天下人の孤独
ノイシュタイン城の天守が完成したのは、建設開始から半年後のことだった。
大陸の中央に聳える白亜の城。五層の天守閣からは、東にオーデンヴァルトの山々、西にかつてのヴァルムント王国の平野、南に聖エクレシア教国の丘陵、北に帝都ライゼンハウプトの遠景が見渡せる。
天下の中心。
ノブナはその天守の最上階に立ち、四方を見回した。
「……前の世で安土に立った時も、こんな景色だったな」
あの時は、天下が手の中にあると感じた。あと少しで、戦のない世が来ると信じていた。
だが、その直後に――
「ノブナ様」
ヘルムートが階段を上がってきた。
「各方面からの報告です。まず帝国。クラウス殿下が帝国議会で正式に即位し、新皇帝となりました。即位の最初の勅令で、ノブナ様との同盟の永続化を宣言しています」
「クラウスが皇帝か。感慨深いな。かつて私に婚約破棄を告げた青年が」
「次に聖エクレシア教国。穏健派が主導権を握り、アウグスト枢機卿は引退しました。リーゼロッテ殿が教国の改革を進めています。什一税は自発的献金制度に移行し、教国と連合の関係は安定しています」
「リーゼロッテがやってくれたか。あの子なら、信仰を本来のものに戻せるだろう」
「旧ヴァルムント領の統合も順調です。ほとんどの領主が連合の傘下に入り、新しい行政体制に移行しています。残る抵抗勢力もごくわずかです」
「つまり、大陸のほぼ全域が、我々の影響下に入ったということだな」
「はい。事実上の天下統一です」
天下統一。
その言葉の重さが、ノブナの肩にのしかかった。
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だが、天下人の日々は孤独だった。
ノブナの周りには常に人がいる。ヘルムート、フリードリヒ、ガルド、ローザ。彼らは忠実で有能で、ノブナを支え続けてくれている。
だが、誰もノブナの本当の孤独を理解することはできない。
前世の記憶。織田信長として生き、戦い、そして本能寺で燃え尽きた記憶。この世界の誰にも話せない、もう一つの人生の重み。
それが、夜になるとノブナの胸を締め付ける。
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ある深夜。
天守の最上階で、ノブナは一人で酒を飲んでいた。
珍しいことだった。ノブナは普段、酒を嗜まない。信長も酒より茶を好んだ。だが今夜は、エルヴィンの目が脳裏から離れなかった。あの冷たい視線。かつて光秀が向けたのと同じ――不信と決意の入り混じった目。天下を獲ったはずなのに、大切な家臣の心が離れていく。その孤独が、胸の中で渦を巻いていた。
「ノブナ様。まだ起きていらっしゃったのですか」
ヘルムートが階段を上がってきた。手には書類の束。
「そなたこそ。書類仕事か」
「ええ。明日の評議会の資料をまとめておこうと思いまして。……お酒ですか。珍しいですね」
「たまには、な。座れ、ヘル」
ヘルムートは恐縮しながらも、ノブナの向かいに腰を下ろした。
二人の間に、月明かりが差し込んでいる。
「ヘル。そなたは、私が何者か知っているか」
「何者? ノブナ・オーデンヴァルト。オーデンヴァルト連合盟主。大陸の」
「それは肩書きだ。私が何者か、という問いに対する答えではない」
ヘルムートは戸惑った。
「……ノブナ様は、ノブナ様です。私が出会った時から、常識外れで、傲岸不遜で、だけど誰よりも民のことを考えている。そういう方です」
「ははは。傲岸不遜か。否定はせぬな」
ノブナは杯を傾けた。
「ヘル。もし――もしもの話だ。私が、この世界の人間ではないとしたら、そなたはどうする」
ヘルムートは目を丸くした。
「この世界の人間ではない? それは、どういう」
「もし、私が遠い別の世界で一度死んで、この身体に生まれ変わったのだとしたら。前の世界では男で、戦国の世を生き、天下を目指し、そして……志半ばで死んだのだとしたら」
沈黙が降りた。
ヘルムートの表情が、驚きから――理解に変わっていった。
「……ノブナ様。ずっと不思議に思っていたことがあります」
「何だ」
「あの舞踏会の日。婚約破棄の朝から、まるで別人でした。それまでのノブナ様は、失礼ながら領地経営にも興味がなく、政治の話など一度もされなかった。それが突然、軍事も経済も政治も――まるで、すでに一度、国を治めた経験があるかのように変わられた。それに、時折漏れる言葉遣い。『前世では』とか、『信長が』とか」
「……聞こえていたか」
「ずっと、お側にいますから。気づかないわけがありません」
ノブナは苦笑した。
「そうか。隠し通せていたつもりだったが」
「ノブナ様」
ヘルムートは真っ直ぐにノブナの目を見た。
「ノブナ様が何者であっても、私の答えは変わりません」
「……」
「あなたは、私に機会をくれた人です。平民の家令見習いに、宰相の座を与えてくれた人です。領地を救い、民を救い、大陸に平和をもたらそうとしている人です。それが前の世でどんな方であったとしても、今ここにいるのは、私が仕えると決めたノブナ様です」
ノブナの紅い瞳が、揺れた。
「……ヘル」
「はい」
「天下布武。前の世で最初にそう言った時、自分でも何を意味しているのかわかっていなかった。武力で天下を平らげる。それだけだと思っていた。だが、この世界で同じ言葉を口にして――意味が変わってきている気がする」
「どう変わったのですか」
「まだ、うまく言葉にできぬ。だが、少なくとも武力だけでは足りぬということは、この身体が教えてくれた」
ノブナは杯を置いた。
「すまぬ。少し、酔ったようだ。今の話は忘れろ」
「忘れません。ですが、他の誰にも言いません」
ノブナは天井を見上げた。
「前の世では、ここまで来られなかった。本能寺で、すべてが燃えた。家臣を信じきれず、独断で突き進み、その結果――」
「本能寺?」
「……いや。忘れろと言ったばかりだったな」
「ノブナ様」
「何だ」
「間違えないでください。前の世がどうであったとしても、今は違います。あなたの隣には、私がいます。フリードリヒ殿も、ガルド殿も、ローザ殿も。一人ではないのです」
ノブナは目を閉じた。
「……ああ。そうだな」
前世の信長は、最後まで一人だった。天下人の孤独を、誰にも分かち合えなかった。
だが今は、違う。ヘルムートがいる。フリードリヒがいる。ガルドがいる。ローザがいる。クラウスがいる。リーゼロッテがいる。
だが――
エルヴィンは?
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翌日。ノブナはエルヴィンを呼び出した。
「久しぶりに、二人で話をしよう」
ノイシュタイン城の庭園。建設途中の庭だが、すでにいくつかの花壇が整備されている。
「最近、そなたとゆっくり話す機会がなかった」
「……はい。お互いに忙しかったですから」
「エルヴィン。率直に聞く。そなたは今、何を考えている」
エルヴィンは沈黙した。
「何を、とは」
「私のやり方に、不満があるのだろう。隠さなくてよい。私は、そなたの正直さを買っている」
エルヴィンは長い沈黙の後、口を開いた。
「……ノブナ様。私はあなたの理念に惹かれて、この旗の下に来ました。身分を問わず、能力で人を評価する。力ではなく、信頼で人を導く。それが、あなたの理念だったはずです」
「今もそうだ」
「本当ですか。アイゼンで七千を殺し、その恐怖でヴァルムントを屈服させた。新城を建て、天下人として君臨する。これが、力ではなく信頼による統治ですか」
ノブナの目が鋭くなった。
「エルヴィン。アイゼンの戦いは、ヴォルフが仕掛けてきたものだ。受けて立たなければ、連合領が蹂躙された」
「わかっています。戦いそのものを否定しているのではありません。ですが、その後の振る舞いです。勝者の論理で大陸を塗り替えている。それは――」
「征服か。以前も言ったな」
「はい。今も、そう思っています」
二人の間に、冷たい風が吹いた。
「エルヴィン。そなたの理想は美しい。だが、美しい理想だけでは、一人の民も救えぬ。力がなければ、理想は絵空事だ。私は力を使って理想を実現する。そなたは、力を使わずに理想を実現したい。その違いだ」
「方法の違いだけでしょうか。それとも、目指す先が違うのでしょうか」
ノブナは答えなかった。
エルヴィンが頭を下げて去った後、ノブナは一人で庭園に立っていた。
花壇の花が、風に揺れている。
「……目指す先が違う、か」
前世の光秀も、最後にはそう思ったのだろうか。
信長の覇道を止めなければならない。そう決意した時、光秀の中には、理想の衝突があったのだろう。
「歴史は、繰り返すのか」
ノブナは呟いた。
繰り返さないために、何を変えるべきか。エルヴィンの言葉を受け入れることか。覇道の歩みを緩めることか。その答えが、まだ見えない。
だが、前世とは一つだけ違うことがある。
今の自分は、知っている。裏切りが来ることを、知っている。
だから――
「エルヴィン。そなたが何をしようとしても、私は死なぬ。今度は、本能寺の炎には焼かれぬ」
覚悟と悲しみが入り混じった声が、庭園に溶けた。
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ノイシュタイン城の天守。
夜。ノブナは一人で、大陸の地図を見下ろしていた。
ほぼ全域が、連合の色に塗り替えられている。帝国は同盟国として安定し、聖エクレシアとも和平が成った。旧ヴァルムントも連合の傘下に入りつつある。
事実上の天下統一。
だが、天下人は孤独だ。
頂に立てば立つほど、周りの人間との距離が開く。家臣は忠実だが、対等ではない。同盟者は信頼できるが、友ではない。
唯一、本音を語れたのは――
「ヘルだけか」
昨夜の会話を思い出す。前世のことをわずかに漏らし、それでもヘルムートは変わらなかった。
だが、全員がそうとは限らない。エルヴィンは、もう戻れないところまで来ている。
「天下は獲った。だが、人の心まで獲れたわけではない」
ノブナは地図を畳み、窓の外を見た。
月が、ノイシュタイン城の天守を照らしている。
美しい城だ。だがこの城が安土と同じ運命を辿らぬよう――
「間違えるな。人を信じることを、怠るな」
自分に言い聞かせるように呟いて、ノブナは天守を降りた。
階段の途中、見回りのフリードリヒとすれ違った。ノブナは「ご苦労」とだけ言い、通り過ぎた。
老騎士はその背を見送り、ひとり呟いた。
「あの方の周りから、一人、また一人と離れていく。ならば――この老骨が、最後まで寄り添おう」
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――第四部 完――
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