第7話:麦の包囲網と、崩れゆく黒鋼
王都エリュシオンの夜は、かつてないほど奇妙なコントラストに包まれていた。
豪奢なはずの王城や貴族街に駐留するシュヴァルツェイン帝国軍は、暗闇の中で腹の虫を鳴らし、寒さに震えている。
一方で、最も貧しいはずのスラム街の路地裏からは、香ばしいパンの焼ける匂いと、温かいスープの湯気が立ち上っていた。
「……おい。なんだ、この匂いは」
夜間巡回を命じられた帝国兵の一人が、フラフラとした足取りで呟く。
彼らはもう三日もまともな食事を摂っていない。
極限の飢えで幻覚でも見ているのかと、自らの鼻を疑った。
だが、路地裏の奥を覗き込んだ彼らは、信じられない光景を目撃する。
「あっちの路地にも配れ! 第7王子殿下からの配給だ! 今日は豆と豚肉の煮込みもあるぞ!」
ボロボロの服を着たスラムの住人たちが、木箱から次々と真新しい食糧を取り出し、満面の笑みで頬張っていたのだ。
「な、なぜだ……っ! なぜ王都のゴミ共が、あんな上等な飯を食っている!」
帝国兵たちは血走った目で剣を抜き、スラムの住人たちに襲い掛かろうとした。
「その飯を寄越せ! さもなくば斬り捨てるぞ!」
しかし、スラムの住人たちは怯えるどころか、薄笑いを浮かべて帝国兵を見つめ返した。
「やれるもんならやってみな。……お前ら、剣を振る力も残ってねえだろ?」
その言葉通りだった。
重い黒鋼の鎧を着たまま数日間飢えに苦しんだ帝国兵たちの腕は、剣を構えることすら満足にできないほど震えていた。
対して、腹一杯に食事を摂ったスラムの若者たちは、手に入れたばかりの新しい長剣や鉄パイプを構え、ギラギラとした目で彼らを取り囲む。
「ひっ……!」
一歩後ずさった帝国兵の足元に、コロン、と丸いパンが転がってきた。
香ばしい小麦の匂いが、鼻腔を強烈に刺激する。
「食いてえか?」
スラムの顔役が、見下すような声で笑う。
「我らが主からの伝言だ。『武器と鎧を捨ててエリュシオンに寝返るなら、腹一杯の飯を食わせてやる』ってな」
「……っ!」
帝国兵たちの顔に、激しい葛藤が走る。
最強の軍事国家シュヴァルツェインの誇りか。
それとも、目の前の温かいパンか。
だが、極限まで飢えた胃袋の前に、誇りなどという概念は無力だった。
ガシャン。
一人の兵士が、手から剣を取り落とした。
それを皮切りに、次々と黒鋼の鎧が脱ぎ捨てられ、冷たい石畳の上に転がっていく。
「……頼む。ひと口、ひと口だけでいいんだ……!」
無敵を誇った黒鋼の獣たちが、パンの欠片を求めて泥に這いつくばる。
武力による制圧でもなく、魔法による大虐殺でもない。
ただ「食糧の偏り」を人工的に作り出すだけで、アルスは敵兵から戦意を、そして忠誠心すらも根こそぎ奪い取っていた。
◆
王都の城壁の外。
闇夜に紛れて設営された前線基地の天幕で、アルスは羊皮紙を見つめていた。
「殿下。王都内の帝国兵の光の点が、次々と消えていきます。……いや、色が反転しています。彼らは武装を捨て、完全に我々の支配下に入りました」
報告するガイウスの声には、底知れぬ恐れと敬意が入り混じっていた。
「当然だ。人間は胃袋に逆らえない」
アルスは淡々と告げ、羊皮紙の上に新たな印を書き込む。
「敵の内部崩壊は完了した。……そろそろ、一番の『愚者』がこの盤面を荒らしにやってくる頃合いだ」
アルスの冷たい灰色の瞳が、王都の南から迫る「不規則な光の群れ」を静かに捉えていた。




