第9話:誇りと巨大で空っぽの胃袋
王都エリュシオンを見下ろす丘の上に張られた、飾り気のない簡素な天幕。
そこへ、武装を解かれたシュヴァルツェイン帝国軍の将軍が、重い足取りで引き立てられてきた。
かつて王都を無血開城させた無敵の将軍の面影は、見る影もなかった。
頬はげっそりとこけ落ち、誇りであったはずの黒鋼の鎧は泥と脂にまみれ、酷い悪臭を放っている。
それでも彼は、武人としての最後の矜持を保つように、奥歯を噛み締めながら鋭い眼光で天幕の奥を睨みつけた。
「……貴様が、エリュシオンの第7王子か」
将軍の枯れた声が響く。
その視線の先。長机に座るアルス・ヴァン・エリュシオンは、手元の羊皮紙から目を離すことすらなかった。
「用件を手短に言え。俺は今、明日王都の市民に配給するパンと豆の量の計算で忙しい」
羽ペンを走らせながら淡々と返すアルスの態度は、勝利者の傲慢さというよりも、ただの事務作業を邪魔された役人のようであった。
その徹底した無関心さに、将軍の顔に屈辱の色が浮かぶ。
「……我らシュヴァルツェイン軍は、この王都からの撤退を受け入れる。だが、無条件降伏ではない!」
将軍はひび割れた唇を震わせ、声を張り上げた。
「我らにはまだ、数万の精鋭が残っている! たとえ飢えていようと、追い詰められた獣が死に物狂いで牙を剥けば、貴様らの軍とてただでは済まんぞ! ゆえに、我らは『武装したままの撤退』を要求する。武人の名誉を汚すことは断じて許さん!」
それは、完全に補給を絶たれた敗軍の将の、最後の強がりだった。
護衛として控えていたガイウスが「まだ寝言を言っているのか」と鼻で笑い、傍らのロザリアが扇で口元を隠して冷笑を漏らす。
しかし、アルスだけは表情一つ変えなかった。
「……数万の精鋭、だと?」
ピタリと羽ペンの動きを止め、アルスは初めて顔を上げた。
冷たい灰色の瞳が、将軍を真っ直ぐに射抜く。
アルスは手元にあったもう一枚の羊皮紙を、無造作に将軍の足元へと投げ捨てた。
「その紙を見てみろ」
将軍が怪訝な顔で、泥だらけの地面に落ちた羊皮紙を見下ろす。
そこには、王都周辺の詳細な地図と共に、帝国軍が駐留している陣地の状況が、信じられないほど正確な『数字と光の点』で書き込まれていた。
「お前たちの陣営では、すでに三日前から輜重用の軍馬を殺して食い始めているな。だがそれも昨日で尽きた。水も枯渇し、濁った泥水をすすった兵士の間に深刻な感染症が出始めている。……違うか?」
「な、なぜ……それを……っ!?」
将軍の顔から、さぁっと血の気が引いた。
陣営の奥深くに隠していた極秘の窮状が、兵の数から病人の割合に至るまで、すべて筒抜けだったのだ。
「今の体力で、その重い黒鋼の剣を何度振れる? 三回か? 四回か? ……牙など、最初から残っていない」
アルスの声には、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、残酷なまでの『事実』だけがそこにあった。
「お前たちはもはや軍隊ではない。ただの『巨大で空っぽの胃袋』だ。そんなものに、名誉などというカロリーのないものを主張する権利はない」
「くっ……! き、貴様ァ……! シュヴァルツェインの誇りを愚弄するか!」
「取引の条件は一つだ」
激昂しかけた将軍の言葉を、アルスは無慈悲な宣告で叩き斬った。
「武器と鎧、残っている軍馬をすべてこの場に置いていけ。代わりに、国境の山脈まで歩けるだけの『固パンと水』を支給してやる。……今すぐその重い鎧を脱いでこの麦粥をすするか、誇りを抱いたままその空っぽの胃袋を喰い破るか、好きに選べ」
しんと、天幕に沈黙が降りた。
将軍の握りしめた拳から、血が滴り落ちる。
武人としての誇りを捨てることは、死よりも辛い屈辱だった。
しかし、彼の下せる決断は一つしかなかった。
背後には、飢えに苦しみ、泥水をすすって死にかけている数万の部下たちがいるのだ。先ほどの突撃で無惨に散った兵士たちの悲鳴が、まだ耳の奥にこびりついている。
「…………我々の、負けだ。……武器も、鎧も、すべて置いていく」
ガシャン、と。
誇り高きシュヴァルツェインの将軍が、泥にまみれた地面に両膝をついた。
武力による決戦でもなく、魔法による大虐殺でもない。
ただ圧倒的な「兵站」と「情報」の前に、無敵と謳われた帝国軍が完全に屈服した瞬間であった。
「賢明な判断だ。契約成立だな」
アルスは再び新しい羊皮紙を引き寄せ、ペンを走らせ始めた。
「ガイウス。彼らに固パンと水を配給しろ。暴れる気力もないだろうが、列は乱させるな」
「はっ。承知いたしました」
「ロザリア。置いていった黒鋼の鎧は、すべて炉で溶かして新しい農具と大鍋に作り変える。鍛冶職人を手配しておけ」
「ふふっ。帝国の誇りを溶かして、畑のクワにするのですね。本当に、殿下はどこまでも合理的で……最高に悪趣味ですわ」
精神論を完全に排し、ただ数字と合理性だけで敵を圧殺する。
これが、最弱の王子が繰り広げる無敗の戦記の、ほんの序章に過ぎないことを、大陸の者たちはまだ誰も知らなかった。




