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ザラメ砂糖綺譚  作者: maki_senokouji


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1 プロローグ


平成6年2月26日


 仙台の駅頭にて、えらく大きな荷物をコインロッカーに入れようと悪戦苦闘していた女の子あり。

 年格好からみて、たぶん同じく受験生であったろう。

 手伝ってやると、お礼にお茶にでも誘おうかともじもじしている様子。

 面倒くさくて、私はさっさとその場から立ち去ってしまった。


  おおげさな荷物かかえしか弱き子は

  我が志望校へ通いたるや

 


 私の大学受験一浪のときの日記である。

 これは、嘘ではない。

 私はたしかに、彼女を手伝ったあと、その場から立ち去ろうとした。

 ただ、この日記には、そのあとのことが書かれていない。


     *


 その女の子は、コインロッカーの前で、大きな旅行鞄を両手に抱えていた。

 空いているのは、いちばん上の段だけだった。

 彼女は鞄を胸の高さまで持ち上げ、そこから先は腕の力だけで押し込もうとしていた。けれど、鞄の底がロッカーの縁にぶつかるばかりで、なかなか中へ入っていかない。

 一度、鞄を床に下ろした。

 息を整え、両手を組み直し、今度こそはという顔でもう一度持ち上げた。

 やはり届かなかった。

 背伸びをしているつもりなのだろうが、かかとが床からほんの少し離れるだけで、鞄はほとんど上がっていかなかった。

 それでも彼女は諦めようとしなかった。

 もう一度鞄を下ろし、今度は少し離れたところから勢いをつけた。二、三歩進んで、えい、と鞄を持ち上げる。

 さっきより低い位置までしか鞄は上がらず、鞄の角がロッカーの扉に鈍い音を立ててぶつかった。

 彼女は、その音に驚いて動きを止めた。そして、誰かに見られていなかったか確かめるように、そっと辺りを見回した。

 私と目が合った。

 彼女はすぐに目をそらした。

 そして助けを求めるでもなく、もう一度自分でやってみようとしているらしかった。

 私はしばらく眺めていたが、このままでは鞄かロッカーか、あるいはその両方が壊れると思い、声をかけた。

「それ、入れましょうか」

 彼女は振り返った。

 ひどく驚いた顔をしたあと、すぐに、

「大丈夫です」

 と言った。

 どう見ても大丈夫ではなかった。

「そこ、上しか空いてないんでしょう」

「はい。でも、もう少しで入ると思います」

 彼女はそう言って、床に置いた鞄を見た。

 上品な造りの鞄は、持ち主の扱いに少々ふてくされているように見えた。

「貸してください」

 私が手を差し出すと、彼女は少し困った表情を浮かべた。それから、申し訳なさそうに鞄の持ち手をこちらへ向けた。

「すみません。かなり重いんです」

 言われなくても見ていて分かった。

 そして受け取ってみると、見た目以上に重く、彼女が意外に善戦していたのが分かった。

「何が入ってるんですか」

「着替えと、本と、それから、いろいろです」

「受験生ですか」

「はい」

 彼女は恥ずかしそうに笑った。

「心配になって、念のためにいろいろ入れているうちに増えました」

 私は鞄を持ち上げ、上段のロッカーへ押し込んだ。荷物の角を少し傾けると、今度はあっさり中へ収まった。

 彼女は目を丸くした。

「すごい」

「すごくはないです」

「でも、私、ずっとやっていたんです」

「見ていました」

 そう言うと、彼女はますます恥ずかしそうな顔をした。

 硬貨を入れ、扉を閉めた。鍵を回すと、彼女はほっとしたように息を吐いた。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 私はそれで終わりのつもりだった。

「じゃ」

 彼女が何度も頭を下げるのを背に、歩きだした。

 二、三歩。

「あの」

 後ろから、小さな声がした。

 はじめ、自分が呼ばれたのか分からなかった。

「あのー、すみません」

 今度は少し大きかった。

 振り返ると、彼女はさっきのロッカーの前に立ったまま、私の方を見ていた。

「どうしました」

「ポシェットがないんです」

 彼女は自分の肩から腰の辺りを自分で触ってみせた。

「さっきまで、ここに掛けていたんです」

「落としたとか、どこかに置いてきたとか」

「鞄をここに入れているときにはあったと思うんです」

 彼女の足元にも、ロッカーの周囲にも、さっき鞄を置いていた床にも、ポシェットらしき物がないのは明らかだった。

 彼女はゆっくりと、ロッカーの上段を見上げた。

 私も同じところを見た。

「鞄と一緒に入れたんじゃないですか」

「まさかそんなこと」

 彼女はそう言ったものの、その語尾はまったく自信なさげだった。

「肩に掛けたまま、鞄をロッカーに入れようとして持ち上げていたんですよね」

「はい」

「途中で邪魔になって、外しませんでしたか」

 彼女はしばらく動かなかった。

 やがて、ひどく小さな声で言った。

「外しました」

「どこに置きました」

「鞄の上に置いたような……でも、落ちそうになって、もしかしたら、横のポケットに押し込んだかもしれません」

 言い終える前に、彼女は鞄を見上げたまま、これまでとは違うずいぶん頼りない表情になった。自分でも、そこに入れたと分かってしまったらしい。

「この中に入ってそうですね」

「入っていると思います」

 彼女は鍵を握りしめたまま、目に見えて落ち込んだ。

「開ければいいでしょう」

「やっと入ったのに」

「また入れますよ」

「またお願いしてもいいんでしょうか」

「大した手間じゃありません」

 私は鍵を受け取り、ロッカーを開けた。

 鞄を引き出すと、小さなポシェットは横のポケットに、妙に行儀よく収まっていた。

「ありました」

 彼女は両手でそれを受け取った。

 見つかったことを喜ぶより、自分が本当に鞄と一緒に入れていた事実に打ちのめされているようだった。

 目の縁が赤くなっていた。

「まあまあ」

 私はどう慰めればよいか分からず、しばらく考えた。

「街でなくすよりは、だいぶましだったじゃないですか」

 彼女は涙目のまま、私を見た。

「そうでしょうか」

「見つかったんだから、いいでしょう」

「はい」

「誰かに盗られたわけでもない」

「はい」

「中身も全部あります」

「はい」

「それなら、だいぶましです」

 彼女はそれほど納得してはいないようだった。

 それでも、少し間を置いてから、小さく笑った。

「慰めるの、あまり上手ではないですね」

「そうですね、ごめんなさい」

「いえ、そんな」

 彼女はちょっと慌てた様子で、ポシェットをしっかり斜めに掛け直した。今度は外さないと決めたように、紐の部分を片手できゅっと握っている。

 再び硬貨を入れ、私は鞄をロッカーへ戻した。

 扉を閉めてから、念のため訊いた。

「今度は余計なもの何も入れていませんね」

 彼女は自分の肩と両手を確かめた。

「たぶん」

「たぶんでは困ります。お財布とか、中にちゃんと入っていますか」

 彼女はもう一度、ポシェットを押さえ、中も確認した。

「大丈夫です。あります」

「じゃ、」

 私は鍵を渡し、今度こそ立ち去ろうとした。

「あの」

 また呼び止められた。

 振り向くと、彼女はさっきよりも困ったような顔をしていた。

「お急ぎですか」

「いや別に」

「でしたら、その」

 彼女はポシェットの紐を両手でつまみ、言葉を探すように少しうつむいた。

「何度も手伝っていただいたので、お茶でも、ごちそうさせてください」

「別にいいです」

「でも、二回も」

「荷物を上げただけです」

「二回です」

「回数は関係ないでしょう」

「私にはあります」

 彼女は顔を上げた。

 目の縁にはまだ少し赤みが残っていたが、もう泣きそうな顔ではなかった。

 その代わり、断られたらどうしようという不安が、そのまま顔に出ていた。

 私は少し迷った。

 このあと、特に予定はなかった。ウイスキーの小瓶とつまみでも買って、上野まで各駅停車の車窓を楽しみながら帰ろうと思っていたところだった。

 正直に言えば、私は若い女性と一対一で話した機会がほとんどなく、一人でいる方が気楽だった。

 しかし、目の前の彼女のこの必死さを無駄にするのも、何か違うなと思った。

「では、このあたりの喫茶店にでも」

「はい、ぜひ」

 彼女の顔が、急に明るくなった。

 こんなことで彼女に喜んでもらえるのは私にとって少し意外だったが、悪い気はしなかった。


     *


 駅の中の喫茶店は、試験を終えたらしい若者や、旅行鞄を足元に置いた客で混み合っていた。

 私たちは入口で少し待たされ、窓際の二人掛けの席へ案内された。

 彼女は椅子に座る前に、胸元のポシェットへ手を当てた。肩から斜めに掛かった紐を目でたどり、口を開けて中をのぞく。財布を取り出すと、それを両手で持ったまま、ようやく腰を下ろした。

「今度は、ちゃんとあります」

「それはよかった」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

 私たちは向かい合わせに座った。

 私は、女の子と二人だけで喫茶店へ入るのは、これが初めてだった。

 中高六年間を男子校で過ごした私は、同じ年頃の女性とどのように話せばよいのか、全く想像ができていなかった。

 彼女がメニューを開いたので、私もメニューを開いた。

 店員が来るまで、二人とも何も言わなかった。

 私はブレンドコーヒーを、彼女は紅茶を頼んだ。

 注文を取り終えた店員が離れると、テーブルの上には、また沈黙が残った。

 彼女は膝の上の財布を一度開き、すぐに閉じた。

 顔を上げかけては目を伏せ、それから意を決したように私を見た。

「あなたも今日、試験だったんですか」

「はい」

「東北大学ですか」

「はい」

「何学部ですか」

「法学部です」

 彼女が目を見開いた。

「私もです」

「そうですか」

「同じ試験を受けていたんですね」

「はい」

「では、どこかですれ違っていたかもしれません」

「そうかもしれません」

 彼女の顔がこれまでよりさらに明るくなった。

 その程度の偶然を、なぜそれほど喜ぶのか、私には分からなかった。

 けれど、彼女が喜んでいることは分かったし、それを見ていて私もすこし嬉しくなった。

「受験番号は何番でしたか」

 私は番号を答えた。

 彼女も自分の番号を言った。

「かなり離れていますね。でも、同じ建物だったかもしれません」

「はい」

「今年の問題、難しくありませんでしたか」

「難しかったです」

「やっぱり、そうですよね。私、最後まで迷った問題があって。いったん書いた答えを消して、別のものにしたんですけれど、終わってから考えると、最初のほうがよかった気がしてきて」

「そうですか」

「でも、もう直せませんものね」

「はい」

「全部書けましたか」

「一応」

「時間は余りましたか」

「少しだけ」

「すごいですね」

「あまり出来には自信がありません」

「私も全然自信ないです」

 言葉とは裏腹に、彼女は笑顔だった。

 そして、コインロッカーの前にいたときよりもずいぶん明るい声になっていた。

 紅茶と珈琲が運ばれてきた。

 彼女は角砂糖を一つ入れた。

 少し迷ってから、もう一つ入れた。

「頭を使ったあとは甘いものが欲しくなりますよね」

「はい。今日は試験が終わったので、二つ入れてもよいことにしました」

「そうですか」

「普段は一つです」

「はい」

「本当です」

「はい」

 疑ってはいなかった。

 けれど、彼女は弁明するように、もう一度言った。

「今日は特別なんです」

「分かりました」

 ようやく安心したように、彼女は紅茶をかき混ぜた。

 一口飲み、すぐにカップを置いた。

「熱かったですか」

「少し」

「急がなくてもいいと思います」

 こんな会話でも、私は少し緊張していた。

 彼女はしばらく私の顔を見て、それから、小さく笑った。

「はい。そうします」

 私は珈琲を飲んだ。

 やはり熱かった。

 けれど、何でもない顔をして飲み込んだ。

「お名前を伺ってもいいですか」

 彼女が言った。

「エスえすと言います」

 彼女は一度聞き返し、口の中で小さく繰り返した。

「私は、泉田真知子です」

「泉田さん」

「真知子で結構です」

 言ってから、少し早すぎたと思ったらしい。

「あ、でも、お呼びになりにくければ、泉田で」

「真知子さん」

 私が言うと、彼女は目を伏せた。

「はい」

 今度はゆっくりと紅茶を飲んだ。


     *


 名前を教え合ってから、真知子は急にたくさん話すようになった。

 どの科目が得意なのか。

 大学へ入ったら何を学びたいのか。

 将来は法律家になりたいのか。

 高校では何をしていたのか。

 私は訊かれたことに、一つずつ答えた。

 答えはたいてい短かった。

 真知子は、それを嫌がらなかった。

 私が答えるたび、その答えの中から次の質問を見つけた。

「部活動はしていましたか」

「中学のときに少しだけ、バスケットボール部にいました」

「少し、ということは、やめたんですか」

「はい」

「どうしてですか」

「向いていなかったので」

「どのくらい続けたんですか」

「一年と少しです」

「一年は続いたんですね」

「はい」

「それなら、まったく向いていなかったわけではないと思います」

「そんなものですか」

「はい。私は、向いていないと思ったら、もっと早く一か月くらいでやめてしまうかもしれません」

 私は、部活動をやめたことを、そのように言われたことがなかった。

 自分の能力から続かなかったことだと思っていた。

 真知子は、一年続けたこととして評価した。

「試合には出ましたか」

「いえ、選手としては。試合ではいつも、オフィシャルという審判の裏方をやっていました」

「責任のあるお役目ですよね、やりがいはありましたか」

 私は少し考えた。

「そうですね。選手でなくても少しでも役に立てればとは思っていました」

「そういうのも素敵だと思います。みんながみんな表舞台で活躍するわけではありませんもの」

「そんなものですかね」

 真知子は満足したようにうなずいた。

 私自身がとうに片づけたつもりでいたことを、彼女は一つずつ取り出し、表と裏を確かめ、別の場所へ置き直していくようだった。


「本は読みますか」

「多少は」

「どんな本を」

「最近は歴史の本が多いです」

「昔の人物が好きなんですか」

「人物というより、出来事のつながりが好きです」

「つながり」

「何かが起きたとき、その前後に何があったのか、ということです」

「では、結果だけでなく、どうしてそうなったのかを考えるのがお好きなんですね」

「たぶん」

 そんなふうに言われたことはなかった。

 けれど、間違ってはいないように思えた。


 真知子は質問を続けた。

 私がどんな町で育ったのか。

 家から学校まで、どのくらいかかったのか。

 兄弟はいるのか。

 休日には何をしていたのか。

 好きな食べ物は何か。

 学校で親しくしていた者はいるのか。

 私は一つずつ答えた。

 特に自分を立派に見せようとも思っていないから、淡々と答えた。

 学校に自分より成績のよい者がいたかと訊かれれば、たくさんいたと答えた。

 先生に期待されていたかと訊かれれば、分からない、と答えた。

 失敗したことはあるかと訊かれれば、たくさんあると答えた。

 真知子は、私の顔を見ながら聞いていた。

 私が真剣に、訊かれたことへ、ただ、そのまま答えていること。

 それが分かるにつれて、真知子の質問は増えていった。

 私の答えに対する真知子の反応も、どんどん表情豊かになっていった。

 訊きたいことを思いつくと、少し身を乗り出す。

 私の返事が終わっていないことに気づくと、慌てて姿勢を戻す。

 そして最後まで聞いてから、待っていた質問を口にする。

 紅茶を飲むことも忘れ、しばらくしてから思い出したようにカップを持ち上げた。


「ところで」

 真知子が言った。

「はい」

「さきほど、私が鞄を入れようとしているところを、ずっと見ていましたよね」

「はい、ごめんなさい」

「いつからですか」

「最初に持ち上げたあたりからです。ずっと見続けていたわけではありませんが」

「そんなに前から」

 真知子は両手でカップを包み、少しうつむいた。

「でしたら、もう少し早く声をかけてくださればよかったのに」

「自分で入れたいのかと思いました」

「そうですけれど」

「それに、少し変わって見えたので」

 真知子が顔を上げた。

「変わって、ですか」

「はい」

「どのように」

 私は少し迷った。

 言わないほうがよいかもしれないと思った。

 けれど、真知子は答えを待っていた。

「子どものキタキツネみたいでした」

 真知子の動きが止まった。

「キタキツネ」

「はい」

「私が、ですか」

「はい」

 真知子の顔が、みるみる赤くなった。

「ど、どうして、キタキツネなんですか」

「上にある獲物を取ろうとして、何度も跳び上がっているように見えました」

「獲物」

「鞄です」

「鞄は獲物ではありません」

「はい」

「それに、キタキツネは、頭の上にある獲物を取ろうとするんですか」

「キタキツネの生態に詳しいわけではないので」

「では、どうして」

「まだ狩りに慣れていないかんじの幼いキタキツネに見えました」

 真知子は何も言わなくなった。

 両手で紅茶のカップを包み、うつむいている。

 耳まで赤くなっていた。

 私は、不安になった。

 女性を動物にたとえるのは、世の中では失礼なことなのかもしれない。

「ごめんなさい」

 真知子がすこし不思議そうに顔を上げた。

「何がですか」

「動物にたとえたことです」

「いえ」

「失礼だったかと」

「違います」

「では」

 真知子はまた目を伏せた。

 よく見ると口元は少し笑っていた。

「子どものキタキツネって、かわいいですよね」

「はい」

「とっても」

「はい」

「では、いいです」

 真知子は顔を赤くしたまま、紅茶をひと口飲んだ。

「怒っていませんか」

「まったく」

「そうですか」

「少し、嬉しかったです」

 言ってから、真知子はさらに赤くなった。

 私は何と答えればよいか分からなかった。

「そうですか」

 結局、それだけ言った。

 自分のコーヒーの味が分からなくなった。


     *


「ごめんなさい」

 少しして、真知子が言った。

「どうしましたか」

「私ばかり、質問してしまいました」

「そうですね」

 真知子は困ったように笑った。

「今度は、私に質問してください」

「何を」

「何でもいいんです。私ばかり、あなたのことを知ってしまうのは不公平ですから」

「そんなものですか」

「はい」

 私はしばらく考えた。

 真知子は、少し緊張した顔で待っていた。

「ご家族は」

「家族ですか」

「はい」

 真知子の顔が、また明るくなった。

「父と母と、弟が一人います。弟は中学生です」

「弟さんと仲はいいですか」

「はい。ときどき喧嘩はしますけれど。でも、かわいいです」

「そうですか」

「父は会社員で、母は家にいます。母は少し心配性で、今回も一人で仙台へ来るのを最後まで心配していました」

「それで、荷物が増えたんですか」

 真知子は少し考え、それから笑った。

「そうかもしれません。母が、これも持っていきなさい、あれも必要かもしれないと言うので」

「はい」

「でも、私も心配になって、さらに自分で荷物を増やしました」

「そうですか」

「だから母のせいだけではありません」

「はい」

 私は次の質問を考えた。

「動物は飼っていますか」

「犬がいます」

 真知子の声が、さらに弾んだ。

「柴犬です。もう七歳になります」

「名前は」

「ポン太です」

「大きいですか」

「少し太っています。父が人の食べ物をあげてしまうので。でも、獣医さんに叱られて、最近は減らしています」

「どんな性格ですか」

「はい。知らない人には最初だけ吠えます。でも、少しすると、すぐ尻尾を振ります」

「そうですか」

「とてもかわいいんです。写真を持ってくればよかった」

 真知子は本当に残念そうだった。

「今度、見せてください」

 自然と口にしてから、私は自分が「今度」と言ったことに気づいた。

 真知子も気づいたらしい。

 動きを止め、少し潤んだ瞳で私を見た。

「今度、ですか」

「はい」

「また、お会いしたときに」

「はい」

 真知子は、しばらく何も言わなかった。

 それから、大切な約束を受け取るようにうなずいた。

「必ず持ってきます」

 そのあと、私が訊かなくても、ポン太の話をさらに詳しく続けた。

 朝は父と散歩へ行くこと。

 雨の日は玄関から出ようとしないこと。

 真知子が勉強していると、机の下で眠ること。

 家族の中では、自分の言うことをいちばんよく聞くと思っていること。

 私は真知子の家族のことを訊き、犬のことを訊き、育った町のことを訊いた。

 真知子は、一つ訊かれると二つ、三つと話した。

 家から海までは、自転車で行けること。

 海の近くに住んでいても、毎日海を見るわけではないこと。

 冬は、雪よりも風のほうが冷たいこと。

 弟は反抗期のふりをしているけれど、本当は寂しがり屋であること。

 父は帰宅すると、家族より先にポン太へ声をかけること。

 母は心配性だが、自分はそれを嫌いではないこと。

 真知子は、自分の大切なものを、私の前へ一つずつ並べていった。

 私には、それが心地よく私の中のどこかに響くように思えた。

 そしてこのままもっと聞いていたかった。

 私の返事が短くても、真知子は会話が失敗したような顔をしなかった。

 次の言葉を待ち、出てこなければ、別のことを訊いた。

 私は、話し続けなければならないと思わなくてよかった。

 それが、ひどく楽だった。

 自分には、人に話すことなど何もないと思っていた。

 けれど、真知子に訊かれると、何かしら出てきた。

 忘れていたこと。

 話すほどでもないと思っていたこと。

 自分でも、どう考えているのか分からなかったこと。

 真知子は、それを笑わず、急かさず、聞いた。

 

    *


「どちらからいらしたんですか」

 私が訊いた。

「福島県です。浜通りのほうです」

「浜通り」

「はい。福島県は会津、中通り、浜通りに分かれていて、そのうちで海に近い町です」

「泉田さんというのは、旧相馬家にゆかりのある家と聞いたことがあります」

 真知子は瞬きをした。

「えっ、私の家をご存知なのですか」

「浜通りの泉田という姓なら、相馬家に仕えた家があったように記憶しています」

 口にしてから、自信がなくなった。

「うろ覚えだったら、ごめんなさい」

「いえ」

 真知子は驚いたまま、少し考えた。

「たしかに、遠い親戚の泉田さんが本家で、そちらは昔からの由緒正しいお家だと聞いています。うちは、ただの会社員の家ですけれど」

「そうですか」

「でも、うちのことまでご存じということは、こちらのご出身なんですか。それとも、ご親戚がいらっしゃるとか」

「いいえ」

「では、どうして」

「単なる日本史の知識です」

 真知子は私の顔を見た。

「これで、ぎりぎり早稲田には通りました」

「早稲田に合格しているんですか」

「はい」

「ああ。では、早稲田へ行かれるのですね」

 真知子の表情と声が明らかに沈んだ。

 視線を紅茶のカップへ落とす。

「いいえ」

 真知子が顔を上げた。

「東北大学が、今年の第一志望です。こちらでひとり暮らしがしたくて」

 その瞬間、真知子の表情が、その日いちばん明るくなった。

「では、一緒に大学へ行けるかもしれないんですね」

「ええ。受かれば、ですが」

「はい。受かれば」

 真知子は、嬉しさを隠そうともしなかった。

 まだ出会って間もない自分と同じ大学へ行く可能性を、なぜそれほど喜ぶのか、私にはよく分からなかった。

 ただ、その笑顔を見ていると、この子と一緒に東北大に通う学生生活は楽しそうだなと思った。


 真知子が、ふと腕時計へ目を落とした。

「時間、大丈夫ですか」

「あ」

 真知子は小さく声を上げ、ポシェットの中を探った。

 折り畳んだ観光案内を取り出し、テーブルの上へ広げた。

「帰る前に、松島へ行こうと思っていたんです」

「松島ですか」

「はい。せっかく仙台まで来たので、一人で見てこようと思っていました」

 真知子は時刻表を確かめた。

「まだ間に合います」

「では、そろそろここ出た方がいいですね」

「はい」

 そう答えながら、真知子はすぐには観光案内を畳まなかった。

「どうしました」

「いえ。もう少し、お話ししていたかったので」

「松島、一緒に行きますか」

 自分がそう言ったことに、私は少し驚いた。

 真知子はもっと驚いた顔をした。

「ご一緒してくださるんですか」

「私も特に予定はありませんから」

「でも、上野までお帰りになるのでしょう」

「まだ時間はあります」

 真知子は、観光案内を畳むのをやめた。

「では、一緒に行っていただいてもいいですか」

「はい」

 真知子は、その日何度目かの、しかしそれまででいちばん大きな笑顔を見せた。


 会計を済ませ、私たちは喫茶店を出た。

 真知子は観光案内を手に、もう早足になっていた。

「でも、走らないでください」

「はい」

「転びそうです」

「はい」

 返事をしながら、真知子はもう早足になっていた。

 私もそれに歩みを合わせた。


     *


 松島へ向かう電車の中でも、真知子は声を抑えて話し続けた。

 喫茶店で訊きそびれたことを次々に思い出すらしく、私の好きな動物や、学校の行き帰り寄り道をしたかとか、尊敬している先生はいるかなど、質問が続いた。

 私は一つずつ答えた。

 やがて真知子は、窓の外へも目を向けるようになった。

 何かを見つけるたび、少し身を乗り出す。

 そして、こちらを振り返る。

「見てください」

 私は窓の外を見た。

 川の上を、数羽の鳥が飛んでいた。

「あれですか」

「はい」

「きれいですね」

「はい」

 真知子は、それだけで満足したように笑った。

 私は鳥よりも、喜んでいる真知子の顔のほうをよく覚えている。

 松島に着くと、海から冷たい風が吹いてきた。

 真知子は片手で髪を押さえ、もう片方の手で観光案内を広げた。

 紙が風を受け、大きく震えた。

「飛びますよ」

 私が言うと、真知子は慌てて両手で押さえた。

「すみません」

「しまったほうがいいです」

「でも、道が」

「人についていけば、たぶん海へ出ます」

 真知子は周囲を見回した。

 駅を出た人々の多くが、同じ方向へ歩いていた。

「では、そうしましょう」

 観光案内を畳み、ポシェットへ入れた。

 私は、それが中へ収まるまで見ていた。

「入りました」

 真知子が言った。

「はい」

「今度は、覚えています」

「はい」

 私たちは海沿いを早足に歩いた。

 時間がないのに、真知子は目に入るものすべてが気になるらしかった。

 土産物屋の店先で足を緩め、海に浮かぶ島を見つけては立ち止まり、橋の下を飛ぶ鳥を見つけては振り返った。

「すみません。また止まってしまいました」

「はい」

「急がないといけないのに」

「一緒に来たんですから」

 真知子は、意味を確かめるように私を見た。

「先に行ったりはしません」

 それだけ付け加えた。

 真知子はしばらく何も言わなかった。

 それから、柔らかく笑った。

「はい」

 再び歩き始めると、真知子はさっきよりも近づいてきた。

     *

 五大堂の近くの土産物屋に、色とりどりの扇子が並んでいた。

 真知子は、その中の一本を手に取った。

 淡い色の地に、般若心経の文字が細かく書かれていた。

「きれいですね」

「はい」

 扇子を開くと、小さな文字が一面に広がった。

「お守りにもなりますよ」

 店の人が言った。

 真知子は、しばらくそれを眺めていた。

「受験のお守りにしようと思います」

「まだどこか受ける?」

「合格発表までは受験生です」

「そうですね」

 店の人が、同じ柄のもう少し濃い色違いを出してきて私に差し出した。

「お連れさんと、お揃いでどうですか」

 真知子が何か言おうとしたが、声は出なかった。

 私も、何と答えればよいのか分からなかった。

 店の人は、にこやかに私たちの返事を待っていた。

「では、これいただきます」

 私は色違いの扇子を受け取った。

 真知子は私を見た。

「よろしいんですか」

「はい」

「お揃いですね」

「はい」

 店を出てからも、真知子は何度もポシェットの上から扇子の包みに触れていた。


     *


 五大堂へ着いたころには、帰りの電車まで、あまり時間が残っていなかった。

 橋を渡りながら、真知子は何度も海を見た。

 立ち止まりたいのに、時間がない。

 進みながら振り返り、また前を向く。

「もっとゆっくり見たかったです」

 真知子が言った。

「はい」

「喫茶店で、話しすぎました」

「はい」

「私ばかり、たくさん質問してしまって」

「構いません」

 真知子は私を見た。

「本当ですか」

「はい」

「今度は、もう少し落ち着いて来たいですね」

「そうですね」

 真知子は海を見た。

 それから、少しだけ声を小さくした。

「一緒に」

「はい」

 真知子の顔が明るくなった。

「では、今度は、もっとゆっくり来ましょう」

「はい」

 それが、その日二つ目の約束になった。

 私は、それまで、誰かと先の約束をすることに、それほど意味を感じたことがなかった。

 けれど、そのときは、次に真知子に会う日が、もう自分の未来の一部になったように思えた。


     *


 帰りの電車では、真知子は行きより少し静かだった。

 話し疲れたのかもしれない。

 窓の外を眺めながら、ときどきポシェットの上から、扇子の入っている場所を確かめていた。

「ありますか」

 私が訊くと、真知子は笑った。

「あります」

「よかった」

「はい」

 しばらくしてから、真知子が言った。

「今日は、来てよかったです」

「はい」

 それ以上は言わなかった。

 私も訊かなかった。

 けれど、真知子の声が、少しだけ震えていた。

 私も、同じように思っていた。

 真知子と話しているあいだ、私は、自分をよく見せなければならないと思わなかった。

 話題を途切れさせないように、無理をする必要もなかった。

 黙っていても、真知子は私を置いていかなかった。

 訊かれたことへ答えるたび、自分の中に、まだ知らないものが残っているように思えた。

 こんなに柔らかい空気の中にいたことは、たぶんなかった。

 私はこれまで、何事にも、どこか適当だった。

 努力して失敗することも、期待して裏切られることも、できれば避けたいと思っていた。

 けれど、真知子が隣にいるなら、もう少し真剣に生きてもよいような気がした。

 少なくとも、次に会うまでに、今日訊かれたことへ、もう少しましに答えられる人間になりたいと思った。


     *


 仙台駅へ戻るころには、すっかり夜になっていた。

 私たちはコインロッカーへ向かった。

 真知子は鍵を取り出して上段の扉を開け、中に大きな旅行鞄が入っているのを確認した。

「ポシェットはありますか」

 私が訊いた。

 真知子は胸元へ手を当てた。

「あります」

「財布は」

「あります」

「観光案内は」

 ポシェットを開き、中をのぞく。

「あります」

「扇子は」

 真知子は、いちばん奥から包みを少しだけ取り出して見せた。

「あります」

「大丈夫そうですね」

「はい」

 私は鞄をロッカーから下ろした。

「常磐線の電車まで私が持ちます」

「新幹線のお時間は、大丈夫ですか」

「まだ二時間あります」

「では、発車まで一緒にいてくださいますか」

「はい」

 真知子が笑った。

 この笑顔のためなら、別に終電に遅れてもいいと思い始めている自分がいた。


 在来線の乗り換え通路を通り、階段を下りると、発車を待つ電車が見えた。

 それを見た途端、真知子の歩みが遅くなった。

 さっきまで私の隣を歩いていたのに、半歩、後ろへ下がった。振り返ると、真知子は唇を固く結んでいた。目の縁が赤くなり、息をするたびに鼻のあたりが小さく動いていた。

「合格発表は、見にいらっしゃいますか」

 声が震えていた。

 その言葉を聞いたとき、真知子が何を聞きたいのか、私にも分かった。

 私も、次に会えるとすれば合格発表の日だろうと考えていた。

 ただ、私の方から、また会ってほしいなどと言ってよいものか、分からなかった。今日一日一緒に過ごしたからといって、こんな可愛い人に次の約束まで求めるのは、厚かましいようにも思っていた。

「電報は申し込んでありますが、合格発表は見に来ます」

 真知子が顔を上げた。

「そのときに、また会えますか」

 言ってしまってから、大袈裟でなく天に祈りながら、私は真知子の返事を待った。

 断られることは当然あると思った。

 真知子は私を見つめたまま、何も答えなかった。

 次の瞬間、私の胸へ飛び込むようにして抱きついた。

 私は鞄を持ったまま、動けなかった。

 真知子の額が胸に当たり、両腕が私の身体に回された。胸元で、小さく息を詰めたのが分かった。

「真知子さん」

 真知子は私の胸に顔を押しつけたまま、何度もうなずいた。

「また、会ってくれますね」

「はい」

 ようやく聞こえた声は、泣いていた。

「私も、また真知子さんに会いたいです」

 真知子の腕に、力がこもった。

「今日だけで終わりにしたくありません」

「はい」

「合格発表までの間も、真知子さんとお話ししていたいです」

「はい」

 しばらくして、真知子は私から離れた。

 涙を拭おうともせず、泣きながら笑っていた。

「エスさんのご住所を教えてください」

「はい」

「電話番号も」

「はい」

 真知子はポシェットから小さな手帳を取り出して、ページを開き、私に差し出した。

「私、すぐにお手紙を書きます」

「待っています」

「必ず、お返事をくださいね」

「お手紙が着いたら、まず電話します」

 真知子は目を見開いた。

「お電話、くださるんですか」

「はい。それから返事を書きます」

「必ずですよ」

「はい」

「必ず、お電話くださいね」

「電話します」

 真知子は涙を浮かべたまま笑った。

「私、待っています」

 私はペンを借り、家の住所と電話番号を書いた。

 真知子は、私が書き終えるまで、その手元をじっと見ていた。

「ここへお手紙を出せば届くんですね」

「届きます」

「電話も、エスさんが出るんですね」

「まず出るのは、母かもしれません。あまり詮索しないように言っておきます」

「お母様とお話ししてもいいですか」

「まあ、ほどほどに」

 私が手帳を返すと、真知子は別の頁に自分の住所と電話番号を書いた。小さく、整った字だった。

 その頁を切り取り、私に差し出した。

「これは、エスさんが持っていてください」

「はい」

「合格発表の日のことも、決めなくてはいけませんから」

「はい」

「私から、すぐにお手紙を書きます」

「待っています」

 真知子は私の住所を書いた頁をもう一度確かめてから、手帳をポシェットへしまった。

「入りました」

「はい」

「今度は、本当に大丈夫です。絶対になくしません」

「はい」

 発車時刻を知らせる放送が流れた。

「もう乗った方がいいです」

「いやです。さっき、発車まで一緒にいてくださるって言ったじゃないですか」

 空いている私の手を握ってきた。

「言いましたが、万一乗り遅れたら大変です。荷物も重いし。途中で転ぶかもしれない」

「大丈夫なのに、もう。エスさんって心配性ですね」

「今日のあなたを見ていれば、多少の心配をするのは当然です」

「それ、どういう意味ですか」

 ちょっとにらんでくる表情も愛くるしい。

 私は答えず、鞄を持って電車へ乗り込んだ。

「ほら」

「はい」

 真知子は少し不満そうな顔をしながら、手は離さず、私の後に続いた。

 真知子が座る座席の横に鞄を載せると、私はホームへ戻った。

 真知子は窓際の席に座り、窓を開けた。

「ここにいてください」

「発車までいます」

「私が見えなくなるまで」

「はい」

「私はずっと手を振っていますから」

「はい」

 発車のベルが鳴った。

 真知子は窓から身を乗り出すようにして、私を見ていた。目はまだ赤かったが、もう泣いてはいなかった。

「必ず、お手紙を書きます」

「待っています」

「お電話、必ずくださいね」

「はい」

「次は合格発表の日に」

「また会いましょう」

「はい」

 電車が、ゆっくりと動き始めた。

 真知子は何度も手を振った。

 私も手を上げた。

 列車がホームを離れ、真知子の姿が見えなくなってからも、私はしばらく、その場を動けなかった。


     *


 この日のことを、私は日記には四行しか書かなかった。


 コインロッカーで悪戦苦闘している女の子がいた。

 その荷物を入れるのを手伝った。

 女の子は、お礼にお茶へ誘いたそうにしていた。

 面倒になって、私はその場を立ち去った。


 そして、一首の歌を添えた。


 文学的省略だった、と言えば聞こえはよい。

 実際には、友人たちも読んでいる公開日記に、駅で出会った女の子に呼び止められ、二人で喫茶店へ入り、そのまま松島まで出かけ、同じ扇子を買い、住所と電話番号まで交換して、次に会う約束をしたことを書くのが、気恥ずかしかっただけである。

 私はたしかに、一度はその場から立ち去ろうとした。

 けれど、真知子に呼び止められた。

 それから私は、とうとうその日一日じゅう、真知子のそばを離れなかった。

 日記には書かなかった。

 けれど、その日の真知子が、紅茶へ砂糖を二つ入れたことも、子どものキタキツネに似ていると言われて顔を真っ赤にしたことも、家族や犬の話をするときの声も、私と同じ大学へ行けるかもしれないと知ったときの笑顔も、私は覚えている。

 あの日の真知子を、私はいつまでも忘れることはない。


     * *


平成7年2月10日 午後7時


 若い女が、担架に載せられていた。

 紺色の毛布が胸元まで掛けられ、その下に細い身体の輪郭が続いていた。担架の脇を、母親と思われる女が小走りについていく。片方の靴が脱げかけていたが、直そうとはしなかった。

 母親は、毛布の外に出ている娘の手を、両手で包んでいた。

 何かを呼びかけているようだった。

 けれども、その声は、救急車のエンジン音と、周囲を行き交う人々の声に紛れて聞こえなかった。

 救急隊員の一人が担架を押し、もう一人が後ろから支えていた。

 誰も、娘の胸を押してはいなかった。口元に酸素を送っている様子もなかった。隊員たちは急いではいたが、何かを取り戻そうとしている者の動きではなかった。

 担架が救急車の中へ収められる。

 最後まで残っていた娘の手が、母親の手の中から離れた。

 母親は一度だけ、その手を追った。

 救急車の扉が閉まった。


     *


平成7年2月10日 午後6時30分


 エスは、その日真知子から届いた長い手紙を読み終わると、すぐに電話をかけた。

 何かがおかしい。

 そう思った。

 「ただいま電話に出ることができません。発信音のあとに、お名前とご用件を――」

 エスは受話器を置いた。

 ほとんど同時に、もう一度持ち上げた。

 番号は見なくても押せた。指が、これまで何百回とたどった順序を勝手にたどっていく。

 呼出音が鳴った。

 一回。

 二回。

 三回。

 出ろ。

 四回。

 真知子、出ろ。

 五回目の途中で、呼出音が途切れた。

「ただいま電話に出ることができません。発信音のあとに――」

「真知子」

 機械の声を遮って、エスは言った。

「真知子、いるんだろ」

 返事はなかった。

「もういいから。何も聞かないから。とにかく出てくれ」

 録音された女の声が、伝言を残す方法を淡々と説明している。

「真知子」

 発信音が鳴った。

「頼むから、出てくれ」

 それから何を言ったのか、エス自身にも分からなかった。

 受話器を置く。かけ直す。

 呼出音が鳴る。留守番電話に切り替わる。

 また置く。またかける。

 何度目かに、指が番号を押し間違えた。聞き覚えのない男が出て、もしもし、と二度言った。エスは謝りもせずに電話を切った。

 もう一度、真知子の番号を押した。

「ただいま電話に出ることが――」

 受話器を置いた。

 電話帳を引き寄せる。紙をめくる指が何度も滑った。

 目当ての番号は余白に書き込んであった。以前にも何回かかけ、真知子の父親が出て、短い挨拶を交わしたことがある。

 番号を押す。

 呼出音が鳴った。

 一回。

 二回。

「出てくれ」

 三回。

「お願いだから」

 六回鳴ったあと、女の声が流れた。

「ただいま留守にしております。ご用の方は、発信音のあとに――」

 真知子の実家の留守番電話だった。

「お父さん」

 エスは受話器を握り直した。

「お父さん、いませんか」

 発信音が鳴る。

「お母さん。エスです。真知子は、真知子はどうしたんですか」

 返事はない。

「誰でもいいから、出てください。真知子がいないんです。ずっと電話しているんです。長い手紙が来て、それで――」

 言葉が続かなかった。

 受話器を握る手が震えていた。

「真知子は」

 声が裏返った。

「真知子は、どこにいるんですか」


     *


平成7年2月10日 午後5時30分


 その日の夕方、エスは普段より少し早く家へ帰った。

 日が落ちてから、風はいっそう冷たくなっていた。駅から歩くあいだ、エスはコートの襟を何度も直した。空気は乾いていて、息をするたび、鼻の奥が痛んだ。

 二月に入ってから、厳しい寒さが続いていた。

 門を開け、いつものように郵便受けをのぞいた。

 大学からの知らせが一通と、新聞の勧誘のちらしが二枚。それから、一番下に青い封筒が入っていた。

 封筒には、真知子の見慣れた几帳面な字で、エスの住所と名前が書かれていた。

 取り出してみると、以前の手紙とは比べものにならないほど厚く、ぱんぱんに膨らんでいる。

 最後にその字を見たのは、いつだっただろう。

 七月に別れてから、もう半年が過ぎていた。

 そのあいだ、真知子から手紙が届くことはなかった。エスも出さなかった。

 別れた二人が、何を手紙で話せばいいのか、エスには分からなかった。

 真知子から手紙が来た。

 半年ぶりに。

 そのことを喜んだ自分が、ほんの少しだけいた。

 けれど、楽しい手紙ではないことは、封筒を持っただけで分かった。

 真知子のことだから、二人が別れることになったのは自分のせいだったと、延々書いているのかもしれない。

 あるいは、二人がどこで何を間違えたのか、驚くほど論理的に分析しているのかもしれない。

 7月のときにいたあの鈴木という男のことも、書かれているのだろうか。

 ただ、自分を責め立てる手紙ではないだろう。

 エスはそれだけは分かっていた。しかしその分つらい手紙なのだろうと予測した。

 真知子は、たとえエスに腹を立てていたとしても、感情に任せて言葉を投げつける人ではなかった。怒る理由を考え、自分の考えが正しいのかをもう一度考え、それでも伝える必要があると判断してから、ようやく口にする人だった。

 そういう真知子の折り目正しさが、エスは身が震えるほど好きだった。

 いずれにしても、気軽に読める手紙ではない。

 それなりの覚悟をしてから、開かなければならない。

 エスは封筒を手にしたまま玄関を開けた。

「ただいま」

 家には誰もいなかった。


 エスはそのまま、自分の部屋へ向かった。

 机の上には、以前、真知子から届いた葉書を立て掛けていた。

 松島の写真だった。青い海に、小さな島々が浮かんでいる。

 葉書の余白には、

  今度は、あなたが案内してください。

 と書かれていた。

 けれど、その葉書はもうなかった。

 別れてからしばらくして、真知子からもらった手紙や葉書は、すべて捨てていた。

 手元に残しておけば、いつまでも彼女を待ってしまうと思ったからだ。

 エスは封筒を机の上に置いた。

 

 以前なら、真知子からの手紙は、その日の用事をすべて済ませてから読んだ。

 後の時間をすべて真知子のために使うために。

 けれど、この日は待てなかった。

 エスはコートを脱いだ。

 部屋の暖房はまだつけていなかった。窓ガラスから冷気が伝わり、指先の感覚が鈍くなっていた。

 椅子に座る。

 封筒を持ち上げ、エスは人差し指を封の隙間に入れた。

 便箋を傷つけないよう、ゆっくりと糊を剥がしていく。

 中から、便箋の束が出てきた。

 一通の手紙というより、小さな冊子のようだった。

 淡い水色の罫線が引かれた、真知子が以前から使っていた便箋だった。

 ふだんと違い、表だけでなく、裏にも文字が書かれている。

 エスは束の厚みを指で確かめた。

 気になって、一枚ずつ数えた。

 十四枚あった。

 すべて両面に書かれている。

 文字は、いつもより小さかった。

 行と行の間を惜しむように、細かな字が並んでいた。書き損じはほとんどなく、ところどころ、インクの濃さがわずかに違っている。

 一度に書いたものではないのだろう。

 何日もかけて、少しずつ書き続けたのかもしれない。

 エスは読み始めた。


     *


えすさん


 あなたとお別れしてから、最後のお手紙を書こうと思いました。

 でも、あなたに何を伝えればいいのか、最初は分かりませんでした。

 書き始めては破り、また書き始めては破りました。あなたへのお手紙を書くのに、こんなに長い時間がかかったのは、初めてです。

 私は、あなたと出会い、そしてお別れするまでのこと、そしてその後、今日までのことを書こうとしました。

 そうすれば、なぜ私たちがお別れしなければならなかったのか、あなたにも分かってもらえるような気がしたのです。

 私たちは、何を間違ったのか。

 どうすれば違う結果になったのか。

 けれど、書いているうちに、だんだん分からなくなりました。

 私にも分からないことを、あなたに分かって欲しいと願うのは、ずるいことだと思いました。

 それに私は、あなたがこの手紙を読んだときに、私たちの最後のことばかりを思い出すような手紙にはしたくありませんでした。

 私たちには、もっとたくさんのことがありました。

 あなたと出会った日のこと。

 初めて二人で歩いた日のこと。

 あなたから初めて手紙が届いて、嬉しくて何度も何度も読み返したこと。

 初めて電話で夜を明かしてしまった日のこと。

 少し泣いてしまったこともありました。

 たくさん笑ったこともありました。

 私は、あなたと私の思い出を、ここに書いておこうと思います。

 あなたが忘れてしまったことも、私が覚えています。

 もし私が間違えていても、あなたが直してくれるでしょう。

 だから、あなたとの出会いから書いていこうと思います。


 あの日、私たちは、二人とも試験を終えたばかりでしたね。

 試験が終わったというだけで、私は世界が急に明るくなったような気がしていました。

 出来がよかったのか、悪かったのか、自分でも分かりませんでした。でも、もう答案は提出してしまいました。

 合格発表の日までは、何もすることがありません。

 もう一問も解かなくていい。

 もう一文字も書き直せない。

 あとは帰るだけでしたから、私はこの機会に観光をしていこうと思ったのです。

 私は、大きな荷物を抱えて、仙台駅のコインロッカーの前に立っていました。


(プロローグ 了)

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