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ザラメ砂糖綺譚  作者: maki_senokouji


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3 エピローグ


平成7年2月10日


 真知子の亡骸との対面について、エスが後に思い出せることは、ほとんどなかった。

 通夜と葬儀にも参列していたが、すでに消耗しきっていて、誰かと何かを話せるような状態ではなかった。

 それでも、真知子の父親に、

「君は、ここに座るべきだ」

と言われ、親族席の末席に座った。

 それが好意によるものなのか、ほかの意味があるのか、エスには分からなかった。

 ただ、従うほかなかった。


 そこで、嫌でも親族たちのひそひそ話が耳に入った。

「警察が、いろいろ調べたんだって。いやねえ」

「なんでも真知子ちゃん、最後に、別れた彼氏さんと一緒に行ったところを巡っていたそうよ」

「どうして分かるの?」

「持ち物を調べたり、あちこちで聞いたりしたんじゃないかしら」

「それで、その彼氏さんに振られちゃって、恨んで、ということ?」

「そこがよく分からなくて、付き合っていた相手って、二人いるらしいのよ」

「えっ。あの真知子ちゃんが?」

「そうそう。一人は大学の同級生で、もう一人は東京の大学に通っていたらしいの」

「地元はこちらの方?」

「それが違うらしくて。真知子ちゃん、東京なんて修学旅行くらいしか行ったことがなかったでしょう。どうして東京に彼氏がいたのか、そこも分からないらしいのよ」

「それで? 三角関係のもつれ?」

「真知子ちゃんがねえ」

「そんなことをする子じゃなかったのにねえ。やっぱり、都会に出ると」

「それで、その彼氏さん二人はどうしているのよ」

「これは本当に極秘の話らしいんだけれど、今日も来ているって」

「えっ、それって……」

二人が、周囲を見渡した。

「でも、もう式は終わっているから、帰ったんじゃないかしら」

「それで結局、真知子ちゃんは、どうして亡くなったの?」

「松島の海に身投げだって」

「この季節だから、海に入ったらすぐ心臓が止まって、ほとんど苦しくはなかっただろうって、さっき聞いたけれど」

「それで、松島がその彼氏さんとの思い出の場所ってこと?」

「どちらの彼氏かは知らないけれどね」

「なんか、五大堂の扇子を握りしめていたそうよ」

「この季節に扇子なんだから、きっと彼氏さんとの思い出の品ね」

「真知子ちゃん、健気よねえ」

「本当。その彼氏って、何か社会的な制裁を受けさせられないのかしら」

「あんないい子を、もてあそんで」

「そうよねえ」

「これも聞いた話なんだけれど、真知子ちゃん、頑張って念願の東北大に入ったのに、入学してすぐのころから、東京へ行きたい、早稲田を受け直したい、それが無理なら東京で就職するって、ご両親に言い張っていたそうなの」

「まあ」

「それで、早々に休学したのが、ご両親に書類が届いてばれて。本当に大げんかになったそうよ」

「お父さんが十日くらい実家に閉じ込めて、本人を落ち着かせて、すぐ復学させてって、すったもんだがあったそうなの」

「そんなにしてまで、東京へ行って、その彼氏と一緒になりたかったということよねえ」

「せっかく東北大まで入ったのにねえ」

「でも、やっぱり女の子を一人で都会に出すって、怖いことなのねえ」

「頭のいい子だからって、無理に遠くへ出さなくてもよかったのかもしれないわね」

「地元にいたって、立派な人はいくらでもいるもの」

「そうよ。こちらでいい人を見つけて、普通にお嫁に行っていればよかったのにねえ」

「結局、東京の男に出会ったのがいけなかったのかもしれないわね」

「その人が、真知子ちゃんをちゃんと受け止めてくれていたらねえ」

「その彼氏、本当に今、どこで何をしているのかしら」


 初めて聞く話もあった。

 だからエスは、必死に耐えて聞いていた。

 やがて、その二人が別の親族を相手に、また違う話を始めた。

 混乱する頭でとにかく外の空気を吸いに出た先に、鈴木がいた。


「おや、噂の彼氏さん。ずいぶん悪者にされて、気の毒だね」

「君は、あまり噂話を聞いていないから知らないだろうけれど」

「君がひどい振り方をして、彼女がショックを受けたって、もっぱらの評判だよ」

「お腹に子どももいたとか。あはは。冗談だよ」

「僕とはもう、きれいに別れたあとのことだから。その後は知らないけどね」

「どちらかといえば、僕は、彼女の浮気に最後まで悩まされた被害者だよ」

「彼女には本当に騙された。結局、君たち、切れてなかったんだろ」

「最後には、君のところへ戻りたいって、泣いて言われたよ」

「それなら、ご自由にどうぞって言ってやった」

「僕と一緒にいる間、彼女が君に連絡していた形跡はなかったけれど、いつ君たちは連絡を取ってたんだい」

「ちょくちょく東京へ行ってたのかな。それとも、ほかにも男がいたのかな」

「まあ、いまさら、そんな手口を聞いても仕方ないけれど」

「ずっとおかしいとは思ってたんだよね」

「僕に抱かれても、なんだか上の空で。声を出すのも、なんだかわざとらしくてね」

「最初のころは、ずいぶん燃えていたみたいだけど」

「前の男とも、もちろん、ヤッてたって本人も言ってたし」

「それなのに君は、あいつを抱いてやらなかった」

「だから僕が、満足させてやったんだ」

「最初の三か月くらいは、まあ、外聞もあるし、彼氏彼女みたいに振る舞っていたけれど」

「あとはもう、ほとんど放置さ」

「あんな女じゃなくても、僕が声をかければ、喜んでつきあってくれる子はいくらでもいたしね」

「僕一人で満足できるような女じゃなかったのかもしれないね」

「僕と付き合っている間も、頭の中では別の男のことを考えていたんだから」

「僕はあいつに言ったよ」

「抱きもしない男が、本気なわけがない」

「責任を負う覚悟がないだけだってね」

「実際、そうだったんだろ」

「甘い言葉の一つも言えない」

「女として求めることもできない」

「淋しがっていることにすら気づかない」

「君が大事にしていたつもりの女は、君の隣で、ずっと自分が愛されているのか分からずにいたんだよ」

「大切にした?笑わせるなよ」

「手を出さないことが愛情だと思ってたのか」

「自分が傷つきたくないから」

「責任を負いたくないから」

「きれいな恋愛ごっこに逃げてただけだろ」

「あいつをああしたのは、僕だと思ってるのか。違うな」

「最初に壊したのは、君だ」

「愛してるとも言えない」

「抱くこともできない」

「なのに、自分だけはあいつに愛されてると思ってた」

「ずいぶん都合のいいことだな」

「僕を恨む前に、自分があいつに何を与えなかったのか、考えた方がいいよ」

「あいつが最後まで君を愛してたって? だから何だよ」

「愛されてたくせに、何一つ返せなかったってだけだろ」

「最後には、君を忘れられないって言われたよ」

「久しぶりに体に触ろうとしたら、『それ以上近づくと、ここで私は死にます』だとさ」

「そこまで言われたら、僕だって白けるさ」

「そんな面倒な女を、いつまでも相手にしていられない」

「だから、きれいに別れてやったんだ」

「どうしたよ? こんなに挑発しているのに、一発殴ることもできないの」

「こんな男のことを最後まで思い続けた真知子も、哀れだね」


鈴木の言葉は覚えている。

それ以外のことは、今になっても、ほとんど思い出せない。


     *


 葬儀の日の晩、実家に泊めてもらったが、私は話にもなにもならずに、ただ、真知子さんがこうなったのは自分のせいだと泣き崩れるばかりだったらしい。

 真知子の生前の様子などは両親は何も聞けず、ただ、私が真知子の最後の手紙を差し出して、私にこれを持っている資格はありません。ただ、真知子さんが幸せだったと言ってくれた思い出が詰まっていますから、お父さんお母さんで優しく受け止めてあげてくださいと。

 あとは泣きじゃくるだけで、翌日東京に帰っていったそうだ。


     * *


 そして私は、真知子のことをすべて忘れた。


     * *


平成17年2月10日


 私は学生時代から十年、毎年、学生時代に自殺した女友達の福島の実家に、命日の二月、お墓参りに行っていた。

 行くと必ず彼女の実家に立ち寄り、彼女の両親は、まるで東京に出た娘夫婦の年一回の帰省のように、ごちそうを作って、私のことを歓待してくれていた。私の最近の仕事の様子を聞いてくれ、彼女の子どものころの思い出話をいつも懐かしそうに話してくれた。

 ただ、私の結婚や子どもが生まれたことなどは、話すと微妙な空気になるため、私の家庭のことはあまり話題にしなくなった。

 きっと、娘さんも誰かと結婚して、可愛い孫が産まれてと、得られなかった幸福を考えてしまい辛いのだろうと私は思っていた。


 しかし、十年目の今日、お墓参りを済ませて彼女の実家に立ち寄ったのだが、いつもとは雰囲気が違った。ごちそうはいつもどおりだったが、両親は明らかに口数が少ない。どうしたのだろうと思いながら、私がいろいろと話題を振るが、両親は終始優しく微笑むだけ。

 そして食事が終わり、今年は早めにお暇した方がよいのかなと考えていると、彼女の父親がつと立って隣の仏間へ行き、引き出しを開け閉めする音がしたと思うと、ずいぶん厚い封筒を持って来て、私に手渡す。

 やはりこれは、君に返した方がいい。娘も、そう思っているはずだから。

 もし君が負担だったら、燃やすなりなんなり君が処分してくれれば、娘も納得すると思います。

 この十年、ありがとう。

 もう君も家庭を持って前を向いて歩いているのだから、娘の墓参りは、今年で最後にしてもらいたい。


 私は突然の申し出に驚くが、彼女の父の表情は有無を言わせないものがあり、そのまま駅まで送られて、電車に乗る。

 渡された封筒は、表書きに私の住所と名前が書かれ、切手も貼られて、消印がある。しかし古びた消印の日付までは、もう読み取れなかった。

 私宛の郵便がなぜ彼女の実家にあるのか、なぜか私には記憶がない。こんな長い手紙をもらった記憶もない。彼女と私は、ただ少し仲が良かった学生時代の友達というだけのはずだった。

 しかし、その表書きの字には、既視感があった。


 真知子の最後の手紙。


 私の記憶を呼び戻すには、十分な力があった。

 亡くなる前に彼女が真心を込めて、私に贈ってくれた彼女の心そのものだったから。


     *


 真知子は、二人の将来のために動こうとしていた。

 私の知らないところで、実際に現実を変えようとしていた。

 私は、それを彼女の未熟な衝動だと思った。

 けれど、現実を変えようとしていたのは、真知子の方だった。

 私は、正しい言葉を並べて、彼女の進もうとした道を塞いだ。

 そして、自分のことは何一つ変えなかった。

 私は、真知子が恋に目を曇らせていると思っていた。

 目を曇らせていたのは、私だった。

 真知子は、大学を辞めることも、早稲田を受け直すことも、東京で働くことも考えていた。

 どれも、私と一緒に生きるためだった。

 しかし私は、彼女の夢を捨てさせないためだと思って、真知子を仙台に留めた。

 それならば、私が仙台へ通うべきだった。


 毎週でも。

 金がなければ、夜に働いて。

 眠れなくても、深夜バスに乗って。

 それでも単位は落とさず。

 会うたびに、情熱的に彼女を抱いて。

 すべて、私たちが愛し合うために。

 共に人生を歩むために。


 それをしなかった私に、真知子の選択を未熟だと言う資格はなかった。


     *


平成20年4月


 三年前、真知子の父から、真知子の最後の手紙を返された。

 私は、彼女から自分がどれほど愛されていたのかを、思い出した。

 そして、そんな彼女を失ったのは自分の責任だと、以前にも増して自分を責めるようになった。

 死にたくなるたびに、真知子の最後の手紙を読んだ。

 私は、真知子が大切にしてくれた私たちの思い出に顔向けできる生活をしているのか。

 何度も読み返すうちに、私はようやく、真知子が生きていたころから、ずっと私に望んでいたことを理解した。

 私が、私らしく、自分の人生を全力で生きること。

 真知子は、そんな私と一緒に、自分も全力で生きたかったのだ。

 そして、死を決意したあとも、私に対するその願いだけは変わらなかった。

 学生時代、真知子のためにできたはずのことを、私はいま、真知子が望んでいた私自身の人生のために、やろうと思った。

 私は、会社での仕事を続けながら、夜と週末に勉強した。

 学生だったころ、真知子と生きるために使うべきだった時間も、体力も、自制心も、今度はすべて、自分の人生を前へ進めるために使った。

 そして、自分に可能な最短の年数で最終合格し、司法修習を終えて、弁護士として登録した。


     *


 私はすぐに、真知子の墓前へ報告に行った。

 そのあと、真知子の両親にも会った。

 あの日以来、初めて、穏やかに話すことができた。

 私が真知子の両親に伝えたかったのは、弁護士になったという報告だけではなかった。

 真知子が生前から望んでいたことを、ようやく理解できた。

 真知子は、私に、真知子のためだけに生きてほしいと思っていたのではない。

 私が私らしく、自分の人生を全力で生きること。

 そして、その私と一緒に、自分も生きること。

 真知子が望んでいたのは、それだったのだと、私は話した。

 私の話を聞き終えると、真知子の父は、しばらく黙っていた。

 やがて、真知子の母の方を見て、深く頷いた。それから、仏間へ入っていった。

 戻ってきたその手には、一通の封書があった。

 真知子が使っていたあの青い手紙セットの封筒だった。

 表には、ただ、「エスえす様」とだけ彼女の手で書かれていた。

 それを見ただけで、真知子の遺書だと分かった。

「真知子から、私たちに宛てた手紙に書いてあった」

 真知子の父は、封筒を両手に持ったまま言った。

「君が、この手紙を受け取れるようになったときに渡してほしい、と」

 私は何も言えなかった。

「今日の君の話を聞いて、君の顔を見て、真知子が言っていたのは、きっと今日のことだったのだと思った」

 そして、真知子の父は、封筒を私の前へ差し出した。

「これが、本当に最後の、真知子から君への手紙だ」


     *


えすさん


 私は、あなたを裏切ることで、生きようとしました。

 しかし、あなたを忘れて生きることなど、私にはできませんでした。

 そして、この世から自ら去るという、あなたに対する最も大きな裏切りしか、選べなくなってしまいました。

 そんな状態になるまで、誰にも助けを求められなかったのは、私の弱さです。

 今の私にはもう、あなたの前にすべてを投げ出し、助けてくださいとお願いする力が残っていません。


 こんな私にも、何かできることが残っていないか、考えました。

 その答えが、あなたに送った最後のお手紙です。

 あなたと一緒に過ごした幸せな時間をお手紙にして、あなたに届けようと思ったのです。

 私の死だけを、あなたの心に残すことはしたくありませんでした。あなたとの思い出は、私の中にきれいなまま残っていたよと、それだけを知らせたくて。


 私は自らを汚してしまいました。

 でも、あなたに大切にしてもらったたくさんの思い出のおかげで、私の中の、いちばん大切な宝物だけは、最後まできれいなまま失わずにすみました。

 あなたには、たとえ泥にまみれても、誰かの中に残っているきれいなものを、見つける人でいて欲しい。

 私の最後のわがままなお願いです。


 いままでありがとう


えす 愛しています   真知子


    平成七年二月八日



  * *


令和12年5月


 まぶしい光の中、エスは久しぶりに松島に来ていた。

 いつもの海が見えるベンチのそばで、しばらく景色を眺めていた。

 やがて、エスは海に向かってつぶやいた。


 「いずみ」という女性が、俺のドブさらい弁護士人生をともにしてくれると言うので、二人で事務所を構えた。

 本当に、アイエス法律事務所になっちゃったよ。

 君が言ってた、泥にまみれても光り輝く、依頼者の人生の宝物。

 それを探し出して、守る手伝いが、少しでもできればいいと思ってる。

 俺は俺が思うようにやるから、見守っててくれ。


 ひととおり話し終えると、エスは小さく息をついた。

 そして鞄を開け、持ってきたカステラを取り出した。


 君の好物をまたここで一緒に食べようと思って、持って来たんだ。


 君が言っていたとおりだ。

 たしかに底のザラメ、きれいだね。



(ザラメ砂糖綺譚・完)

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