を順に指差した。
「グラーフェンは独自の行政を維持しつつ、経済と軍事で協力する。辺境伯には引き続き領主としての名誉を保証する。シュタインベルクはエルヴィンが代官として統治する。そしてオーデンヴァルトが連合の盟主となり、共通の法と税制を定める」
「美しい理念です」
エルヴィンが言った。
「ですが、共通の法と税制となると、具体的にどのような――」
「それを作るのが、そなたたちの仕事だ」
ノブナはヘルムートに目を向けた。
「ヘル。三領地の法制度を統一せよ。商業法、税制、裁判制度。共通の枠組みを作り、各領地の実情に合わせた細則を設ける。期限は三月」
ヘルムートは息を呑んだ。法制度の統一。それは一つの国を作るに等しい作業だ。
「……承知しました。必ずやり遂げます」
「ガルド。鉱山の管理を連合全体に拡大せよ。シュタインベルク領にも鉱脈があると聞いている。開発の可能性を調査しろ」
「へい。あっしの目に狂いはねえです。任せてくだせえ」
「ローザ。連合領全体の交易網を整備してほしい。三領地を結ぶ街道の安全確保と、商人への統一的な保護制度を作る」
「承りました。商人にとって、安全な道と公正な制度は何よりの誘い文句ですからね」
「フリードリヒ。連合軍の編成を頼む。三領地の兵を統合し、共同の指揮系統を確立する。エルヴィンと協力して進めてくれ」
フリードリヒとエルヴィンが同時に頷いた。年齢も経歴も正反対の二人だが、互いの能力は認め合っている。
「最後に」
ノブナは全員を見渡した。
「連合の本拠を、シュタインベルク城に移す」
今度こそ、大広間が静まり返った。
「本拠を、ここにですか」ヘルムートが目を丸くした。「オーデンヴァルトではなく?」
「オーデンヴァルトは南に偏りすぎている。連合の中心から統治するには、シュタインベルクの立地が最も適している。山の要塞は防御に優れ、三方を見渡せる。それに――」
ノブナは窓の外を見た。切り立った山の中腹に築かれた城からは、広大な平野が見渡せる。南にオーデンヴァルトの緑、東にグラーフェンの丘陵。そして北と西には、まだ手の届かぬ広い世界。
「高い場所から見渡せば、遠くまで見える。天下を目指す者は、常に広く見なければならぬ」
かつて信長が、稲葉山城を手に入れて岐阜と改名した時。天下への道が、初めて現実のものとして見えた。
今、同じ感覚がノブナの胸に満ちている。
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連合の発足を宣言した夜。
ヘルムートがノブナの執務室を訪れた。手には分厚い書類の束を抱えている。
「ノブナ様。法制度統一の素案を作りました。まだ粗い段階ですが」
「もう作ったのか。早いな」
「渓谷の戦いの後から、いつかこうなると予感していましたので。少しずつ準備はしていたのです」
ノブナは書類に目を通した。税制の統一案。裁判制度の共通規則。商業法の基本原則。どれも合理的で、かつ各領地の実情に配慮されている。
「見事だ、ヘル。一年前のそなたからは考えられぬ出来だ」
「ノブナ様に鍛えられましたから」
ヘルムートは照れたように笑ったが、すぐに真剣な顔に戻った。
「一つ、ご相談が。連合の統治機構について、提案があります」
「聞こう」
「連合評議会の設置です。各領地の代表者――領主、家臣団、そして有力商人から選出された委員が定期的に集まり、連合全体に関わる事項を協議する場を作りたいのです」
「ほう」
「もちろん、最終決定権はノブナ様にあります。しかし、各領地の声を吸い上げる仕組みがなければ、統合は形だけのものになりかねません」
ノブナは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
評議会。合議制。それは、信長が目指しながらも完全には実現できなかったものだ。前の世では、自分はあまりにも独断で動きすぎた。家臣の声に耳を傾けることを、どこかで怠っていた。
その結果が、本能寺だった。
「……よい。採用する」
「本当ですか」
「ただし、条件がある。評議会の委員は、身分ではなく能力で選べ。領主の代理だからといって無能な者を送り込むことは許さぬ。そして、評議会に出席する全員に、自由に意見を述べる権利を保証せよ」
「承知しました。必ずそのように」
ヘルムートの目に、強い決意が灯っていた。
家令見習いだった青年は、今や三領地の法を統べる宰相の器に育ちつつある。人は環境と期待によって育つ。それを信長は知っているし、ノブナもまた、ヘルムートを通じてそれを確信していた。
「ヘル」
「はい」
「そなたを連合宰相に任ずる」
ヘルムートは数秒、言葉を失った。
「……宰相。私が」
「他に誰がやる。連合の法を作り、評議会を運営し、三領地の行政を束ねる。それを任せられるのは、そなたしかおらぬ」
「しかし、私は平民の出です。他の領地の貴族たちが――」
「だからこそだ。身分ではなく能力で選ぶ。その原則を、まず宰相の任命で示す」
ヘルムートは深く頭を下げた。
「……身に余る光栄です。全力を尽くします」
平民の自分が宰相。一年前なら冗談としか思えなかっただろう。だが、渓谷で別働隊を率い、グラーフェンの交渉をまとめ、三領地の法制度を書き上げた。やってやれないはずがない。ノブナ様がそう教えてくれた。
「うむ。期待しているぞ」
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数日後。ローザが最初の報告を持ってきた。
「ノブナ様。連合発足の噂が、もう大陸中に広がっています」
「早いな」
「商人の口は風より速いですからね。それに、三領地を武力によらず統合したという話は、各地の諸侯にとって衝撃だったようです」
「反応は」
「二つに分かれています。一つは、ノブナ様を将来の大陸統一者と見て、早めに接近しようとする者たち。もう一つは――」
「脅威と見なす者たちか」
「ええ。特に、帝国内の保守派貴族とヴァルムント王国が警戒を強めています」
「それと一つ。リーゼロッテ殿が聖エクレシア教国に呼び戻されました。教国が聖女を手元に置いておきたいのでしょう。本人は渋っていましたが」
「知っている。リーゼロッテからは事前に相談があった。教国と事を構えるのは得策でない。あの子にはあの子の戦場がある。行かせてやるのが正しい」
ノブナは予想通りだという顔をした。
「ヴォルフの動きは」
「現時点では軍の再編に注力しているようです。ですが、私の情報網によれば、ヴォルフは興味深い言葉を口にしているとか」
「何と」
「『あの令嬢は、もはや辺境の伯爵令嬢ではない。大陸の秩序を塗り替える者だ』と」
ノブナは低く笑った。
「買い被りだな。だが――」
「的を射ている、と?」
「さすがはローザ。読みが早い」
ローザは微笑んだ。だがその目は真剣だった。
「ノブナ様。一つだけ申し上げてよろしいですか。商人として」
「何だ」
「急ぎすぎてはなりません。三領地の統合は、まだ器を作っただけ。中身が伴うには時間がかかります。商いも統治も、信頼は日々の積み重ねでしか得られません」
「わかっている。だが、時間は味方ばかりではない。ヴォルフも、帝国の保守派も、我々に時間を与えるつもりはないだろう」
「であれば、速さと確かさの両方を。商人はそれを『信用』と呼びます」
「よい言葉だ。覚えておこう」
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その夜。
ノブナはシュタインベルク城の最上階で、一人地図を広げていた。
三つの領地が、一つの連合として描き直された地図。ヘルムートが早速用意したものだ。オーデンヴァルト連合。東は交易路に接し、南は緑豊かな平野が広がり、北は山の要塞が守りを固める。
だが、地図の中で連合が占める面積は、まだほんの一部に過ぎない。
西にヴァルムント王国。その向こうに、さらに広大な諸国。
中央にライゼン帝国。皇帝の権威は揺らぎ、諸侯が蠢いている。
南に聖エクレシア教国。信仰の力は、時に軍勢よりも恐ろしい。
前の世の信長は、美濃を獲って岐阜に入った時、天下が見えた。だが、その先にあったのは包囲網と裏切りだった。
今度は、違う道を歩まねばならない。
「ノブナ様」
背後から声がした。振り返ると、エルヴィンが立っている。
「まだ起きていたのか」
「軍の再編の報告書を仕上げておりました。それと、一つご報告が」
「何だ」
「帝都から書状が届いています。クラウス殿下からです」
ノブナは封蝋を切り、書状を読んだ。
「……皇帝陛下の容態が思わしくない、か」
「何と書いてあるのですか」
「帝国の政情が不安定化している。保守派の宰相カールハインツが勢力を伸ばし、クラウスの改革派が押されている。さらに聖エクレシア教国が帝都での影響力を強めていると」
エルヴィンは顔を曇らせた。
「帝国が揺らげば、連合にとっても安泰ではいられませんね」
「うむ。我々の暫定同盟は、クラウスの後ろ盾があってこそ成り立っている。クラウスが失脚すれば、連合は後ろ盾を失う」
ノブナは地図の中央、帝都ライゼンハウプトに目を落とした。
上洛。
信長が天下を動かすために、都に入った時のことを思い出す。あれは単なる軍事行動ではなかった。天下の中心に立つという、政治的な宣言だった。
「エルヴィン。帝都のことは、もう少し情報を集めてから判断する。今はまだ連合の足場を固める時期だ」
「承知しました」
エルヴィンが去った後、ノブナは一人で窓辺に立った。
月が山並みの上に昇っている。冷たい風が、銀髪を揺らした。
三つの領地を束ね、連合を作った。人材を集め、制度を整えた。地方の覇者としての地盤は、ほぼ固まった。
だが、ここからが本当の勝負だ。
地方の覇者で終わるか。天下を取るか。
その分水嶺が、すぐ目の前にある。
「……前の世で、美濃を獲った時にも同じことを思った」
独白が、夜風に溶ける。
「あの時は、天下が手の届く場所にあると感じた。そして、実際に手を伸ばした。上洛し、天下布武を掲げ、時代を動かした」
だが、その先に待っていたものは何だった。
包囲網。裏切り。本能寺の炎。
ノブナは目を閉じた。
今度は、同じ結末にはさせない。力だけでなく、信頼で。独断ではなく、合議で。征服ではなく、共栄で。
前世の過ちを繰り返さぬために、ヘルムートに評議会を作らせた。フリードリヒの忠義を尊重した。エルヴィンの理想を受け入れた。ローザの商人の知恵に耳を傾けた。
だがそれでも――歴史は、繰り返すかもしれない。
ノブナは目を開けた。紅い瞳に、覚悟の光が灯る。
「繰り返させはせぬ。この世界では、天下を獲り、そして――獲った天下を治めてみせる」
窓の外を見る。月光に照らされた大地の向こうに、帝都がある。
「次は帝都だ」
ノブナは静かに、しかし確かに呟いた。
オーデンヴァルト連合盟主、ノブナ・オーデンヴァルト。
辺境の悪役令嬢は、今や三領地を束ねる地方の覇者。
だがその紅い瞳は、遥か遠くを見据えている。
天下布武。
その旗は、まだ道半ばにある。
――同じ夜。エルヴィンは自室の窓から、月に照らされた城下を見下ろしていた。
「天下を獲った後、この方はどんな世を作るのだろう」
まだ答えは見えない。だが、見届けたいと思った。この令嬢の覇道の先に、自分が夢見た理想の世があることを。
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――第二部 完――
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