是非もなし、とは言わせない
ノイシュタイン城が完成して二月。
大陸は平穏を取り戻しつつあった。帝国はクラウスのもとで安定し、聖エクレシア教国はリーゼロッテの改革で穏やかに変わりつつある。旧ヴァルムント領の統合も進み、残る抵抗勢力はごくわずかだった。
だが、ノブナの胸には不穏な影が落ちていた。
---
「ノブナ様。旧ヴァルムント領の行政整備について、私が直接赴くべきかと思います」
ヘルムートが出立の準備をしながら言った。
「まだ統合が不完全な地域が三つあります。現地の実情を見ないと、適切な制度設計ができません。一月ほどお時間をいただきたいのですが」
「一月か。長いな」
「申し訳ありません。ですが、急ぎすぎれば民の反発を招きます。ローザ殿にも帝都で同行していただき、交易制度の整備も同時に進めたいのです」
ノブナは少し考え、頷いた。
「わかった。任せる。だが、何かあればすぐに戻れ」
「もちろんです。何もないことを祈りますが」
ヘルムートは笑った。だがノブナの表情は晴れなかった。
宰相と情報の要が同時に城を離れる。それが心のどこかで引っかかっていた。
---
ヘルムートが出発した翌日。
フリードリヒがノブナの執務室を訪れた。
「ノブナ様。再度、ご報告に参りました」
「エルヴィンのことか」
「はい。エルヴィン殿が、旧ヴァルムントの残存兵を密かに集めているとの情報があります。さらに、聖エクレシアの旧強硬派――アウグスト枢機卿の元側近たちとも接触している形跡が」
ノブナは目を閉じた。
「……そうか」
「ノブナ様。これは看過できません。エルヴィン殿を呼び出し、問い質すべきです。あるいは、兵権を取り上げるべきです」
「フリードリヒ。そなたの言うことは正しい。正しいが――」
「まだ、信じたいと仰るのですか」
ノブナは窓の外を見た。ノイシュタインの天守から見える風景。かつて安土城から見た琵琶湖のように、広大な世界が広がっている。
「前の世では、同じ場面で信じなかった。疑い、遠ざけ、追い詰めた。その結果が……」
「ノブナ様?」
「いや。フリードリヒ、一つ頼みがある。城の守りを固めてくれ。万が一に備えて、親衛隊の配置を見直せ。だが、エルヴィンには手を出すな」
「ですが」
「まだ、反乱を起こしたわけではない。疑いだけで罰すれば、それこそ暴君のやることだ。エルヴィンが動くなら、その時に対処する」
フリードリヒは渋い顔をしたが、頭を下げた。
「……承知しました。ですが、私は常にノブナ様のお側に。何があろうと、お守りします」
「頼りにしているぞ、老騎士」
---
夜。ノブナは一人で天守に立っていた。
月が出ている。冷たい風が、銀髪を揺らす。
前世の記憶が、鮮明に蘇っていた。
天正十年。六月一日の夜。京の本能寺。
あの夜も、こんな月が出ていた。
信長は、明智光秀の謀反を知らなかった。知っていれば、避けられたかもしれない。だが知らなかった。知ろうとしなかった。家臣の心に、目を向けることを怠っていた。
今のノブナは、知っている。
エルヴィンの心が離れていることを、知っている。
だが、知っていてなお、どうすればいいのかわからない。前世の記憶にも、この先の筋書きは載っていない。物語を超えた場所で、手探りで進むしかない。
「エルヴィン。そなたの理想は正しい。力ではなく、信頼で人を導く。私もそう願っている。だが、この世界はまだ、力なしには動かない」
独白が夜風に溶ける。
「そなたが私を止めようとするなら――今度こそ、本能寺の結末にはさせぬ」
---
翌日。ノブナはエルヴィンを執務室に呼んだ。
「エルヴィン。そなたに聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「旧ヴァルムントの領主たちと会っているな」
エルヴィンの表情がわずかに強張った。だが、すぐに平静を取り戻した。
「はい。戦後処理の一環として、彼らの不満や要望を聞いています。統合を円滑に進めるためには」
「そうか。それだけか」
「……はい。それだけです」
二人の視線が交差した。
ノブナにはわかっていた。嘘だと。だが、ここで追及すれば、エルヴィンを追い詰めるだけだ。追い詰めれば、暴発する。
前世で、信長は光秀を追い詰めた。
今度は、違う方法を試みる。
「エルヴィン。一つだけ伝えておく」
「何でしょうか」
「私は、そなたを信じている。今も。何があっても」
エルヴィンの目が揺れた。一瞬だけ、かつてノブナの理念に純粋に共感した頃の光が戻ったように見えた。
だが、それはすぐに消えた。
「……ありがとうございます」
エルヴィンが去った後、ノブナは椅子に深く沈み込んだ。
「信じている、と言った。嘘ではない。だが、信じるだけでは足りぬ」
ガルドを呼んだ。
「ガルド。一つ頼みがある」
「へい。何でしょう」
「ノイシュタイン城の地下。建設の時に石を切り出した鉱山跡の坑道。あれは、今も通れるか」
「坑道っすか? ああ、通れやすよ。石切り場から山の反対側まで抜けられやす。あっしが建設の時に補強しておきやしたから」
「よし。その坑道の入り口を確認しておいてくれ。誰にも知られぬように」
「……何かあるんですかい」
「念のためだ。あの渓谷戦の時、そなたの坑道が我々を救ったことを、私は忘れていない」
ガルドは少し考えてから、にやりと笑った。
「へへ。坑道のことならあっしに任せてくだせえ。令嬢様の命を守る道くらい、いつだって用意しやすよ」
---
夜がふける。
ノイシュタイン城の天守で、ノブナは一人きりだった。
手元には、前世の記憶を辿りながら書き留めた走り書きがある。
本能寺の変。天正十年六月二日。
明智光秀は、一万三千の兵を率いて本能寺を襲撃した。
信長の手勢は百人にも満たなかった。
炎の中で、信長は「是非もなし」と呟いて死んだ。
ノブナは、その走り書きを燃やした。
炎が紙を呑み込み、灰になっていく。
「是非もなし、とは――今度は言わせない」
前世の結末を、この世界では変える。
そのために必要なのは、力ではない。
仲間だ。
ノブナは立ち上がり、天守を降りた。
明日が、どんな日になるかはわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
今度は、一人では死なない。
読んでくださりありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけるととても励みになります!




