第8話:愚者の帰還と、剛剣の咆哮
王都エリュシオンの南へと続く街道には、眩いばかりの光景が広がっていた。
金や銀の豪華な装飾が施された白馬に跨がり、不遜な笑みを浮かべる男。
エリュシオン王国第1王子、シルヴァ・ヴァン・エリュシオン。
その顔には、隠しようのない下劣な野心と、浅薄な勝利への確信が満ちていた。
「急げ、急げ! 鈍足な歩兵どもめ、私の栄光に遅れるな!」
シルヴァはきらびやかな鎧をまとった近衛兵たちを率い、大声を張り上げて進軍を急がせていた。
数日前、鉄門関の泥濘において、十万の軍勢をあっさりと見捨てて自ら真っ先に逃げ出した男である。
敗残兵たちの血がまだ乾ききらぬうちに、彼は王都の異常事態を耳にした。
シュヴァルツェイン帝国軍が補給不足で自滅しかかっている。
その情報だけを都合よく解釈し、「今こそ王都を奪還し、この私の武勇を歴史に刻む好機」と勘違いして、命からがら集めた残存部隊を率いて戻ってきたのだ。
彼にとって、戦争とは兵の命を賭けたチェスではなく、ただの手柄の奪い合いでしかなかった。
アルスたちが緻密に作り上げた「兵站による飢餓包囲網」の価値など知る由もない。
ただ、無人の野となった王城の玉座に一番乗りすることだけを考えていた。
「殿下! 前方に王都の南門が見えてまいりました! ……ですが、様子が奇妙です。門が完全に開放されており、帝国兵の姿が――」
物見の斥候が血相を変えて戻り、報告を上げる。
だが、その言葉を最後まで聞く前に、シルヴァは輝く長剣を天高く振り上げた。
「ハハハ! 門を開けて待っているとはな! 飢えた敗残兵どもめ、戦意を失って逃げ出す準備でもしているのだろう! 好機だ、全軍突撃! 哀れなネズミどもを踏み潰してしまえ!」
功名心と欲望に目が眩んだシルヴァの軍勢が、地響きのような歓声を上げて城門へと殺到する。
しかし、彼らは決定的な、そして致命的な勘違いをしていた。
檻の中で腹を空かせ、極限状態に追い詰められた獣を、外から不用意に突けばどうなるかということを。
「……飯だ」
開け放たれた城門の、深い暗がりから。
ぬらりと現れた帝国兵たちの目は、およそ正気のものとは思えない、異様な血走りを帯びていた。
ロザリアの徹底した工作によって、王都の市民からの食糧徴収は完全に失敗。
いよいよ餓死の二文字が脳裏をよぎり、極限の飢餓状態に追い込まれた彼らは、降伏を選ぶ理性すらとうに失っていた。
彼らに残されていたのは、ただ一つ。「目の前の肉を喰らう」という、剥き出しの生存本能のみ。
「飯を持ってきたぞォォォッ!! エリュシオンの肉だァッ!!」
死に物狂いの絶叫。それが数千、数万の地鳴りとなって響き渡る。
黒鋼の鎧を泥まみれにした帝国兵たちが、飢えた狼の津波となって、シルヴァの軍勢に文字通り狂い懸かってきた。
空腹による限界を突破し、ただ生きるためだけに剣を振り回す彼らの戦力は、数値上の計算を遥かに凌駕する狂気に満ちていた。
「ひ、ひぃぃっ!? な、なんだこいつら! 本当に人間か!」
「助けてくれ! 盾が、盾ごと噛み砕かれるッ!」
ただの手柄稼ぎのつもりで、華美なだけの装備で着飾っていたシルヴァの近衛兵たちは、その圧倒的な「狂気」に呑まれ、一瞬にして前衛の陣形を瓦解させられた。
命のやり取りをする覚悟のないお坊ちゃん兵に、飢えた獣の突撃など防げるはずがなかった。
あっという間に前線は食い破られ、シルヴァの跨る白馬の周囲まで帝国兵が殺到する。
血と涎を滴らせた帝国兵の巨漢が、シルヴァの首を狙って、錆びついた黒鋼の長剣を力任せに振り下ろした。
「ひっ……! 嫌だ、死にたくない! 誰か、誰か私を守れェッ!」
無様な悲鳴を上げ、シルヴァは馬から転げ落ちた。
美しい金色のマントを泥に染め、地面を這いずり回る。
その頭上へと、肉を求める刃が迫った――その、瞬間だった。
――ドゴォォォォンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの衝撃音と共に、シルヴァの目の前にいた帝国兵の巨体が、文字通り「粉砕」されて吹き飛んだ。
それだけではない。背後に続いていた十人近い帝国兵の集団が、まるで暴風に巻き込まれた木の葉のように一斉に宙を舞い、肉の塊となって地面に叩きつけられた。
「……チッ。手際よくやれと命令されているんだ。これ以上、俺の手間をかけさせるな」
激しく舞い上がった土埃の向こうから、重い足音が響く。
現れたのは、黒鈍色に光る、大人の胴体ほどもある規格外の剛剣を肩に担いだ長身の男――猛将ガイウスであった。
彼の背後には、エリュシオン王国の軍装でありながら、泥ひとつついていない真新しい漆黒の鎧を纏った、顔色の良い精鋭部隊が、寸分の乱れもなく整然と整列していた。
「ガ、ガイウス……!? おお、ガイウスか! 辺境に左遷されたと思っていたが、よくぞ私を助けに来た! さあ、その狂人どもを今すぐ皆殺しにしろ! 私の命令だ!」
泥を顔中に塗りたくったまま、我が世の春が来たかのように喚き散らすシルヴァ。
そんなシルヴァに対し、ガイウスは冷ややかな、それこそ路傍の虫ケラでも踏み潰すかのような視線を向け、吐き捨てた。
「勘違いするな、無能」
「……な、何だと……っ!?」
「俺はあんたを助けに来たわけじゃない。第7王子アルス殿下の『計算された完璧な盤面』を、あんたの無様な死体で汚すわけにはいかないんでな。殿下の帳簿を汚さないために、ゴミ掃除に来ただけだ」
その言葉に、シルヴァは顔を真っ赤にして激昂しようとする。王族である自分への、最大級の不敬。
だが、ガイウスはもはや彼を視界の端にすら入れていなかった。
彼は剛剣を構え、目の前に群がる帝国兵の群れへと向き直る。
「さて、シュヴァルツェインの帝国兵ども。腹が減って、もう剣の重さも分からなくなっているだろう?」
ガイウスの肉体は、アルスが用意した最高カロリーの食事によって完璧に満たされていた。
その手に握られた黒鈍色の剛剣は、アルスの計算によって生み出された、絶対に折れない最強の鉄。
最底辺と蔑まれた王子の、完璧な「兵站」の加護を一身に受けたガイウスの力は、もはや通常の武人の枠を遥かに超越していた。
「――楽にしてやる。オォォォォッ!!!」
猛将の咆哮が戦場を震わせる。
その直後、放たれた一閃は、狂戦士たちの戦線を文字通り「消滅」させた。
防具ごと、肉体ごと、鉄の壁を紙のように薙ぎ払っていく剛剣の輝き。
先ほどまでシルヴァの軍勢を絶望のどん底に陥れていた狂った獣たちが、悲鳴を上げる間もなく、ただの物言わぬ骸へと変わっていく。
圧倒的な、蹂躙。
「……ば、化け物……これが、あの『臆病者の部隊』なのか……?」
泥まみれのまま、恐怖で股間を濡らしたシルヴァは、腰を抜かした状態でその圧倒的な光景を見上げるしかなかった。
自分が見下し、辺境へ追放したはずの第7王子。そしてその配下。
彼らがすでに、自分など到底手の届かない、世界の理すら書き換えるほどの絶対的な存在になっていることを。
愚かな兄は、この時になって初めて、骨の髄まで理解させられたのだった。




