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ザラメ砂糖綺譚  作者: maki_senokouji


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2 本編


 コインロッカーの前で、荷物と格闘していた私。

 本当は、あなたが私のことを見ているって、結構前から知っていたんです。

 一瞬だけ目が合って、すぐに視線をそらしたような顔をしていましたけれど。

 男の子が私のことを見ているな、この人も受験生なのかなって。

 あなた、私に声をかける前に、二度くらいこちらを見て考え込んでいたでしょう。

 一度目は、手伝った方がいいのか迷って。

 二度目は、でも知らない女の子に声をかけたら、嫌がられるかもしれないって考えて。

 私には、そう見えました。

 たぶん、ほとんど当たっていると思います。

 あなたは、困っている人を放っておけないのに、自分が出しゃばることの方を心配する人でしたから。

 私の妄想癖は知ってのとおりですけれど、この人が荷物を入れるのを手伝ってくれたら、結構嬉しいかもって、実は思っていたんです。

 そうしたら、あなたが本当に声をかけてきてくれて。

 びっくりして、少しつっけんどんになってしまったかもしれません。

 でも、私が嬉しがっているの、あなたにはばれていたのかな。

 あなたは、私の荷物に勝手に手を出さずに、最初に、手伝いましょうかって聞いてくれましたね。

 ほんの小さなことです。

 でも、私はそういうところを見ていました。

 女の子をナンパするようには、とても見えないあなたが、あの日、ぐいぐい話しかける私から逃げずに、一つずつちゃんと答えてくれたんですものね。

 この人だって、せっかちな私は、そのときもう思っていたのかもしれません。

 舞い上がってしまって、ポシェットまでロッカーに入れてしまったことにも気づかずに。

 またあなたに助けてもらって。

 本当に恥ずかしかったけれど、あなたがとっても不器用に私を慰める言葉を考えてくれて。

 私のどこかで、ますます、あなたなんだなって思っていました。

 でも、まさかの、あなたの「じゃ」。

 嘘でしょう、と思いました。

 ここまで関わっておいて、そのまま立ち去る人がいるの、と。

 でも、あなたにとっては駆け引きでも何でもなく、本当に、自分の役目は終わったから帰ろうとしただけだったのでしょうね。きっと。

 それとも、私にお茶を誘われるの、ちょっと怖かった?

 焦りましたよ。

 私はもう、この人だって少し思い始めているのに、肝心のあなたが「じゃ」ですもの。

 告白します。

 私、男の人に自分から声をかけたのは、一生でこれが最初で最後です。

 光栄に思ってね。


 最初は、こんな感じの軽いのりでした。

 でも、いろいろとあなたに質問して、あなたからも、私のことをたくさん聞いてもらって。

 あなたの答えが、少しも自分を飾らない感じで素敵だったのもあります。

 あなたは、私がどこの高校に通っているのかも聞きませんでした。

 私が浜通りの出身だと言うと、ただ、

「たしか、泉田さんは、旧相馬家にゆかりのある家だと聞いたことがあります」

と、それだけ。

 これはこれで、びっくりしましたけれど。

 でも、あなたが聞いてくれたのは、お父さんとお母さんがどんな人なのか。今住んでいる家は、私が生まれ育った家なのか。家のまわりはどんなところなのか。ポン太とは、いつもどんな道を歩いているのか。

 そんなことを、あなたは一つずつ聞いてくれました。

 ポン太の話を始めたら、私が止まらなくなったことも覚えています。

 あなたは、困った顔もせずに聞いてくれました。

 そのとき私は、この人は、私を何かの物差しで測ろうとしているんじゃないんだ、と分かりました。

 私が大切にしているものを、ただ、知ろうとしてくれているんだって。

 それが、本当に嬉しかった。

 この人なら、私の大切なものを、自分には関係がないからと、雑に扱ったりしない。

 きっと、私が大切にしているというだけの理由で、自分も大切にしてくれる。

 私はあのとき、そう信じました。

 ずいぶん早すぎますけれど、ここで、私は決めたんです。

 あなただって。


 そのあとの松島では、私が攻めまくりだったの、あなたにも分かったでしょう。

 なんでこの子は、こんなに積極的なんだろうって思ったでしょうね。

 そんな顔をしていましたもの。

 改めて言います。

 もう、このとき、私にはあなたしかいないって決めていたんです。

 初めての松島。

 もう暗くなり始めていましたし、実は私、この日の松島の景色を、ほとんど覚えていないんです。

 海がどんな色だったかも、島がいくつ見えたかも、よく覚えていません。

 時間から考えれば、夕日が綺麗だったはずですよね。

 でも、私が覚えているのは、私が何か言ったときの、あなたの受け答えです。

 遠くの島を見ながら、少し目を細めていたこと。

 私が話しかけると、景色からこちらへ顔を戻して、「うん」と答えたこと。

 景色に見とれて、隣にこんなに可愛い私がいることを、ときどき忘れているようだったこと。

 私が少し近くを歩いても、気づいていないふりをしながら、ほんの少しだけ歩幅を小さくしてくれたこと。

 松島へ行ったのに、私は松島ではなく、あなたのことばかり見ていたんですね。

 松島からの帰り。

 暗くなって、あなたとのお別れの時間が、どんどん近づいてきて。

 仙台に着いて、常磐線の電車を見たとき、私は泣いてしまいました。

 でも、あなたはちゃんと私の様子を見てくれていました。

 あなたの方から、合格発表の日に、また会おうと言ってくれた。

 それまで手紙のやりとりもしよう、電話もしようって、言ってくれました。

 素朴なかんじのあなた。

 褒めていますよ。

 でも、決めるところでは、ちゃんと決めてくれて。

 本当に素敵でした。

 電車が発車してもずっと見ていてって甘えても、あなたはちゃんと答えてくれましたね。

 だから、あなたの姿が窓から見えなくなったあとも、淋しかったのは、ほんの少しだけでした。

 もう、あなたが私の中にいてくれているような気がしていましたから。

 それよりも私は、次に会える日までに何をしようか、何を話そうか、どんな手紙を書こうかって、そちらの計画を立て始めるので頭がいっぱいになっていました。

 もっと幸せの余韻にひたって、赤い顔をしながら窓の外を見ているだけの方が、可愛かったかしら。

 ごめんね。

 私は、そういう女の子ではないの。

 あなたが一番、よく知っていますよね。


     *(キツネの小さなイラスト)


 おなじみの、子キタキツネのマチです。

 あなたに可愛がってもらった、私の分身。

 この子をあなたに可愛がってもらっているうちに、私も、自分が可愛いと言ってもらうことを、怖がらずに受け止められるようになりました。


     *


 仙台から帰って、私はすぐに、あなたへ最初のお手紙を書きました。

 書きたいことが次から次へと出てきて、どこから書けばいいのか分からないくらいでした。

 あなたと過ごした一日のことを、最初から全部書いてしまいたかった。

 でも、それでは、あまりにも浮かれているみたいでしょう。

 だから、まずは試験のことを書きました。

 ちゃんと合格できているか、不安です。

 そんなふうに書いたと思います。

 本当は、自分のことは、あまり考えていませんでした。

 とにかく、あなたに合格していてほしい。

 二人とも合格して、春から同じ大学へ通いたい。

 そればかり心の中で願っていました。

 でも、どうか合格してください、春からも一緒にいてください、なんて、最初のお手紙から書くことは少し恥ずかしくて、できませんでした。

 それで、自分の合格がとっても心配なように書いてしまいました。心配かけてごめんなさい。


 あなたは、私のお手紙を読んですぐ、入試の日の約束どおり、電話をくれましたね。

「お手紙、届きました」

 最初にそう言ってくれたことを、今でも覚えています。

 手紙が届いたらすぐ電話すると言ってくれたのは、あの場だけの約束ではなかった。

 本当に、あの日から始まった私たちが、これからも続いていくんだって分かって、安心しました。

 あまりにも嬉しくて、そのあとは何を話せばいいのか分からなくなってしまったほどです。この私が。びっくりですよね。

「試験、きっと大丈夫だから」

 あなたは、そう言ってくれましたね。

 私の不安をそのままにせず、すぐに声を聞かせてくれたことが、とにかく嬉しかったです。

 そして最後に、

「今度は僕が手紙を書きます」

と言ってくれました。


 そして数日後に届いた、あなたからの最初のお手紙。

 その中に、あの歌が書いてありました。


   おおげさな荷物を抱えしか弱き子は

   我と共に川を渡りたる


 あなたからもらった初めての手紙。何度も何度も繰り返し読みました。

 お手紙の中で、きっと合格できると励ましてくれたことも、もちろん嬉しかったです。

 でも、私には、この歌の「我と共に」という言葉が、もっと嬉しかった。

 あなたのこれからの中に、私もいる。

 二人で広瀬川を渡って東北大へ通い、その先にあるもっと大きな川も、一緒に渡っていける。

 私はそんなふうに読みました。

 何度も読み返したあと、私はそのお手紙を、できるだけきれいに折りたたみました。

 そして、お財布の中へ入れて持ち歩き、お守りにしました。

 合格発表の日も、実はそのあとも、ずっと一緒でした。


 歌といえば、あなたは、実際につきあっている私のことは詠みにくいと言っていましたね。

 それでも、そのあと三首、私のことを可愛らしく詠んでくれました。

 あなたは、私を可愛らしく表現する天才でした。

 初めて会った日の私を、子どものキタキツネにたとえてくれたことも、可愛らしくて嬉しかったです。

 そして、私に贈ってくれた三首。私は何度、あなたのお手紙を開いて口ずさみ、閉じたあとも心の中で繰り返したことでしょう。

 でも、いまここに書き写してしまうと、そのとき、私のことを思ってくれたあなたの気持ちが、どこかへ消えてしまいそうな気がします。

 ですから、ちょっと迷いましたが、このお手紙には書かないことにします。

 これは私がいただいた、私だけのものですから。それでいいでしょ?


     *


 合格発表の日より前、何度目かの電話で、私はあなたに、

「もう、そんな他人行儀な話し方はやめてください」

 とお願いしました。

 あなたは少し黙ってから、

「じゃあ、真知子って呼んでもいい?」

 と聞いてくれましたね。

 あのときは、本当に嬉しかった。

 でも、急にあなたから名前を呼び捨てにされると思うと、ものすごく恥ずかしくて。

 自分からお願いしたくせに、私はまだあなたには丁寧な言葉で話していました。

 私はもう少し、ゆっくりでいいです、なんて言って。

 でも、この頃から私もあなたのことを「えすさん」と、下の名前で呼ぶようにしていました。

 それからあなたは、私がお願いしたとおり、他人行儀な話し方をやめてくれました。

 あなたに初めて「真知子」と呼ばれた時の電話でのあなたの声は、いまでも私の耳に残っています。


     *


 合格発表の日、改札から出てきたあなたを見つけて、私はまた抱きついてしまいましたね。

 だって、手紙の中にいたあなたが、電話の向こうにいたあなたが、本当に目の前まで来てくれたのですから。

 あなたは私の背中をぽんぽんして、

「ここだと、後ろの人の邪魔になっちゃうよ」

 なんて言って。

 何だか妙に冷静なあなたがちょっと悔しくて、私はつい、あなたの腰のあたりをつねってしまいました。

 あのときの、あなたのびっくりした表情。いまでも覚えています。

 あれも、あなたに会えて嬉しいっていう意味だったのだと、結局あなたは分かってくれたのかしら。

 そのまま私たちは東北大学へ向かいました。

 もうすぐ、四月から二人で同じ大学へ通えるのかどうかが分かる。そう思うと、早く知りたいような、怖いような気持ちでした。

 でもあなたの番号がなくて。

 私は泣いてしまいました。

 あなたは取り乱すこともなく、その結果を静かに受け入れているようでした。

 四月から一緒に大学へ通えなくなったことは、あなたも残念に思ってくれていたと思います。

 でもあなたは、キャンパスのベンチに私を座らせて、しゃくり上げる背中をさすりながら、私を勇気づける言葉を何度もかけてくれました。

「真知子が頑張ったことが、ちゃんと報われてよかった」

「四月からは、きっと楽しいことがたくさんあるよ」

「何も不安に思うことはないから」

 あなた自身は、望んでいた春を迎えられなくなってしまったのに、私のこれからの生活が希望にあふれたものになるのだと、私を安心させることばかり言ってくれましたね。

 そして、あなたは少し言いにくそうに、

「僕は東京へ帰ることになるけど、真知子は、それでも僕とこのままつきあっていきたいと思ってる?」

 と聞きました。

 私は、あなたがお別れの話をしているのだと思って、また大泣きしてしまいました。

 あなたは困ったでしょうね。

 でも、静かに、ゆっくりと、私に言葉をかけてくれました。

「僕は、このまま真知子とつきあっていきたいと思ってる」

「遠距離だからって、それを僕たちの関係の障害にはしたくない」

「会いたければ、新幹線に乗ればいいだけだよ」

「でも、僕がそうしたいからって、真知子も同じだと勝手に決めることはできないから」

「真知子がどう思っているのか、ちゃんと聞いておきたかったんだ」

 ああ、あなたは、自分の望みがあっても、それをすぐに私へ押しつける人ではないんだ。

 まず私の気持ちを聞いてくれる人なんだって、そう思いました。

 四月から一緒に大学へ通うという願いはかなわなかったけれど、あなたのその言葉を聞いて、また一歩、あなたが私に近づいてくれたように思えました。

 遠距離という言葉は、少し怖かったです。

 でも、あなたと一緒なら乗り越えていける。

 私も頑張るぞって、勇気がわきました。


 そのあと私たちは、生協や不動産屋をまわって、私の下宿を探しましたね。

 あなたは、机を置くならこの向きがいいとか、本棚を置く壁は広い方がいいとか、窓の位置や台所の広さまで、いろいろと考えてくれました。

 あなたの話を聞いているうちに、少しだけ、胸が痛くなりました。

 あなたも本当は、春から仙台で暮らすことを、ちゃんと考えていたんだ。

 どんな部屋に住んで、どんな机で勉強して、どんな毎日を送るのか、きっと思い描いていたんだ。

 でも私は、あなたがどんな部屋を好きなのか、どんな暮らし方をしたいのかを知ることができたのが、嬉しかったです。

 いつか本当に、二人で暮らす部屋を探す日が来たら、そのときは今日のことを思い出そう。

 そんなふうにも思っていました。

 帰りの時間が近づいて、次にいつ会えるのかを聞くと、あなたは少し困った顔をしました。

 入学してからの予定がまだ分からないから、今は日にちを決められない。でも、できるだけ早く、また仙台へ来る。

 そう言ってくれましたね。

 淋しかったけれど、私は明るく、

「分かりました。私、いっぱいお手紙を書きます」

「電話でも、たくさんお話ししましょうね」

 と言いました。

 あなたも、

「うん。僕も書くよ」

 と答えてくれました。


     *


 あなたが東京へ戻ってからも、私たちは、本当にたくさん、電話や手紙でお話ししましたね。

 お互いの家族のこと。小さかったころのこと。小学校、中学校、高校での生活。部活動のこと。友達のこと。お気に入りの本や音楽を教えあったりもしました。

 新しい生活への期待も、不安も、たくさん話しました。

 やがて、楽しいことだけではなく、悲しかったことや、少し嫌だったこと、いまでも心のどこかに引っかかっていることまで、話せるようになりました。

 あなたは、相変わらず、自分のことを聞かれると短い言葉で答える人でした。でも、私が次々に質問しても、嫌がる素振りは少しも見せず、一つずつ、きちんと答えてくれました。

 私の話は、本当にじっくり聞いてくれて。結論を急がせることもなくて。話の合間に、あなたがちょこっと寸評を挟んでくれるのが、なんだか絶妙でした。

 嫌だったことも、あなたに話しているうちに、それまで抱えていた気持ちが少しずつ楽になっていきました。

 ただお話ししているだけで、こんなに幸せなことってあるんだと思いました。

 でも、ふたりとも、最初は少し調子に乗ってしまいましたね。

 朝まで一睡もせず、電話でお話ししてしまって、あなたがお母様に叱られて。

 けれど、お母様が、

「日常の生活を壊すような恋愛は、悪い恋愛なの」

「親にそう思われるのが不本意なら、二人できちんと話し合いなさい」

 とおっしゃったと聞いて、私は嬉しかったです。

 あなたを叱っているはずなのに、私まで、お母様から温かい気持ちをいただいたように感じました。

 それから、電話は長くても三十分まで。それ以上お話ししたいことは、お手紙に書く。そう二人で決めましたね。

 結局、あの徹夜電話の料金は、何万円になったのでしょう。あなたは、ちゃんとご両親に返せたのかしら。

 でも、やっぱり電話は切りにくくて。

「あと三分だけ」

 なんて言っているうちに、ずいぶん制限時間を過ぎてしまったり。

 反省して、今度は私が、

「もう時間よ」

 と厳しく言うと、あなたの方が、もう少しだけ、なんて甘えてきたりして。

 あのころの私は、こんな時間が永遠に続けばいいと、本気で思っていました。

 けれど、なかなか会うことはできませんでした。

 やっぱり東京は遠いんだなって。

 電話では、なるべく楽しくしていたくて、淋しいとはあまり言わないようにしていました。でも、とうとう我慢できなくなって、お手紙に、あなたに会いたい気持ちをたくさん書いたことがありましたね。

 するとあなたは、手紙を読んですぐに電話をくれて、

「今から行く」

 と言ってくれました。

 本当に嬉しかったです。

 でも、よく聞いてみると、その日はあなたにも大切な用事があって。

「そんなのはいいから」

 と、私のことを優先しようとするあなたを、私は怒りました。

 あなたの学生生活だって大切なの。私のために、自分の生活や人生を疎かにするのなら、私はあなたと一緒にいられなくなるって。

 あなたは、いつも私の言うことを、真面目に、正面から聞いてくれました。


     *


 お互いのこれからのことは、入学式の前から、私たち、ずいぶん話しましたね。

 受験生だったころの私は、東北大学にどうしても教わりたい先生がいました。その先生の一般向けの本を読んで、もっと深く勉強したいと思い、できれば大学院へ進んで、その先生のもとで研究を続けたいと考えていました。

 あなたには、そのことも、研究者は目指してなれるものなのかという不安も、ずいぶん聞いてもらいました。

 あなたは、高校の先輩で大学院へ進んだ方の話をしてくれましたね。

「これは先輩の受け売りだけど、研究は、成績がいいだけでは続かない。すぐに結果が出なくても、それでも知りたいと思えるかどうか、その思いの強さなんだって」

 あの言葉に、私はずいぶん励まされました。

 簡単になれるとは言わず、それでも、目指す前から無理だと決める必要はないと言ってくれたことも、よく覚えています。

 大学院へ進むことについて両親がどう言っているのかも、あなたは心配してくれましたね。学費のことは心配せず、思うようにしなさいと言ってくれていると話すと、

「それなら、ご両親も応援してくださっていて安心だね」

 と、あなたまで安心してくれました。

 私の将来を、私と一緒に心配し、一緒に安心してくれる人がいる。そのことが、私にはとても心強かったです。


 大学が始まると、あなたはさっそく、私が話していた先生の論文を早稲田の図書館で探してきてくれましたね。

 電話で、見つけた論文の題名を一つずつ読み、私が持っていないものには印をつけて、コピーを送ると言ってくれました。

 あなたは、図書館で探してコピーするだけだから、大したことではないと言っていましたけれど、でも、私が嬉しかったのは、その手間ではありません。

 私が大切にしてきたものを、あなたも一緒に大切にしてくれたことが、本当に嬉しかったんです。

 何日かして、先生の論文を少し読んだと話してくれました。

「法律は人の気持ちに寄り添って運用されなければ、存在する価値がない。そして、人の気持ちに寄り添う運用こそが、新しい法を作っていく、という考え方で合ってる?」

 少し言い方は違うかもしれないけれど、だいたいそうだと答えると、あなたは、そこに感動したと言ってくれました。

 憧れていた先生の考え方に、あなたも同じように心を動かしてくれたことが、とても嬉しかったです。

 あなたは、その先生が誰の門下なのか、お弟子さんたちが今どこの大学にいるのかまで調べてくれました。

「研究者になったら、ずっと東北大学にいられるとは限らないんだね。本人の希望がどのくらい通るのか、また調べてみるよ」

 私よりも先のことまで、あなたは私の将来のことを真剣に考えてくれましたね。

 あなたが研究者としての私の未来を詳しく考えてくれるたびに、その未来のどこかには、当然あなたもいるのだと、勝手に嬉しくなっていました。


 あなたが、どうして弁護士になりたいと思ったのかを丁寧に話してくれたことも、よく覚えています。

 中学生のころ、部活をやめて時間ができ、将来のことを考え始めたこと。

 どうせ何かを目指すなら、価値のあること、人のためになることをしたいと思ったこと。


 医者は、数学が苦手だっただけでなく、人の生命そのものを扱うことが自分には厳しいと思ったこと。学校の先生は、子どもの人生全般に責任を持てるか分からなかったこと。

 そして、

「弁護士なら、自分の理屈っぽさを使って、人の権利を言葉で守ることができるかもしれないと思ったんだ」

 とあなたは言いましたね。

 私は、その話がとても好きでした。

 あなたが少し困ったところだと思っている自分の性格まで、人の役に立てようとしていることが、とてもあなたらしく思えました。


 私にも弁護士を目指せるかと訊いたとき、あなたは、すぐに大丈夫とは言わず、少し考えてから、

「真知子なら、目指せると思う」

 と言ってくれました。

 人の話をきちんと聞けることは、法律の解釈を知っていることと同じくらい、弁護士に必要だとも言ってくれましたね。

 私が「あなたの話なら、いくらでも聞けます」と言ったのに、あなたが「俺以外の人の話も聞かないといけないよ」と真面目に答えたので、私は笑ってしまいましたよね。

 あのとき、私がどこまで本気で弁護士になりたいと思っていたのかは、今ではよく分かりません。

 あなたのそばにいるために、あなたと同じものを目指したかったという気持ちが、いちばん大きかったのだろうと思います。

 でも、あなたが弁護士になりたいと思った理由を聞いて、あなたの目指している弁護士がどんなものなのかを知り、その仕事を素敵だと思ったことも、本当です。

 そんな素敵な仕事を、あなたと一緒にできたら、どんなに幸せだろうって。


 研究者になるには、何が必要なのか。

 弁護士になるには、何を学ばなければならないのか。

 自分にできることと、したいことが違ったら、どちらを選ぶのか。

 人のためになる仕事とは、どういうものなのか。

 まだ大学へ入ったばかりなのに、私たちは、ずいぶん先のこと、深いところまで話しましたね。

 家族にも、友人にも、先生にも、私はそれまで、ここまで自分の迷っているところを話したことはありませんでした。

 でも、あなたになら話せました。

 あなたは、私の代わりに答えを決めようとはしませんでした。私の話を最後まで聞いて、いつもそれから一緒に考えてくれました。

 分からないことを、分かったように言うことも、あなたにはありませんでした。

「まだ分からないけど、もう少し考えてみるよ」

 そう言って、その場では答えられなかったことも、あとになってまた話してくれました。

 私は、その言い方が好きでした。

 私が訊いたことを、そのときだけで終わらせず、本当に考えてくれているように思えたからです。


 将来のことは、ずっと不安でした。

 でも、ここまで私のことを考えてくれるあなたとなら、まだ何も決まっていなくても、きっとどうにかしていける。

 あのころの私は、そう思っていました。

 あなたと将来のお話をしている時間が、私はとても幸せでした。


     *


 私の入学式の日のことも、もちろん、よく覚えています。

 式が終わって、私は父と母と会場の外で話していました。

 まわりは、新しいスーツを着た学生と、そのご家族でいっぱいでした。

 その人混みの中に、あなたがいたんです。

 最初は、会いたい気持ちが強すぎて、あなたに似た人を勝手にあなただと思い込んでしまったのかと思いました。

 でも、こちらへ歩いてくる姿を見て、本当にあなただと分かりました。

 私は驚いて、すぐには動けませんでした。

 あなたは、少し照れたような顔をして、

「来たよ」

 それだけ言いましたね。

 それだけですよ。

 東京から仙台まで来ておいて、「来たよ」だけ。

 でも、あなたの声を聞いた途端、私は、父と母がすぐそばにいることまで忘れて、あなたに抱きついてしまいました。

 あとで思い出して、ものすごく恥ずかしくなりました。

 けれど、あのときは、嬉しくてどうしようもなかったんです。

 あなたは私を受け止めて、背中を何度かぽんぽんしてくれました。

 それから父と母の方を見て、私をそっと離しました。

 そこでようやく、私も気づきました。

 私、両親の目の前で、いったい何をしているんでしょうね。

 でも、もっと驚いたのは、そのあとのあなたです。

 あなたは姿勢を正して、父と母に深く頭を下げました。

「真知子さんとお付き合いをさせていただいている、エスと申します」

 あなたも、とても緊張していたのでしょう。

 ずいぶん大きな声でしたよ。

 それだけでも十分だったのに、あなたは続けました。

「先日、自分の予定をないがしろにして、とにかく会いに行くと真知子さんに申しまして、真知子さんからひどく怒っていただきました」

 私、そんなことまで言わなくてもいいのに、と思いました。

 でも、あなたは止まりませんでしたね。

「だから今日は、事前に自分の用事をすべて片づけてから、こちらへ参りました。なにぶん若輩で、行き届かないところも多く、お父さま、お母さまには何かとご心配をおかけすることもあるかと思いますが、全力で真知子さんを幸せにしたいと思っています。どうか温かく見守っていただければ幸いです」

 途中から、私は父と母の顔を見ることができなくなりました。

 あなたが、そこまで言ってくれるとは思っていませんでした。

 まだ、私たちには少し早すぎる言葉だったかもしれません。

 あなた自身も、あとから思い出して、ちょっとやらかしちゃって恥ずかしいって言っていましたね。

 でも、私の両親の前で、私と付き合っているとはっきり言ってくれたこと。

 それから、全力で私を幸せにしたいと言ってくれたこと。

 どちらも、いつかあなたから聞けたらいいなと思っていた言葉でした。

 それをあの日、思いがけず、いっぺんに全部もらってしまいました。

 嬉しかったですよ。

 本当に、胸の奥まで響きました。

 父は、少し驚いた顔をしていました。

 母は、あなたと私を交互に見ていました。

 それから父は、

「ご丁寧に、どうも」

 と言いました。

 それだけでした。

 あれだけ一生懸命に挨拶したのに、ずいぶんあっさりしていたでしょう。

 父もきっと、何を言えばいいのか分からなかったのだと思います。

 そのあと、四人で近くの喫茶店に入りましたね。

 あなたは、父と母に聞かれたことへ、一つずつ、いつものように真面目に答えてくれました。

 早稲田大学の法学部へ進んだこと。

 法律家を目指していること。

 入試の日に私と出会ったこと。

 それから、電話や手紙で話すようになったこと。

 父が、今日は大学の方に用事はなかったのかと聞くと、あなたは、サークルの合同説明会があったと答えました。

 でも、目星をつけていた小市民法研究会には先に出向いて、説明を受けて、仮入会まで済ませてきた。

 だから、今日は合同説明会へ行かなくても大丈夫だ、と。

 私はそれを聞いて、あなたが、私の言ったことをちゃんと分かってくれたのだと思いました。

 自分の大学生活を粗末にしないこと。

 私に会うためだけに、自分の大切なことを後回しにしないこと。

 あなたは、それをきちんと守ったうえで、それでも私に会いに来てくれました。

 嬉しかったです。

 本当に、嬉しかったです。

 たぶん、自分の用事を済ませて、本当に仙台まで来られるか、最後まで分からなかったのでしょう。

 だから、事前には何も言わなかった。

 そういうところも、あなたらしいです。

 約束できるか分からないことは言わない。

 でも、できるとなったら、黙って本当に来てしまう。

 本当は、もう少し前もって教えてくれてもよかったのに、とも思いましたけれど。

 父と母は、しばらく話したあと、

「では、私たちはこれで帰るよ」

 と言って、あっさり帰っていきました。

 でも、あとで父から、

「もう婚約したのか」

 と聞かれました。

 私は慌てて、まだそんなことはしていない、と答えました。

 すると父は、

「そうか。あちらのご両親とも、もう挨拶しなければならないのかと思った」

 と言いました。

 たぶん、からかわれただけなのだと思います。

 でも私は、あなたが父から合格をもらったような気がして、少し嬉しかったんです。


     *


 父と母を見送ったあと、私はあなたを自分の部屋へ連れていきました。

 あなたに部屋を見てもらいたいとは、前から思っていました。

 でも、実際に二人きりで帰ることになると、急に恥ずかしくなりました。

 駅から部屋までの道を歩きながら、私は、まだ段ボールが残っていることや、きちんと片づいていないことを、何度も説明しましたね。

 あなたは、そのたびに、

「気にしないよ」

 と言ってくれました。

 それでも私は、また少し歩くと、段ボールがまだあるから、と言って。

 何回言ったのでしょうね。

 鍵を開けるときには、少し手が震えました。

 あなたを、自分の部屋へ入れる。

 そう思うと、嬉しいのに、胸の奥が落ち着きませんでした。

 あなたが玄関で靴を脱いで、私の部屋へ入ってきたとき、それまで手紙や電話の中にいたあなたが、とうとう私の暮らす場所まで来てくれたのだと実感しました。

 玄関を上がってからも、私はまた、

「まだ、ちゃんと片づいていないけど」

 と言いました。

 駅から来るあいだにも、何度も同じことを言っていたのに。

 あなたは部屋を見回して、

「十分きれいだよ」

 と言いました。

「本当に見て言ってる?」

「見てるよ」

「段ボールも、まだこんなにあるのに」

「引っ越したばかりなんだから、当たり前だろ」

 あなたは、真面目な顔で答えました。

 本当に、少しも気にしていないようでした。

 私がなかなか口を閉じられなかった理由は、段ボールのせいばかりではなかったのですけれど。

 あなた、そこまでは分からなかったでしょうね。

 でも、少し前まで、あなたはもっと丁寧な言葉を使っていました。

 私も、あなたにこんな言い方はしていなかったと思います。

 いつの間にか、私たちは、ずいぶん普通に話せるようになっていましたね。

 そのことも、なんだか嬉しかったです。

 私は、あなたに料理を作りました。

 トマトソースのスパゲッティと、簡単な野菜スープ。

 新しい台所で、まだ道具も十分にはそろっていませんでした。

 それでも、あなたが来たら何を作ろうか、引越しの作業をしながらずっと考えていましたから、迷わず手を動かすことができました。

 あなたは、スパゲッティを一口食べると、

「おいしい」

 と言いました。

「本当に?」

「本当に」

「無理してない?」

「全然」

「味、濃くない?」

「ちょうどいい」

 私、けっこうしつこく聞いていますね。

 でも、あなたはそのたびに、ちゃんと答えてくれました。

 そして、

「また食べたい」

 と言ってくれました。

 あの言葉も、よく覚えています。

 あなたが私の部屋にいて、私が作ったものを食べている。

 引越しの荷ほどきをしながら、何度も思い描いていた時間が、本当になりました。

 この部屋で、あなたに何度もご飯を作ってあげる。

 あなたが来るたびに、少しずつ、この部屋にあなたのものが増えていく。

 そんなことも、少し考えていました。

 ちょっと気が早いですよね。

 でも、最初から私がそういう女の子なのは、あなたもご存知のとおり。


     *


 食事のあと、私たちはしばらく、ソファに並んで座ってお話をしました。

 やがて話が途切れて、あなたの顔が、すぐそこにありました。

 私は、今度こそ、と思いました。

 何を、とは書きません。

 あなたには分かりますよね。

 でも、あなたはやっぱり動きませんでした。

 少し緊張した顔で、私を見ていました。

 私は、どうしたらよいのか分からなくなって、あなたのシャツを見ました。

 すると、胸元のボタンが一つ、取れかけていることに気づきました。

「それ、取れそう」

「帰ってから直すよ」

「帰る前に取れるよ」

「大丈夫だって」

「大丈夫じゃない。脱いで」

「ここで?」

「ここで」

 あなたは少し抵抗しました。

 でも、ここは私が押し切りました。

「一緒に歩いている彼のシャツのボタンが取れそうだったら、彼女が恥ずかしい思いをするの」

「そんなものか」

 そんなものです。

 結局、観念したあなたは、シャツを脱いで、Tシャツ姿になりました。

 そんな姿のあなたを見るのは、初めてでした。

 思っていたより腕が太くて。

 肩も胸も、服の上から見ていたより、ずっとしっかりしていて。

 私は針に糸を通しながら、何度もあなたの方を見てしまいました。

 それで、指を刺しました。

「痛っ」

「大丈夫?」

 あなたはすぐに、私の手を取りました。

「大丈夫。少し刺しただけ」

「血、出てない?」

「出てないよ」

「本当に?」

「本当」

 さっきまで私の料理へ何度も「本当に?」と聞いていたのは私の方なのに、今度はあなたが何度も聞くんですものね。

 あなたは、心配そうに私の指を見てくれました。

 その真面目な顔を見ていると、また胸の中が少し満たされました。

 縫い終わると、私はボタンを二、三度引っ張ってみせました。

「これでもう大丈夫」

「ありがとう」

「次からは、無駄な抵抗をせず、おとなしく繕わせてね」

「はい。お願いします」

 あなたは少し笑いました。

 私も笑いました。

 あなたの服を繕ってあげられたことが、私は嬉しかったんです。

 ボタンを一つ付けただけなのに。

 でも私には、少しだけ、あなたの生活の中に入れてもらったような気がしました。


     *


 やがて、あなたが東京へ帰る時間になってしまいました。

 私は駅まで見送りました。

 ホームで、私たちは手をつなぎましたね。

「明日は何があるの?」

「午前中に、司法試験を目指す学生向けのガイダンスがある。夜は小市民研の新歓コンパ。だから、電話するのは少し遅くなると思う。真知子の方は?」

「私は学部のオリエンテーションと、クラスの顔合わせ。そのあとに懇親会があるみたい。でも、希望者だけだから、どうしようか迷ってるの」

「それは絶対に行った方がいいよ」

「どうして?」

「だって、クラスに話せる人がいるかどうかって、これからの学生生活では大きいじゃないか」

 あなたは、まるで自分のことより大切なことのように言いました。

 私は、やっぱりその言葉には逆らえませんでした。

「……分かった。行ってみる」

 そう答えながら、私はあなたの手をぎゅっと握りました。

 あなたは、私と一緒にいられない場所でも、私が楽しく過ごせるように考えてくれていました。

 少し淋しかったけれど、嬉しかったです。

 発車の時間が近づくと、あなたは、

「また、なるべく早く来る」

 と言ってくれました。

「無理はしないで」

 私は答えました。

 でも、少し考えてから、

「でも、早く来て」

 とも言いました。

 無理はしないで。

 でも、早く来て。

 ずいぶん難しいお願いですよね。

 あなたは笑って、

「分かった」

 と言いました。

 発車の合図が鳴り始めるまで、私たちは手をつないでいました。

 指が離れてしまって、あとを追いたくなるのを我慢しているうちに、あなたは列車に乗りました。

 私は、列車が見えなくなるまで、ホームに立っていました。

 あなたは、私がボタンを付けたシャツを着て帰っていきました。

 それが、なんだか、とても誇らしかったです。

 あのシャツを着ているあいだは、あなたの胸元に、私が付けた印がひとつある。

 そんなふうに思っていました。


     *


 四月も半ばを過ぎたころ、私たちは、ゴールデンウィークをどう過ごすか相談しましたね。

 入学式の日から、まだそれほど経っていなかったのに、私はもう、ずいぶん長いこと、あなたに会っていないような気がしていました。

 毎日のように電話で話し、長い手紙のやりとりもしていたのに。

 大学の授業やサークルのこと。学食のメニューや、近所のおいしくて安いお店の話もしましたね。

 そして、二人の将来の進路のこと。

 あんなに毎日たくさんお話ししていても、やっぱり、直接会いたい気持ちは少しも薄れませんでした。


 ですから、ゴールデンウィークに入る四月二十九日から、すぐにこちらへ来てくれると聞いて、私はもう、胸が弾んで仕方ありませんでした。

 ところが、よく聞いてみると、あなたは、四日と五日にサークルの新入生歓迎合宿があるのに、任意参加だから行かなくてもよいと言うんです。

「真知子と一緒にいた方が楽しいと思うけど」

 そんなことを何でもないように言うので、私は、嬉しいのに怒らなければなりませんでした。

 私もあなたとなるべく長く一緒にいたい。でも、大学へ入ったばかりだからこそ、そこでのおつきあいも大切にしてほしい。私のために、自分の学生生活を疎かにしてはいけないと、ずいぶん強く言いましたね。

 あなたは最後まで、私と一緒にいる方がいいのに、と少し不満そうでしたけれど、結局、三日に東京へ戻り、四日と五日の合宿には参加することになりました。

「三日は夜までいてもいい?」

 と訊かれて、

「もちろんです」

 と、私は素直に答えましたよね。

 まだ四月なのに、五月三日の夜まで一緒にいられることが、もう嬉しくて仕方なかったんですよ。


 仙台にいる間、何をして過ごすかという話になると、あなたは、私の部屋でずっとだらだらしたいと言いましたね。

 一緒にご飯を食べて、昼寝をして、話をする。それだけで十分だと。

 これ、あなたは本気でしたよね。

 でも私は、せっかく何日も一緒にいられるのだから、もっといろいろな思い出を作りたいと言いました。

 すると、あなたは少し黙ってから、

「それなら、何か考えよう」

 と、急に真面目な声で言ってくれました。

 私は、松島へもう一度行きたいと言いました。

 今度は船にも乗って、時間を気にせず、一日かけてゆっくり見たい。

 あなたは、「出会った日の約束だね」と、すぐに賛成してくれましたね。

 そして、ほかの日のことを考えているとき、

「二人で旅行に行こうか」

 と言いました。

 二人で旅行をして、同じ部屋に泊まる。

 旅行の提案は嬉しかったです。でも、宿泊まで考えた途端、急にどきどきしてしまって、すぐには返事ができませんでした。

 少し考えさせてほしいと言うと、あなたは、

「そっちの近場で、真知子が行ってみたいところはない?」

 と訊いてくれましたね。

 私は、急に訊かれても、すぐには思いつきませんでした。

 松島以外には、ほかにどこかと言われても、考えたことがなかったんです。

 するとあなたは、少し遠慮ぎみに、

「俺は、会津若松へ行ってみたいけど。二人の思い出にできるかな」

 と言いました。

 昔から、一度きちんとお城を見てみたかったこと。喜多方の町も歩いてみたかったこと。もちろん、ラーメンも食べたかったこと。

 自分の行きたいところを言う前に、まず私の希望を聞いてくれたことも、嬉しかったです。

 でも私には、どこへ行くかよりも、あなたと二人で思い出を作ることの方が大切でした。

 あなたも、二人で思い出を作りたいと思ってくれている。そう分かったら、あなたが昔から行きたかった会津へ一緒に行くことが、私にもいちばん幸せな旅行に思えました。

 それで、会津へ行きましょうと答えたんです。

 いつか、もっとお金と時間に余裕ができたら、沖縄や北海道にも行ってみたいね、とも話しましたね。

「でも今は倹約第一だから、会津若松と喜多方が、俺たちにできる最大限の贅沢だね」

 あなたは、そう言いました。


     *


 こうして、二十九日は会津若松へ行き、そのまま喜多方で一泊することになりました。

 三十日は相馬を通って、仙台へ戻る。

 五月一日は、一日かけて松島をゆっくり見る。

 そして二日は、二人で何もしない一日を過ごす。

 そんな予定になりましたね。

 あなたが相馬にも行きたいと言ってくれたことは、私には本当に嬉しかったです。

 私が育った町を見てみたいと、あなたは言いました。

 両親がまたびっくりしてしまうから実家には案内できないと私は念を押しました。家の前をうろうろしたりはしない、少し離れた電柱の陰から見るだけにするとあなたが言うので、もちろん、それもだめだと。二人で笑いました。

 私は、あなたに相馬のどこを見せようか考えました。

 通っていた学校。

 よく買い物をしたお店。

 海へ続く道。

 ポン太と歩いた場所。

 どれも、私には見慣れた、何でもないところでした。

 でも、あなたと一緒に歩いたら、きっと少し違って見えると思いました。


 二日の過ごし方については、あなたが、どうしても部屋でだらだらしたいと言うので、私も少し考えて、

「では、計画的にだらだらしましょう」

 と言いましたね。

 何もしない日だと、初めから決めておくこと。

 買い物と食事は二人でする。

それから、二人で部屋にいる時間を有効に使うこと。

 何もしないって言ったじゃないか、とあなたからクレームがつきましたが、二人でお昼寝をしてしまうのは嫌ですから。


 こうして、私たちのゴールデンウィークの予定が決まりました。

 二十九日は、あなたが昔から憧れていた町へ。

 三十日は、私が生まれ育った町へ。

 一日は、最初の日にゆっくり見ることのできなかった松島へ。

 二日は、二人で、何でもない一日を過ごすことにしました。

 私は、どの日も楽しみでした。

 でも、今になって思い出すと、いちばん楽しみにしていたのは、五月二日の、何でもない一日だったような気がします。

 あなたと、まるでいつもの日常のように一日を過ごすことが、私があなたと一番したかったことだったからです。


     *


 会津若松へ向かう列車は、思っていたよりずっと長かったです。

 あなたは私より、ずっと長い電車の旅に慣れていたのでしょうか。四時間近くかかると聞いても、少しも嫌そうな顔をしませんでした。

 郡山で乗り換えてから、窓の外には、まだ春になりきっていない山と、ところどころに残る雪が見えました。私は最初のうち、それを一つずつあなたに知らせていました。

「見て。あそこ、まだ白いわ」

 あなたはそのたびに窓の外を見て、

「本当だね」

 と答えてくれました。

 でも、しばらくすると、私も黙って景色を見るようになりました。話すことがなくなったわけではありません。

 あなたの隣にいるなら、何も話さなくても大丈夫なのだと、初めて思えたのです。今まで、こんなに長い時間、あなたのすぐ隣で過ごしたことはありませんでしたから。

 あなたは窓の外を見ていました。

 何を考えていたのでしょう。

 歴史のことだったのかもしれないし、これから見る会津のことだったのかもしれません。もしかしたら、何も考えずに、ただ景色を見ていただけかもしれません。

 私は、そんなあなたの横顔を、飽きることなく何度も見ていました。

 あなたがこちらを向きそうになると、慌てて窓の外へ目を戻しました。何度かは、たぶん気づかれていましたよね。でも、あなたは何も言いませんでした。

 そのうち、私はあなたの肩に頭を乗せました。

 眠かったから、ということにしておきます。

 本当は、眠る前から、ずっとそうしてみたかったのです。

 私は家ではお姉ちゃんでしたから、いつもしっかりしていなければ、と思っていました。だからか、誰かに身体を預けてしまうことは、少し苦手だったのだと思います。

 あれでも私は、ずいぶんあなたに甘えていたつもりでした。

 あなたは驚いたでしょうか。

 私を起こさないようにと思ったのか、あなたは少しも動きませんでしたね。あなたの肩は、思ったより硬くて、温かかった。

 それから私は、本当に少し眠ってしまいました。

 目が覚めたときも、あなたは同じ姿勢のままでした。きっと肩が痛くなっていたでしょうに、何も言いませんでしたね。

「重くなかったですか」

 と聞いたら、

「大丈夫だよ」

 と答えましたね。

 あなたの大丈夫は、本当に大丈夫なのか、今でも少し分かりません。

 でも、あのときの私は、その言葉を信じて、また、あなたの肩へ頭を戻しました。


 会津若松に着いてからのあなたは、いつもより少し早口でした。

 私が会津のことをどのくらい知っているのか、あなたはあまり考えていなかったのでしょうか。私は福島県の人間ですから、あなたが話してくれたことの中には、前から知っていたこともあったと思います。

 でも、そんなことは、私にはどうでもよかった。

 あなたが、好きなことを話している姿を見るのが好きでした。

 鶴ヶ城へ向かう道でも、あなたは戊辰戦争のことや、会津藩のことを話してくれました。

 話し始めると夢中になるのに、ときどき急に黙って、私の顔を見ましたね。

 私が退屈していないか、確かめていたのでしょうか。

「大丈夫?」

 と、あなたから何度か聞かれました。

「何が?」

 と聞き返すと、

「つまらなくない?」

 と、少し不安そうな顔をしました。

 私はおかしくなって、笑ってしまいました。

「楽しいですよ。続きを聞かせて」

 そう言うと、あなたは安心したように、また話し始めました。

 その顔が見たくて、私は何度でも続きを聞きたかったのです。

 あの日、あなたが教えてくれた歴史を、私はどのくらい覚えているでしょう。

 たぶん、あまり覚えていません。

 けれど、石垣を見上げながら話すあなたの横顔はよく覚えています。何かを思い出そうとして、少しだけ眉を寄せる表情も。私がうなずくと、うれしそうに先を続ける声も。

 会津の景色より、私はあなたを見ていたのだと思います。


 夕方、喜多方へ向かいましたね。

 駅へ着いたころには、二人とも少し疲れていました。

 ラーメン屋さんを探して歩きながら、

「別に、今日でなくてもいいよ」

 と、あなたは何度も言いました。

 自分は食べたいのに、私が疲れているのではないかと心配してくれていたのでしょう。

「私も食べたいから大丈夫」

 と答えると、

「本当?」

 と聞きました。

「本当」

 と答えても、まだ少し疑っていましたね。

 喜多方ラーメンは、それまでにもどこかで食べたことがあったかもしれません。

 でも、あなたと食べたあの一杯は、初めてのもののようでした。

 私が一口食べて、

「おいしい」

 と言うと、あなたは、自分が作ったわけでもないのに、とてもうれしそうな顔をしました。

 その顔があまりに可愛らしかったので、私はもう一口食べて、また、

「本当においしいです」

 と言いました。

 私がおいしいと言う様子を、あなたがあんなに喜んでくれる。それが、ラーメンをもっとおいしくしてくれました。

 店を出ると、もう空は暗くなりかけていましたね。

 知らない町の夕暮れを、私たちは並んで歩きました。

 あなたは宿までの道を確かめながら、ときどき私の歩く速さに合わせてくれました。

 私は疲れていたはずなのに、早く宿に着きたいとはあまり思いませんでした。

 もっとこうして、ふたりで歩いていたかった。

 同じ宿へ帰る道すがら、今日見たもののことを話す。すぐ隣には、あなたがいる。

 それだけで、私は、ずっと先まで一緒に暮らしているような気がしていました。

 あのころの私は、あなたといると、まだ起きてもいない未来まで、思い出のように懐かしく感じることがありました。

 喜多方の町を歩いたあの夕暮れも、そんな時間でした。

 私は本当に、幸せでした。

 

 喜多方で初めて、あなたと旅館に泊まりました。

 あなたと、という以前に、私はそれまで、家族以外の人と外で泊まったことは、学校行事のときしかありませんでした。ですから、旅館に着いたときから、ずっとどきどきしていました。

 宿帳にあなたが名前を書いてから、

「ここに書いて」

 と言って、あなたの名前の隣の空白を指しましたね。

 私は、そこに「真知子」とだけ書きました。

 自分の名前があなたの名前の隣に並んでいるのを見て嬉しくなり、つい、

「続柄って、宿帳には要らないんですね」

なんて、少しおかしなことを言いました。

 するとあなたは、

「表に出せない関係の人もいるからだろうね」

 と、真面目に答えました。

 それがおかしくて、私は笑ってしまいました。

 宿の方はみなさん親切で、お部屋もきれいでしたし、お食事も素晴らしくて、言うことなしでした。

 きっとあなたが、いろいろ調べて選んでくれたのでしょう。

 宿にいる間のあなたは、いつもより少し落ち着いて見えて、頼もしかったです。

 ゴールデンウィーク前は少し忙しかったみたいでしたから、この夜は、あなたがゆっくり休めたようでよかったです。

 私は、あなたの寝顔を堪能しました。


     *


 喜多方から仙台へ戻る前に、相馬へ寄ってくれましたね。あなたの方から、私の生まれ育った土地が見たいと言ってくれたこと、本当に嬉しかったです。

 私には、あなたに見せたいものがたくさんありました。

 小学校へ通った道も、ポン太と歩いた道も、海の見える場所も。子どものころからずっと見てきた景色。

 あなたは、どれも興味津々といった様子で見てくれました。かえって、私の方がちょっと恥ずかしくなるくらいに。

 私が何かを説明するたびに、ちゃんとその場所を見て、それから私を見ました。そして、私がそこでどんな子どもだったのか、愛おしそうに、たくさん聞いてくれました。


 小学校の近くで、昔の同級生に会いましたね。

 あまりに突然だったので、私はあなたを何と紹介すればよいのか、一瞬分からなくなってしまいました。

 でもあなたは、少しも迷わずに、

「はじめまして。真知子さんと付き合っている、エスです」

 と言いました。

 私は、そのとき、胸の奥がいっぱいになりました。

 あなたが、私とのことを隠さなかったからではありません。

 隠すようなことだと、初めから少しも思っていないようだったからです。

 あの子は、私が小学生だったころを知っています。

 その子の前に、今の私が好きになったあなたが立っている。

 私の子どものころと、あなたと一緒にいる今とが、一本につながったような気がしました。

 あなたが、私の育った町の中にいる。

 私の昔を知っている人に、私の恋人として挨拶してくれている。

 その光景を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるほど、嬉しかったのです。


     *


 五月一日には、約束のとおり、もう一度、松島へ行きましたね。

 あの日と同じ夕方の景色をもう一度見られるように、観光をしながら夕方まで過ごせる時間に出かけました。

 今度は、ずいぶんゆっくりできました。

 五大堂へ渡って、船に乗って、瑞巌寺と円通院を見て回って、観瀾亭でお茶を飲みましたね。

 何も言い合わせていなかったのに、あなたも私も、あの日に買った扇子を持ってきていました。

 あなたがそれに気づいて、少し嬉しそうに笑ったことを覚えています。

「今日も、何か買おうか」

 あなたはそう言ってくれましたね。

「この扇子があるから、今日はいいです」

 と私は答えました。

 あの扇子があれば、もう十分でした。

 この日だって、初めて二人で来た日の思い出を、あなたも同じように大切に持ってきてくれましたから。


 途中で、海の見えるベンチに座って、実家から送ってもらったカステラを一緒に食べましたね。

 私が好きだからと、母が送ってくれたものでした。

「真知子は、カステラのどこが好きなの」

 あなたにそう聞かれて、私は、底のところです、と答えました。

「下に残っているザラメが、きれいで好きなんです。上からじゃ見えないのに、でも、ひっくり返すと、きらきらしてて、とってもきれいなんですよ」

 あなたは、カステラを少し持ち上げて、底を確かめていましたね。

 きっと私はあなたにとって、ときどきよく分からないことを言う、不思議な女の子だったのでしょう。

 また変わったことを言っている、というあなたの顔も可笑しかったです。


 やっぱり私は、この日も松島より、あなたのことばかり見ていたような気がします。

 船の上で、風に目を細めていた横顔。

 私にも何かを見せようとして、何度も振り向いてくれたこと。

 いつもより少し声を弾ませて、「あのときは、こうだったね」と、初めて二人で来た日のことを何度も話してくれたこと。

 私が黙ってあなたを見ていると、

「真知子も、景色を見た方がいいよ」

 と言いましたね。

 見ていましたよ。

 海も、島も、その中にいるあなたも。

 私は、あなたのいる松島が見たくて来たのです。

 夕方になって、もう一度、海の前に立ちましたね。

 最初に来たときより、日がずいぶん長くなっていました。

「日が長くなったね」

 あなたは、そう言いました。

 私は、それがとても嬉しかったんです。

 あなたと初めて松島へ来たときには、冬がまだ残っていました。

 それから季節が進んで、春になって、私はまたあなたの隣に立っていました。

 最初の日には、これからも会えるかもしれないと思っただけで、あんなに嬉しかった。

 五月一日には、会えるかもしれない人ではなく、本当にあなたがそこにいました。

 前に見た景色を、同じ人ともう一度見ることができる。

 それが、こんなに幸せなことだとは知りませんでした。

 帰るころにも、空にはまだ明るさが残っていましたね。

 部屋まで歩きながら、私は、日が長くなったことを何度も考えていました。

 あの日から、ちゃんと時間が続いていたこと。

 冬の終わりに出会ったあなたと、初夏にまた一緒に来られたこと。

 私は、あの松島の夕方が大好きです。

 あの景色の中にいるあなたが、大好きです。


     *


 五月二日は、予定どおり、どこへも出かけませんでしたね。

 少し遅くまで眠って、近くのスーパーへ買い物に行って、一緒にお昼を作りました。

「何を手伝えばいい?」

 あなたがそう聞いてくれたので、私は、野菜を切ってくださいとか、お皿を出してくださいとか、いろいろお願いしました。

 食べ終わったあとも、二人で片づけましたね。

 特別なことは何もしていないのに、私はとても嬉しかったんです。

 一緒に暮らせば、こうして毎日、二人で買い物をして、ご飯を作って、食べて、片づけるのですね。

 ほんの少しだけ、あなたと暮らしているような気がしました。

 夕食は、あなたが作ってくれました。

 きつねうどんと、炊き込みご飯。

 あまりにおいしくて、私はびっくりしました。

 それから、少しだけ焦りました。

 私よりあなたの方がお料理が上手だったら、どうしようと思ったんです。

 そんな私に、あなたは、

「真知子の料理が、一番おいしいよ」

 と言ってくれましたね。

 あれは、私を安心させるためだったのでしょうか。

 でも、嬉しかったから、本当だったことにしておきます。

 食事のあとも、ずいぶんいろいろなことを話しました。

 二人とも弁護士になったら、同じ事務所で働けるのかと、私が聞きましたね。

 あなたは、最初は別々の事務所で修業して、それから二人で独立するなら、十分にあり得ると言ってくれました。

 私はすっかりその気になって、二人の事務所の名前を考え始めました。

「エス法律事務所?」

「君の名前は入れないの?」

 あなたにそう言われたことを覚えています。

 エス泉田法律事務所。

 泉田エス法律事務所。

 エスアイ法律事務所。

 アイエス法律事務所。

 あまり立派な名前は思いつきませんでしたけれど。

 でも私は、いつか本当に二人で事務所を開くときに、またこうして相談するのだと思っていました。

 そのときには、もっと色んな案を考えてみよう。

 あの日は、二人の名前を並べられるだけで、嬉しかったんです。

 私たちの間に生まれる子どもの名前も、いつかこんなふうに二人で考えるのだと思っていました。


     *


 私のすぐ横には、あなたの顔がありました。

 私は黙ったままで、あなたは少し困ったように、そこにいました。

 入学式の日と、まったく同じでした。

 気づいたときには、私はあなたの肩口に噛みついてしまっていました。

 少し金属のような匂いがしました。

 どのくらい、私はそのままでいたのでしょう。

 不思議と、あなたは私を振り払うこともしませんでしたね。

 それから、自分がしたことに気づいて、私は大泣きしてしまいました。

 まさか自分がそんなことをするなんて、思ってもみませんでしたから。

 とにかく、自分でもびっくりしてしまって。

 あなたは、そんな私を抱きしめてくれました。

 あなたの腕の感触は、今でも思い出せます。

 力強いのに、少しも苦しくありませんでした。

 私のすべてを、何も言わずに受け入れてもらえたような安心感。

 何も怖がらなくていいよって、大丈夫だよって。

 あのときだけは、この世界に、あなたと私しかいないようでした。

 あなたが私にくれた、最後の大切な思い出です。


  平成七年二月八日

            真知子


    * 


 手紙は、ここで終わっていた。

 末尾の文字の周囲では、紙の繊維がわずかに波打ち、一部がにじんでいる。



(本編 了)

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