嬉しかったのです
お茶会の部屋へ向かう足取りが重いのはいつ以来だ。深呼吸も久しぶりにした。
「……どう、ぞ」
テオ殿下の返事が遅い。声のトーンも低かった。
扉を開けて見てみれば顔を伏せて落ち込んでいる。
(良かった、来てくれた。けれど今日も風船は少ない。あああ、挽回したかったのに)
確かに風船は数個ソファーの上にあるだけだったが私には十分だ。
あれだけのことでそこまで、と思うものの彼にとっては違うのか。そんなに嫉妬した顔を私に見せたくなかったのか。
…………ああ、私は今も嬉しいと感じてしまっている。
テオ殿下の誕生日、パーティー会場で彼が他人と接しながら私のことを考えていた時と同じ感情を持っている。私は性格が悪い。
だが、これで腹は決まった。
顔を兄へ向ける。
「お兄様、テオ殿下と二人きりにさせて」
「え……」
難色を示された。信頼がない。もう寝ないと何度も確認したのに。
「お兄様に聞かれたくないことなの」
それでも躊躇されたが私が扉の前から動かずにいると観念したように兄のほうが動いてくれた。
「扉の前にいる」
出て行く時、頭をぽんと優しく叩かれた。
(な、何だ?)
体も表情も動いていないが心の声は戸惑っている。テオ殿下に断りを入れて隣に座った。
「あの、テオ殿下。先週の件なのですが……」
(先週……ということはやはり団長室でのことか。あれは私が悪かった。メリッサと別れるのがいやでついエディに魔法で聞いてしまった)
魔法? 魔具、ではないのか。
そういえばエディは演習場にいた。西の奥の建物だ。テオ殿下と直接会うには遠い場所である。
何を使ったのか分からない。魔力がたくさんある王族ならではの魔法かもしれない。そこは詳しくない。
(そもそもウーゴには婚約者がいるのに嫉妬してしまいそれをメリッサに見せてしまうなんて……)
ああ、そういえばそうだった。同じ伯爵家のお嬢様で近々結婚する予定のはず。
だが、別に。
それはあまり関係ない。
それにしても高速で文字が動いている。考えていることがたくさんあるわりにちっとも態度に現れない。
「あの時……貴方は、副団長相手に嫉妬した、ということでよろしいでしょうか」
「っ……す、すまなかった」(私が悪い。メリッサに責められても文句は言えない)
ふいっと顔を逸らされる。
何か誤解されている。責めるつもりはない。
ふと見てみれば膝の上に乗せている拳が震えていた。
……違う。私は彼を不安にさせるために発言しているのではない。謝罪させたいわけでもない。
震えを止めてほしくて上から手を重ねる。
「違います」
両手で包むように持った。テオ殿下が不思議がってこちらを向く気配がしたが私は反対に視線を手に送る。
「嬉しかった、です。変かもしれませんが、私は、嬉しかったのです。貴方はあまり感情を表に出さないようにされていますが、私はその表情を見たいと思います。特に、その……先週の……私に、関係、することでしたよね? ああいう表情も、また、見たい、です」
たどたどしくなってしまったが何とか言えた。
テオ殿下の表情が乏しいのは私みたいに無愛想だからではない。王太子として国民を不安にさせないため、敵に隙を見せないために作っているのが無意識のうちに日常化しているのだ。
今なら分かる。私はそれが不満だった。
赤くなる顔は見た。青ざめる顔も見た。嫉妬する顔も見えた。もっといろいろな、感情を素直に表した顔が見たい。
………………。
……何も反応がない。
テオ殿下の顔が見づらい。頭の文字はもっと見づらい。
エディとラウラが嘘をつくとは思わないが、何も言われないのは気まずい。
大きく息を吐き、思い切って顔を上げた。
テオ殿下は無表情だった。
……というより固まっていた。
頭の上の文字だけがはしゃいでいる。
(え、え、これはもしかしてあれではないか? 嫉妬されて嬉しいとは、つまりメリッサは、あれなのでは? あれ、だよな?)
あれ、とは?
心の声でさえ分からないとは。
赤い色だから嬉しい感情なのは分かるものの、内容が理解できない。心の声だから質問もできない。
とりあえず意識を取り戻してもらおう。
「テオ殿下……?」
片手を離して顔の前で振ってみる。一度体が痙攣し私と目を合わせてきた。
「………………嬉しかった、のか?」
はい、という返事の代わりにこくりと頷けば頭の上で太陽が照るように光った。
文字以外があるの? そういえば白い靄があった。
「っ……そ、そうか」(良かった! 本当に良かった! 嫌われていなかった!!!)
「…………」
テオ殿下は、本当に、喜んだ、のか。
私が言わないままだったらいつまでも落ち込んでいただろう。ラウラに心の中で感謝する。
「……っ……い、いきなりは難しいかもしれないが、ど、努力する」(素直に、なろう。負の感情は見せたくないけれど暴言よりマシだ)
マシというより、暴言はいやです。心の声に返事できないのは結構つらいものがある。
声に出したものに対しては「ありがとうございます」と返事した。
用が済んだなら兄を呼びに行こうと思ったのに、テオ殿下の空いていた手が私の手に被さってきた。
「その……私からも一つお願いしていいか?」(今なら言えそうだ)
「はい」
彼から私への用事もあったのか。気楽に承諾したものの躊躇っているのか次の言葉が遅い。一体何だ?
質問しようとしたら言葉を発した。
「テ、テテテテテテテオ、と呼んでくれないか」
「…………テ、テテテテテテテオ」
(違う!)
自分でも意地悪をしたとは思う。まさか呼び捨てだったとは。あれはレベルが高い。
「テオ…………殿下」
「違う!」
今度は口に出されてしまった。
「テ……テオ、と。呼び捨てで、お願いしたい」(お願いだ)
声が震えている。私から見える手も震えていた。
応えたい、と思う。彼が勇気を出して言ってくれたのだ。
しかし。
「あの…………すみません。呼び捨ては……は、恥ずかしい、です……」
またテオ殿下の顔が見られない。来週までの課題にしてもらえないだろうか。いや、来週ではなく一か月くらい猶予が欲しい。
しどろもどろになりながらも告げてみたのに
「いやだ」
と即答された。
どうしてこういう時に限って即答するのだこの人は。少しくらい考えてくれてもいいじゃないか。
顔を上げて文句を言おうとして、見えたテオ殿下の表情に今度は私が固まった。
今まで見たことがないくらいの真剣な表情だった。
「テオと、呼んでくれ。私は貴女にそう呼ばれたい」(ずっとそう呼ばれたいと思っていた。お願いだから、メリッサ)
「………………テオ」
頭で考えるよりも先に口から単語が出ていた。
ふわり、と目の前にいる人が口元を緩める。
「ありがとう」(嬉しい。幸せだ。――好きだ、メリッサ)
……あれ。私は彼のこんな穏やかな笑顔を、見たことがあっただろうか。
とくん、と胸の高鳴る音が聞こえた。だんだん速く大きくなっていく。
あ……あ、れ?
何故だ。呼ぶ時より恥ずかしい。
それなのに嬉しいとも感じている。
分からない。まったく分からないが、確かに私は幸せだと感じていた。




